プロローグ その②
十二月二十九日、師走。
年の瀬に行われる日本のダートグレード競争で、その年を締め括る総決算レース。
それが、東京大賞典である。
開催は地方競馬ながらも国際GⅠに位置付けられており、国内外のホースマンからも高い注目を集めるレースの一つだ。
近年では、地上波でのTV中継も行われるようになりさらにその人気ぶりが加速しつつある。芝の有馬記念と共に、日本競馬界が誇る二大古馬GⅠ競争として年末の風物詩にはもはや欠かせない存在なのだ。
中央の先輩方や普段から大井を本拠地に活動している専属地方騎手の皆さん。他にも全国の各競馬場から競馬関係者や砂上の雄たる競走馬たちが一堂に会する光景はまさに壮観である。そして、この大お祭りの晴れ舞台に俺もいち騎手として参加させてもらえる運びとなった。
この日のために、イメージトレーニングは数え切れないくらいこなしており同様に、相棒の馬とともにみっちり調教を行ってきている。今回の俺のパートナーであるミラージュオアシス号とは騎手デビューの頃からの付き合いだ。御年十六歳で、人間で言えばアラフィフのおっさんも良いところな超古馬である。思い起こせば五年前、調教師をしてる親父の厩舎に所属したばかりな時に始めて相まみえた。出会った時点でとっくに十歳を越えていて、そこにいる誰よりも年長者だった。そして、そんな馬の
他でもない、親父直々の采配だった。「競馬を教わってこい」とだけ、言われたその日からベテラン・ルーキーコンビが織りなす二人三脚な競馬生活の幕が上がる。全国各地の競馬場を股にかけたドサ周り。これまで共に出走したレースの走行距離と、地方から地方へ繰り出した総移動距離、累積すれば地球半周分は下らないであろう。
まさに気の遠くなるような長い旅路、そしてそんな苦楽を伴にしてきた俺たち人馬一体の舞台。その集大成となる場所こそが今年の東京大賞典だった。
ミラージュオアシスと共に駆け抜けた五年間。曲がりなりにも進み続けた道中で目にした名勝負の瞬間の数々、例え中央だろうが地方だろうが
それもこれも偏に、ミラージュオアシスと巡り会えたからこそできた。ミソッカスで右も左も覚束ぬ新人でしかない俺に、ミラージュオアシスは競馬の世界で狼煙ともなり道標ともなってくれた。
今ではそこそこ名前も競馬ファンの皆に知られるようになり、ネット上の競馬界隈では「地方の交流重賞で名前をよく見かける謎のコンビ」として親しまれている。
「競馬に絶対はない」という鉄則があるように、いつだって上手い騎手と強い馬の取り合わせが人気を博すとは限らない。へそを曲げることなくどんな時もひたむきに頑張り続けるへっぽこ騎手にくたびれた古馬。そんなうだつが上がらない連中を見ては、捨て置けず愛さずにはいられないという奇特なファンも少なからず存在する。
その甲斐もあり、俺とミラージュオアシスも東京大賞典という歴としたGⅠの大舞台に立たせて貰えている。
自分たちの力だけでつかみ取った機会では断じてない。
だがどんな形であれ年末の大一番に与することに変わりないのだ。いつものように俺は相棒の背に跨り、そのリズムに合わせるようにして手綱を動かす。ミラージュオアシスは一切躊躇せずに、確かな自信と勇気を蹄跡に残してきれいにゲートの中へと入っていく。
泣いても笑っても、もう後戻りは許されない。そうして、狂乱の始まりを告げる発馬機からけたたましい音が発せられるとともに勢いよくゲートが開かれた瞬間。俺たちは砂上にて修羅と化す。
☆☆☆☆☆☆
狂騒の余韻も覚めやらぬ祭典の後。控え室にはレースを終えたばかりな他の騎手や調教師たちが集う。さらには馬主さんにマスコミなんかも加わり所々で賑わいを見せている。
室内奥に壁掛けられたTVモニターが一台。
延々と画面上に映るCSの競馬専門チャンネル。今回の東京大賞典のために編成された特別番組が開かれ、進行役を務める男性キャスターと女性タレントの両人が揃って液晶越しに躍っている。
今日のメインレースで勝利の栄光に輝いた一頭と一人を称えるべく、タレントの女性が眩しい笑顔で次のように振る。
『それでは先ほど行われました東京大賞典の模様を改めてお送りいたします』
次の瞬間。白を基調にした番組セットに覆われたスタジオから一変して褐色に彩る砂のグランド・大井競馬場のダートコースへと画面は移る。ちょうどゲート前では、競走馬に跨がる騎手たちが相次いで呼吸と歩様を整えるために周回する輪乗りをしていた。しばらくしてそれを終えるとセオリー通りゼッケンが奇数番である馬たちがまず先に発馬機へ収まる。そして偶数番の馬たちも続々とゲートイン。映像アーカイブの実況音声は一連の光景に枠入りいたって順調ですと紹介する。大井競馬場で開かれます農林水産省賞典・東京大賞典(国際GⅠ)、
「しかし、今年はどの馬もゲート前でうるさくしなかったなぁ」「寒くてそれどころじゃなかったんだろ」「正直スムーズにゲート入ってくれただけでこっちは大満足さね」
室内の一角にてレースのリプレイ映像を元に記憶を追体験する地方の各ベテラン騎手たちから声が挙がる。
同様に俺もTVモニターのすぐそばにて配置されたパイプ椅子に腰掛け観戦を極めていた。
封を開けたばかりの「おしるこ」とデザインされたスチール缶を温もりごと両手で握りしめ口をつける。
しばらく眺めていると、画面上ではほぼ全ての馬たちがゲートインを済ませ大外枠の馬一頭を残しスタートを控えていた。最後に⑯のゼッケンを着させられた馬が画面端から騎手ともども姿を現す。鹿毛の毛並みをなびかすミラージュオアシスが、俺の手綱さばきに従い大外枠に設けられた一頭分の空間をゆっくりと埋めていく。
「もう始まるぞ? 観るんじゃないのか」
「……はい」
ボトル缶のコーヒーをあおりながら村主さんが、呼びかけてくる。気後れがちに返すのがせいぜい関の山だった気まずい俺。
全十六頭態勢完了と、実況が告げた刹那。一斉にゲートが開かれ全頭がほぼ同時に外へ放たれた。
出遅れは————一頭。若干内枠寄りの三枠五番ゲートから、芦毛馬が他の十五頭と比べてワンテンポ遅ればせてスタートを切った。
『スタートしました……ややバラつきが観られます。⑤番の、マツノライメイは最後方からとなっています』
「おうおう。しくった、しくった」「確かトモさんが
同じくモニターを眺めている面子から出遅れを煽る奴、瞬時に目星をつけ追及する奴、そしてそれら飛んできたヤジを受け不甲斐なさのあまり頭を抱える出遅れた張本人。レースはまだ序盤もいいところだが、現場はさっそく面白い空気で満ちようとしている。
あらぬ盛り上がりを見せ始めたが、なおもレースは続く。直線を突き進んでから最初のゴール板を通過、十六頭が一斉に第一・第二コーナーを置き去りにしてあっという間に向こう正面へと差し掛かる。
反対側の直線も半ば過ぎてから、一〇〇〇メートルの通過タイムがアナウンスされる。おおよそ一分一秒とのことで、つまりは至って平均ペースだった。
レースもやがて佳境を迎えつつある中、俺の視線はTVから外れ室内の床板へ注がれていた。これから流れ出てくるであろう場面を思い返すとそれだけで身体が勝手に丸まってしまう。後悔先に立たず———実に言い得て妙だと思った。ワックスが乾きたてほやほやな床上を窺うと、そこへ居座ってからずっと突き刺さったままな二足のブーツ。開いた足元の間から、流れた金髪越しに苦虫を嚙みつぶしたような苦悶に満ちた俺の面が
そんな時、村主さんからいつもの調子で話しかけられた。お隣の先輩の方へ向き直る。
「なんだ。腹でも痛いのか」
「いや、違いますけど」
「ずっと脚見ていたろう。ふくらはぎ肉離れにでもなったか。言え、どこが悪いんだ」
「どこも悪くなんかないです。ただちょっと疲れたくらいで」
言葉を続けようとした矢先、「
じりっと身を寄せられ、今にも触れ合いそうな間隔で語り掛けられる。
「思わせぶりな態度でぶらさがっているくらいなら、せめて手前のレース結果くらい見届けたらどうだ」
「わかってますって」
「いーや、わかってない。何の気なしに探っていたが、お前レース終わってから今の今までずっと閉じ籠ってる。言っただろ、アンニュイになるなって」
「すみません、もう放っておいてください。それに今のままじゃいけないことくらい自分でも分かっていますから」
「……別に悪態くらいいくらついても一向に構わん。だがな、乗り続けた愛馬には筋を通せよ。今日が最後ならなおさらだろうが」
「それは……」
もっともらしい言い訳を出そうとして、引っ込めた。主に先輩から感じられる圧倒的な場数の違いにより裏打ちされた競馬人としての熱意。それと、己が胸のうちにて渦巻く心を通わせた相棒への煩わしさが喉仏あたりまでこみ上がってきて言葉をせき止められたせいだ。
どうしようもなく椅子にもたれる。見上げた先にて、今の今まで存在そのものが忌々しかったはずのTVモニターから相も変わらずレースの模様が流れ続けていた。
先ほどまでひとり堂々巡りしていた時と比べマイナスベクトルの感情を抱かなくなっている自分に気づく。すっかり憑き物が落ち、気持ちも和らいだのでさっそくTV観戦を再開する。
画面内では今まさに、各馬たちが第三コーナーへ差し掛かろうとしていた。
白帽を掲げる①番のゼッケンが、逃げて展開を
一頭の逃げ馬の後から、複数頭の先行馬によって支配がスムーズに移る。誰もがそんな青写真を思い描いただろう。
しかし事態は混迷を極める事になる。一頭の老兵が突如として参戦してきたことにより、ささやかなる平穏は破綻した。
『第三コーナーを曲がり①番 モノクロームの先頭ここで終わり————おおっと!? 馬郡の中段から外へと抜けて⑯番 ミラージュオアシスがここで一気に先頭へ躍り出たぞ! これはどうなんでしょうか。いったいどうなる今年の東京大賞典、他の各馬たちも色気づいてまったく先が見通せません!』
「出たよ。せっかく俺とモノクロームが築いてきたスローなペースをぶっ壊して、レースを滅茶苦茶にしたの」「早仕掛けが過ぎる。……そもそもアイツ勝つ気あったんか」「かの親父は、泣く子も黙る伝説の元・
控え室の片隅にて、地方の古株の皆さんから相次いでレース中俺が執った行動について不満が露わになる。
正直こうなる予想は最初からついていた。
それこそ無意識に目をそらし、少しでも自分から遠ざけようとしてたくらいには。不満や苦言がとめどないのだが、必要以上に暴言や中傷が噴出するまでに至らなかったことはせめてもの救いである。
とはいえ立場が一方的であるのは変わらず俺はすっかり肩身が狭くなってしまった。
縮こまっていると、一も二もなくすぐそばにいた先輩に肩を抱き寄せられて今朝と同じく厚い胸板にまたもや頭を押し抱かれる。
「よっしゃあ、⑯番! ちと早すぎるかもしれんがそのままぶっぱなしちまえ。初めての大舞台にしてはナイスファイトじゃねえか! 行け行けぇ、ルーキー!」
声を張り上げ同室内にいる人々全員に行き渡るよう、ガヤを飛ばす先輩。直後そのにわか地味た発言により現場はどっと笑いが起きた。村主さんはまるでその状況を楽しんでいるようにガハハと豪快に自らも一笑する。強めに肩を引き付けた先輩の右手からは微塵も握力は感じられずあるのは温もりと感触だけだった。
そうこうしている内に、レース映像は全十六頭中俺が暴走を許してしまったミラージュオアシス一頭と猛追する残り十五頭を引きつれる形で第四コーナーへもつれ込む場面に。
『第四コーナー曲がって、最後の直線。いの一番に飛び出した⑯番 ミラージュオアシスと若武者・
最後の直線に踏み切った時点で、先頭を主張する俺と後続との間にはまだ三~四馬身の差。しかし、徐々にその差を縮められ結局残り二〇〇メートル手前で後から来た馬たちに並ばれてしまう。
脚は完全に上がり、もう何一つ残っちゃいない。どれだけ手綱を短く絞ろうが、何発も鞭を見舞おうが無意味である。早々に手札を使い切ってしまったせいで、先へ行く後続たちの背中を見届けながらじわじわ沈んでいく事しか俺には許されない。
『残り三〇〇を切り、後続の差し馬たちがその差をだんだんだんだん埋めていきます。ミラージュオアシス脚色はどうだ!? 後続勢たちが、三馬身、二馬身、一馬身、半馬身……並んだ。並んで、⑯番 ミラージュオアシスを躱した! 残り二〇〇、三頭三つ巴の競演。内に④番 オープンセサミ、外からは⑩番 ウィンドオブギブリ、間挟まれて②番 ロンメルも突っ込んで来た! さらに大外通って⑦番 カサブランカがここでやってきたぞォ! あと一〇〇! ④番 オープンセサミか、それとも⑦番 カサブランカか!? ……カサブランカだァ————!』
レースの勝敗が決してからも、続々とその他大勢がゴール板を通り過ぎる。ピンク帽を被った最後の一頭が入線してから、画面は上位五着まで先着した馬たちの順位およびその着差を表示する掲示板へ切り替わる。
一着はもちろん⑦番 カサブランカ。クビの差で僅かに④番 オープンセサミは二着。そのすぐ一馬身後ろにて、⑩番 ウインドオブギブリがいてさらに二分の一馬身下がったところが四着に喰いこんだ②番 ロンメル。
五着に滑り込んだのは⑪番 デスヴァレーで前との差は一と四分の三馬身程と、キャスターの声つきで「確定」の赤文字を刻んだ順位表をカメラは捉えていた。
……ちなみに、俺。というより⑯のゼッケンを翻すミラージュオアシスは先着馬から大きく離されての入線である。着差および順位は大差で最下位も最下位、十六着だった。
☆☆☆☆☆☆
レースを終え、俺と先輩はタクシーに乗り合い大井競馬場を後にする。
車内では、今朝と同じように会話に華を咲かせ同舞台にて並び立った戦いの模様をふたりして振り返っていた。
「この度は、四着入賞おめでとうございます。村主さん」
「ん? ……おお、まーな」
掲示板入りを果たしたはずの先輩はなぜか顔色ひとつ変えず、むしろやりにくそうに見える。気になったので聞いてみることにした。
「どうかしましたか。あんまり嬉しくなさそうですけど」
「つっても馬券には絡めなかったからな」
「五着以内だから賞金手に入ったじゃないですか! 一千万ですよ、一千万円」
「金も大事なんだが、ここまで来たらきっちり勝っておきたかったというか……せめて勝ち負けには持ってこれるだろうと今日は自信があったんだ」
「やっぱり村主さんくらい競馬をじっくりやっていると、GⅠの大舞台で入着しても満足までにはいかないものなんでしょうか?」
聞くと先輩は「よせやい」とどこか照れくさそうに口をたたく。
「俺そんな、大層な代物じゃねぇって。勝負に身を置けば誰だって勝ちたいだろ。それに実況も言ってたけど、今回の東京大賞典は波乱も起きたからそれに合わせなきゃいけなかったから。本当、必死だったぜ」
「それについては謝らせて下さい。俺のせいでレースが壊れてしまい申し訳ございません」
いいっていいって、と。
ひどく畏まった様子の自分を前に、漂々と宥める先輩。
本音はどう思っているかはともかく、決してこちらを貶すことのない相手方の対応で完全に頭が上がらない。
ともあれ、調整ルームまでの道中は終始こんな感じで概ね好感触だった。
実に反省会に似つかわしくない反省会という名の駄弁り会はなおも続く。互いにひざを突き合わせての議題は俺がレース本番で暴走に至ってしまった件についてである。
「第三コーナー手前でスパートしてた訳なんだが、ありゃあなんだ? 朔八どうしたかったんだよお前」
「いや、何かしてやろうとは特に考えていなかったんですけど……正直言ってレース中の記憶が曖昧で」
「なんだよお前。覚えてないとでもいいたげだな。どうせ頭の中真っ白だったとかそんなんだろ」
「ゲート開いた瞬間にもう、本来の自分のベストな騎乗スタイルが思い出せなくなってしまったんです」
「いわゆる『極度の緊張と舞い上がりのせいで身体カチンコチン病』ってやつな。こればっかりは慣れと場数でカバーするっきゃない」
腕組みしながら両目を固くつむり何度も深く頷く先輩。
真剣さはそのままにどんな時でもユーモアさを忘れない姿勢が心底羨ましく思えた。
非常に簡潔かつ的確なアドバイスに対しすぐさまなるほどと返す。すると村主さんは俺を訝し気に見つつも笑ってフォローしてくれた。
その後、話は進み今回開催された東京大賞典にて見事一着で優勝を果たした⑦番 カサブランカの主戦を務めた騎手について話題が及ぶ。
「
「九州から遠路はるばる上京をはたし、大井一筋この道およそ半世紀————か。それだけでも十分すごすぎるのに、腐っても俺ら中央勢を全員差し置いてGⅠも搔っ攫っちまうとか。ありゃ、バケモンだね」
「ホント、あの人の騎乗見てたら年齢なんて関係ないんだなって思いますよ」
ため息交じりに喋っていると、先輩は少し目を逸らし一瞬だけ遠くを見てから口を開く。
「……俺もあんな風になれるかな」
「生涯現役宣言ってやつですか? ひょっとして」
「そこまで大げさに言ったつもりはないけど。でもよ、俺たち馬乗りといえば身体が資本だもんでさ。単に元気なウチはこの領分をそう簡単に手放したくないなって。一種の、独占欲ってやつか」
「確かにロマンですよねぇ、ずっと現役ってのは。覚田さん、表彰式中のインタビューで勝利の秘訣を聞かれて『ただただ自分の慣れ親しんだ庭でうまくハマっただけです。滅多なことじゃありません』って言ってましたよね」
カッコいいなあ、と思わず感嘆する。それに乗じ、唸り声をあげて想いの丈を口にしだす先輩。
「わかるー! 年取っても謙遜するなんざ中々できねえ。自分が勝ったメインレースを指差して自分の庭ですのでって、一度でいいから言ってみたい」
「ハハ、そうですね。それに引き換え俺ときたら……」
「コラコラ、せっかく宴もたけなわって時に水差すのは違うだろうが」
「突然すみません。でも、大井の伝説騎手とぺーぺーの中央減量騎手と比較しちゃうとつい」
この期に及んで自己憐憫を発揮してしまう後輩を前にして、村主さんはいち先輩として頭を抱えだす。
さすがに舌打ちしつつ呆れるも見捨てまいとし、改めて俺と向き直る。
「だーかーらぁ、今日ずうっと言ってんじゃん。アンニュイになるなって……言っとくけどな俺はお前の不平不満を回収する全自動お掃除ロボじゃねーんだよ。また、同じクチ叩いたら今度はムチでそのケツ百叩きの刑に処すぞ」
言われてすっかり顔を青ざめ震えだす俺。流石にあの鍛え抜かれし両の腕から繰り出される渾身の鞭打ちはまともに受ければ一たまりもないと即判断する。慌てて非礼を詫びて平に頭を下げた。
ばつが悪そうな表情を浮かべる先輩から無事許しを得る。
「せっかく俺の師匠直伝・
「悪い冗談はよしてくださいよ。そもそも、村主さんの師匠って俺の親父じゃないですか」
基本的に中央騎手というものは美浦(関東)・栗東(関西)いずれかの地域に所属している。その中の複数存在する各調教師が運営する厩舎には新人の時分専属という形で世話になるのがベター。俺自身騎手デビューして丸五年になるが、今も親父が美浦にて切り盛りする
「そうさ。謂わば俺・
覆しようのない事実関係にひとり胸を張って応える。その居座間がとても男らしく思え、なんだかホンモノの兄貴の様にすごく頼りがいがあって見えた。
「先輩……」
「“弟だと思っていた……愛していた”」
「俺がいつ闇のフォースに囚われたっていうんですか。俺が操るのは
「煮え滾る溶岩の川のすぐそばで突き放す愛もあれば、涙を呑んで容赦ない鞭打ちの雨あられを繰り出して八つ裂きにする愛もある」
「そこに愛はあるんかアンタァ!?」
プロポーズと見せかけて一方的な
無礼講状態で車内にて揺られること数十分。日の入りが早い暮れの時期、外はすっかり暗がりと伸びた車の影との境も見分けがつかない程だ。
それからも会話は進み先輩からはもう二歳になる一人娘・
「ところで、お前の所の————ミラージュオアシスな。引退後の行先はどうなってる」
「さあ、詳しいことはあまり。ただ、競走馬としては引退・用途変更になるとしか」
日本軽種馬協会の発表によると、国内にて生産されたサラブレッド種の個体数は毎年間一〇〇頭単位ずつ増加しているらしい。今年だけでも生産頭数はおよそ八〇〇〇頭は下らない。当然それら全てがデビューできるわけではないのだ。生まれた時点で死んでたり、発育途上で生育不全に陥ったり、五体満足でも競走に最低限必要な能力がないと判明し一度もレースに出走することなく引退を余儀なくされるのもいる。
普段競馬場で何気なく走っている姿を見かける馬————それらは、全て選ばれし馬たちなのである。飛べない豚はなんとやら、走れない馬は人知れずただ淘汰される……。
今日一番と言っていいくらい重たい空気が俺たちの間に横たわっていた。いや、お手馬の行く末を案じブルーになっていたのは俺だけ。人一倍長く競馬の世界に身を置く先輩は気にも留めない調子で淡々と告げる。
「……まあ、所詮馬ってのは牛や豚なんかと同じ家畜だしな。人間様のエゴの元に産み落とされて、その後の生殺与奪は依然として人間の手中さ」
村主さんからの言葉が頭の中でぐるぐる駆け回っていく。飲み込み切れず受け付けない感じがした。言葉そのものの意味は理解できるが納得しきれない。
普段なら先輩に対してハイハイと黙って言う事聞いておとなしくしているが、この時ばかりは従順な後輩を演じるのをやめたくなった。エゴに塗れた矛盾だらけの認識に対し、まじりっけない一騎手としてのエゴをぶつけて目にもの見せてやりたくなったのである。
「馬主さんの意向に逆らうつもりはありません。でも、もう少しだけ乗っていたかったです————アイツ自身の幸せも考えればなおさら。……そう捉えてしまう自分はもしかして異端なんでしょうか」
直接相手の両眼を見た。これに対し、先輩はあくまで騎手ならびに一人の大人として冷静に言の葉を返す。
「お前の言い分は正しい。でもな、この世界ではお前のそれはエゴでもなんでもなくただの我が儘でしかないんだ。厳しいことを言うようで悪いが、まだまだお前はホンモノの馬乗りにゃあほど遠いぞ」
ものの見事に躱されて、為す術もない。
悔しささえ湧かなかった。小さいはずの先輩が何百倍もでかく見えて、聳え立つ壁のよう。まるでその壁を境として俺自身が競馬の世界から隔絶されているとさえ思った。
どうしようもなく項垂れてしまう。もはや何が正しくて何が間違っているのか。それさえ、今の自分では解読不可能である。
「じゃあどうしたらいいんですか」
先輩はキッパリ、知らんと言い切った。そのまま突き放すのかと思ったが、ただしと続けてそのまま俺への解としたのである。
「俺たちのやるべきことは馬に乗って勝たすもしくはひとつでも高い順位を目指すことなんだ。そうすれば、馬主たちに『コイツはやれるぞ』と信じさせてその馬を少しでも長く現役でいさせてやれる。まあそういった手合いは大半が繫殖入りか適当な所で引退させて功労馬とかだろうがな」
先輩の言葉には全ての真理が込められているように思えた。
なにもかもが中途半端でどっちつかずな自分にはそれに応じる資格はない。そう考えて俺は調整ルームに着くまで口を閉ざした。
☆☆☆☆☆☆
無事目的地にまで辿り着いて、今朝まで滞在した自室にて置いておいた荷物全て片し終える。またもや村主さんとタイミングが被りふたりして玄関先で佇んでいた。
「よし! 今日は呑むぞ。おい、朔八お前付き合えるよな?」
飲み会モードにスイッチした先輩が、清々しい顔つきでこちらを見遣ってくる。上気してる様子でいるのを目の当たりにして、これから言わねばならないことを思い出し俺は心がほんのちょっぴり痛んだ。
「それなんですがすみません。生憎先約がいるもので」
ペコペコ謝ると、向こうは思いのほか気を損ねていないように思えた。とはいえ、いかにも残念そうな口ぶりで子供みたくブー垂れてくる。
「つれない奴。なんだよ先約って……女でもいるのか」
「相手が女の人である事は確かです。とは言っても女友達なんですけども」
皆まで言わずとも全てを受け入れてくれた先輩は、そのまま待たせていたタクシーに一人乗り込む。タクシーの窓からひょっこり顔を出して再び俺を見た。
「わーったよ。女友達とサシ呑みだなんて健全だこって。そういうことにしておいてやるから、ヨロシクやってこいや」
そんな捨て台詞を残して、先輩はその場を後にして夜の街に向かっていった。
けたたましい排気音を出してどんどん小さくなっていくタクシーをひとり見届ける俺。
「なんか釈然としないなあ……」
空からは、冬の大三角を織りなす星々の明かりがひとり取り残された俺にやさしく降り注ぐ。
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