プロローグ その③

 美浦トレセンの独身寮。普段その中の一室にて、俺は一人暮らしをしている。


 独身寮には食堂や身体を鍛えるためのジム施設などが充実しており競馬関係者が普段生活するには申し分ない。


 すでに時節は年末ということもあり、早々に仕事納めを済ませた者たちは皆して実家に帰省し始めていた。そのため、寮内の食堂で食事を摂る関係者および配膳担当のおばちゃんらを除けば人もまばらであり、自室に帰る道すがら同業者の先輩騎手などと鉢合わすことも特になかった。途中売店に寄り道し、買い物を済ませて我が住まいへ舞い戻る。


 自室の生活の中心たるリビングにて居座るやいなや、備え付けの卓袱台の上で道中買ってきた品物を一つずつ並べ出す。渋い木目が印象的な舞台上、そこへ等間隔に並べられた様々な飲食物品たち。眼前に広がる光景に対し、ささやかな満足感を認識しつつ同卓上にて鎮座している愛用のゲーミングノートPCに目をやる。すでに電源が点いていたそれによると、今が夜で十九時五十五分の時刻であることを示していた。


 ————いざ、最終確認。


「ケーキよし、ノンアルコールビールよし、各種おつまみ類よし……」


 点呼確認の要領で先ほど売店にて購入したものに一つ一つ指差して定めていく。


 軽く晩飯も済ませ、用も足した。エアコンの暖房は二十五度ジャスト。まさしく準備万端で、無駄なところは何一つないのを確認してから改めてPC画面を見遣る。そうこうしている内に液晶上の時刻は十九時五十九分と、約束の時刻である二十時にはもう間もない。


「今夜はパーティーだ」


 あらかじめセッティングしたサイトのエントランス画面を目の当たりにする俺。逸る気持ちを抑えつつも、これから迎えるであろう光景に思いを馳せながらおもむろにエンターキーを押した。

 

 ☆☆☆☆☆☆


 “The nest of Ants蟻の巣” ————近年の国内においてちょっとしたネットの集まりで主に利用される事の多いVRCS仮想現実チャットサイトのひとつで、通称・ネスアン。その昔システム開発中フィールドにおける内包可能なチャットルームのキャパシティに到達すると、既存のフィールドの真下で新たなフィールドがAIにより自動生成されるアルゴリズムが生み出された。階層を積み重ねるごとにルーム数および利用者自体の数が指数関数的に増加する有様がまるで蟻の巣のようだと開発者たちが表したのが名前の由来だとか。


 サイト自体は十年以上前から存在していて、専らオンライン飲み会で利用するようになりかれこれ五年程お世話になっている。


 チャットルームの名称は、【ケーBarバー@四十九期生のアジト】。騎手学校時代から仲睦まじかった同期連中で結成したのが由来である。元々は、ドサ周りで全国各地に散らばった仲間同士でも飲みニケ―ションを気軽に行うためなのと、迂闊に実際のお店で固まって会食している様を第三者に気取られぬためにこのような空間が設けられた。


 学校を同時期に卒業した面子そのままに結成したため、ルーム内では当初俺を含め全卒業生十名ほどの人数がいた。しかし、本格的に騎手として稼働を重ねるようになってからある時期を境に同期がひとり、また一人と廃業が相次いだ。


 然りて、中央競馬から去るのと同時にチャットルームからも退会者が続出。


 今では、ルームメイトも俺を含めたったの二人。かたや残った一人は、とっくに騎手も辞めて今は別の仕事に精を出しつつ当時と変わらず元気で年数回のバーチャル飲み会にて顔を出してくれている。


 同期だった桜は、今回の四十九期生忘年会でも昔のように俺を迎えてくれ乾杯という音声オンジョウを花開かせた。


 ノンアルコールビールを啜っている俺をよそに、会場では赤提灯もかくやという恍惚と解放感に満ちた甲高い咆吼が挙がる。


“リンコ・【カ————ッ! この為に生きてるって感じィッ!】”


 円卓のアセットを共に囲うサンタクロース姿のアバターが、アニメ調にデフォルメ表現された「くしゃくしゃな顔」を提げて飲みの感動に打ち震えている。良い飲みっぷりであるのを尻目に、容器から口を離して取り留めもなくつぶやいた。かたや同じ卓にてこちらは赤鼻のトナカイ姿に扮装中。


“さくや・【うンまっ……。】”


 爽やかなビールフレーバーが鼻の奥まで達し、体腔の中で吹き抜ける。


 飲みやすいので頻繁に嗜好しているが、こうしてかつての戦友と酌み交わす。その事実だけで特別においしく感じられる気がした。


 会話を肴にしていると、程よく出来上がった具合に「さ~くや~……」と眼前に居わす古き良き黒髪おかっぱヘアーなミニスカサンタのアバターから伸びきった声で話しかけられた。


“リンコ・【ねー、ねー。今どう。楽しんでるぅ~?】“


 答えを聞く前からコロコロとした笑い声で彼女に成り代わる存在も実に朗らかな笑みを浮かべている。フェイシャル・センサー・システムによってアバターが投影元となる利用者の表情を読み取り瞬時に反映させているから、現実で実際に満面の笑みを浮かべている本人の様子は想像に難くない。


“さくや・【楽しんでる楽しんでる。ってか、野暮ったいな。せっかくなんだしもっと水いらずでいいじゃない、リンコさ】”


 苦笑する俺の言葉と表情を追うアバターは、細長いグラスにオレンジジュースがなみなみと注がれストローも刺さっている頭部と棒人間の身体のアセットで構成されている。


 こちらの表情が揺れ動く度に、中に入っている氷がカランカランとほのかに音を立てるように相手側には聞こえる仕様である。今日の飲み会ではさらに頭のてっぺん、コップ縁の付近にはトナカイの角。赤鼻と蹄付きの茶色いまででワンセットだ。


 そんな出で立ちの俺を前に一瞬きょとんとして、三白眼を披露する凛子りんこ。すぐに笑顔へと戻り仕切り直す。


“リンコ・【アハハ言われちゃった。子供の頃から私周りの目だからさ……もう少しお酒入ったらマシになるかも】”


“さくや・【まあまあ、夜は長い。ゆっくり行こうや、お互い今日が仕事納めなんだしさ】”


 同期である凛子りんこは一昨年まで、現役の女性騎手だった。学生時代から四十九期生の中心に立ち、世代を引っ張るリーダーでもありみんなのアイドルでもあった。

 有名な競馬評論家・原田はらだ利樹としきの一人娘でもある彼女は、小さい頃から乗馬の才能に恵まれポニー競馬の大会でも優秀な成績を修める。騎手学校に入学してからは、あっという間に主席となり以降卒業するまでそのポジションは不動のままだった。容姿にも優れ、卒業後は四十九期生みんなのアイドルから競馬ファン全員のアイドルへと拡大するほど人気はすさまじかった。何せ競馬ファンの間で彼女が騎乗した馬の外れ馬券が捨てられずブロマイド代わりに持ち続けるという猛者達が後を絶たないくらいに。


 現役時代、凛子の人気ぶりが決定的なものになったキッカケ。騎手デビューしてまだ一年目の夏、初めて小倉競馬場に訪れるやその日のメインレースだった重賞・小倉記念にて一番人気の馬に跨がりそのまま逃げ切り勝利を収めたのである。尚且つ、その勝ちタイムがレコードというドデカいおまけ付き。


 無論俺を含め同期たちは彼女に対しこぞって驚愕こそすれ惜しみない賞賛と拍手を贈った。


 何といっても勝手知ったる仲間が、大舞台で勝って「重賞騎手・原田凛子」の銘を中央競馬の礎に永遠に刻み付けたのだから。


 結局、その年凛子は小倉を制した勢いそのままに勝ち星を獲り続け、世代最速で年内一〇〇勝を上げたのである。同年に催された忘年会は大いに盛り上がりを見せた。主役はもちろん我らがアイドルの凛子で、その周りを取り囲むよう皆して飲んで食べて騒いだりして……。いい意味でハチャメチャな宴会であったことに疑いの余地もない。もしも、この先『騎手人生の中で最高だった場面をひとつ挙げろ』と求められる機会があるならば、無論迷いなく先の話を挙げることになろう。


 あの華やいだ思い出の光景から約数年の月日が流れた。


 共に勝利の美酒を分かち合った同期生も段々といなくなって、義理で寄越しに来てくれる元戦友を含め今では酒宴に興ずる頭数もふたりこっきり。方や騎手廃業後、メディア関係者である親父さんのツテで新米ジャーナリストに鞍替えした凛子。方や騎手という仕事にしがみつき、全国各地の競馬場を股にかけて未勝利戦・条件戦・OPオープン戦などの平場に挑むため日々西へ東へ奔走を繰り返す俺。


 現実社会という名の濁流によって揉まれ、傷んだ仲間同士の絆は見るも無惨に、単なる腐れ縁へと成り果ててしまった。こんなにももの苦しいのならば、いっそ仲間なんていらなかったのに。


 誰に悪感情を差し向けるわけでもなく、いつもみたいにただほぞを噛むという形で心内に潜む厭世観えんせいかんを昇華させていく。


 そんな思いとは裏腹に、電脳空間を介しての飲み会は概ね良好に進んでいく。話題は、お互いの近況についてという立ち上がりから忙殺のあまり仕事が実質恋人状態なおひとり様同士という新事実が発覚。その後、騎手として成し遂げた俺の成果について労いの言葉を掛けられる流れに。


“リンコ・【騎手五年目にして、年内一〇〇勝初達成と東京大賞典に初出走おめおめ!】”


 おかっぱヘアーのアバターから賛辞を送られる。向こう側のマイクが拍手の音を生真面目にも拾い上げて聞き届けさせられた。ど、どうもと不服まじりに返す。


“リンコ・【あ、ついでに今日の東京大賞典。大差でビ……一着達成もおめでとう】”


“さくや・【ビリでいいよもう。てか、逆な一着って何。どんな言い回しだよ】”


“リンコ・【いやいやー、いくら初出走とは言えあの体たらくぶりはすさまじかった。観てて思わず『まだ速い!』って、何回画面に向けて叫んだことか】”


“さくや・【お目汚し悪うござんしたね。どーせ俺はヘボジョッキーの称号がお似合いですよだ】”


 段々と語気が荒れ出す声に従ってコップ頭のアバターが、中で満されたオレンジジュースをワナワナと震えていく。ついでに分かりやすく表情も眉をひそめ出すという始末。


 すかさず凛子側のアバターが取り繕うようにホラ腐らないのと宥めてくる。誰のせいで。


“リンコ・【こんな日もあるって。また頑張ればいいじゃない、これも競馬よ競馬】”


“さくや・【さっきっから俺のこと、持ち上げたいのか。それとも上げて貶したいのかどっちだよ】”


“リンコ・【叱咤激励って言葉ご存じ? こんなの貶す内に入らないっつの。それに同期の軽口くらい、大目に見なさい大人なんだから】”


 俺が知りうる限りもっとも大人げない人間の内のひとりが、にべもなく笑い飛ばしてくる。未だ立ち直れていない傷だらけの心に容赦なく鞭を振られビシビシと叩きつけられている様だ。


 取り付く島もなく振る舞い、もう大人なんんてやめてやるもんとさらにふて腐れたように言い放つ。それに対し、「どうちまちたか?」と、甲高い声色に変えてまでわざわざこちらの土俵に上がってくる凛子。


“リンコ・【さくやきゅん、どうちたの~? ん~、むくれちゃったのかなあ。どうした、もうお眠したいのかな~?】”


“さくや・【よし。ちょっくら運営に『夜更けに赤ちゃん言葉をまき散らしながらメスゴリラが暴れている。一人では手に負えん』とでも通報しておこう】”


“リンコ・【誰が何だって!? うるさい、今年イチ顰蹙ひんしゅくを買ったド下手のクセに! このヘボジョッキー!】”


“さくや・【おお怖っ! さっすが、週刊【優駿ゆうしゅん】にて、読者から送られてくるはがきを紹介する「お便りコーナー」を仰せつかる記者様は語彙力が豊富だことで。ただ、一つ忠告。『同期の軽口くらい、大目に見なさい大人なんだから』、ね?】”


“リンコ・【あ、アンタって野郎は……】”


 わななく声に伴い、下の歯をひん剥いてあからさまに不機嫌っぽく佇む凛子のアバター。


 かくして、お互いいい年齢に達したはずの大人二人による今年最後の電脳泥仕合が幕を開ける。




 その後二時間にも亘って繰り広げられた言い合いは、お互いが住まう各集合住宅の隣人からの一撃。通称・壁ドンによって強制的に停戦と相成った。


 クールダウンのためチャットはそのままにして、しばしの間中座をするという紳士協定が結ばれた。今は、双方ともにささやかな休息を謳歌してる真最中である。


 白いキャンバスにて青帯に彩られた缶とにらめっこ。本当にアルコールは入っていないのかと再三確認をし、改めて慎重に容器へ口付けた。


 喉ごしを堪能しているところへ、「おまたー」と伸びきった声が響き渡ってくる。


 先の呼び声にワンテンポ遅れる形で再度おかっぱのアバターが出現、入出を果たした。


 さっきまでの威勢はどこへやら。デフォルメされた顔つきからも大層ゲッソリしてる様子が伝わってきた。


“さくや・【お疲れー……って、大丈夫かよお前】”


 黙って受け止めきれずやや心配になって、凛子のもとへ駆け寄る。「だーいじょーぶー」と、返答が来た。当人の言い分とは裏腹に、語気は冷めきっていてどこか虚ろな印象。


“リンコ・【ちょっと、ね。ちょっくら……花摘み済ませて、水をがぶ飲みして帰ってきただけだから。平気平気】”


“さくや・【飲み会開いた当初のハイテンションはどうしたんだよ】”


“リンコ・【あー……実をいうと、私その前にもうお酒頂いちゃってたからさ】”


“さくや・【どんだけ飲んだ?】”


“リンコ・【ジョッキのハイボールを、一杯半】”


“さくや・【バカ。いくら久しぶりだからって無茶な飲み方はよせよ】”


“リンコ・【怒られちゃったぁ。私の方が少しお姉さんなのに我ながら情けないよ】”


“さくや・【出生月がひと月くらいしか変わらないクセして何のたまってんだ】”


 流石の凛子も少しは参っているようだ。それらを適当にあしらいつつ、どこか良きところで幕引きをとそのタイミングを窺う。


 チャット上で表示される時刻によると、すでに午前一時を少し周ったところである。


 いくらお互いに時刻を気にする必要がないにしても限度があると思ったため、ふたりしてこれから先必要以上にアルコールを摂取するのは控えようとこちらから提案。これに対し、凛子も「わかったー」の一言。


 全体的に雰囲気も少し落ち込んできて、どうにか目途が立ちホッと胸を撫でおろす。


 相変わらずサンタクロースのスキンを装着したままな凛子のアバター。何やら苦し気に呻いたかと思うと、おもむろに片手を額にやり押し抱く。


“リンコ・【……あー、頭いったー。それで、私たちさっきまで何の話で白熱し合ってたんだっけ】”


 唐突に話を振られて焦るも、記憶を遡って導き出したそれを述べていく。


“さくや・【確か……俺が年内で一〇〇勝達成したことと、東京大賞典に出たことについてだったと記憶してる】”


 言われて納得したのか、アバターも目を見開き「あーね」と呟く。


“リンコ・【そうだ、それで売り言葉に買い言葉で次第にエスカレートしたんだった。とにかく一〇〇勝できて良かったじゃない、改めておめでとう】”


“さくや・【ギリギリだったけどな。減量期間中にどうにか成し遂げられたよ、ありがとう】”


 中央競馬には減量制度なるものが存在しており、女性騎手や騎乗免許を取得して五年に満たぬ見習い騎手には特別競走・ハンデキャップ競走を除き各レースごとに提示される負担重量が軽減されるというものだ。俗に、こういった制度下に置かれる騎手。転じてデビューから五年にも満たぬルーキー共は押しなべて「減量騎手」と呼ばれる。


 騎手たちは皆、服の下に重りのついたプロテクターを身に纏いお手馬に跨がってレースを駆け抜ける。この重りおよびその重量を「斤量きんりょう」と呼び、各騎手ごとにそれが課せられるのだ。ちなみに斤量一キロでゴール時の影響着差は他馬と比べ、一馬身も差がつくと言われている。


 当然、現役中凛子もそんな減量の恩恵に与っており小倉記念では周りの先輩騎手が五〇キロオーバーなのに対し本人はなんと四十八キロという異次元の軽斤量を実現。そして、そのまま勝ちきってしまうのだからもうどうしようもない。そんな訳で、俺も先々週の平場にて、減量期間内ギリギリで何とか一〇〇勝を達成できたのだが……。


“さくや・【でも、重賞は結局獲れずじまいだったな……】”


“リンコ・【あら。そんなん言いっこなしよ】”


 負い目を披露して少しでも気持ちを軽くしようとするが、思いがけず阻まれることに。


 主導権は完全に向こうだと認識した瞬間、為す術もなく凛子により追い詰められる。


“リンコ・【朔八アンタね。せめて自分の成果についてはもっと手放しに喜べられないの? 祝福したい人間の身にもなりなさいな】”


“さくや・【怒るなよ。第一、成果も何もあったもんじゃ】”


 言い訳を弄そうとした瞬間。怒ってない、ときっぱり言い切られたついでに寸断された。そこで唐突に思い起こされる、騎手学校時代の日々。


 何かあるとすぐ都合の良い言い訳ばかり並べている俺に、決まって言葉に熱を込め畳みかけてくる凛子という図。一の言葉に対し、十の言葉で返してくるから学生時代はいつも頭が上がらなかった。


 当時と一分も変わらぬその態様ぶりに接し、空っぽの胸中にて篤いものが広がっていくのを無意識のうちに実感した。


 そんな俺をよそに、凛子は構わず続ける。


“リンコ・【そもそも競馬なんてのは、騎手とお馬さんだけじゃ成り立たないわけ。当然他にも言えることだけど、大勢のバックアップがあり初めて仕事となるの。調教師および調教助手、厩務員に獣医さん……最低でも一頭の馬を一回のレースに出走させるだけで相当な見積もりよ。そもそも競走馬自体を生産してくれる牧場が無ければ元も子もない。あと、馬主なんかもね】”


“さくや・【いきなり何言いだすんだお前】”


 いいから聞きなさい、と戸惑う俺を一方的に閉め出して強引に音頭をとる凛子。ガキだった時分、説教を見舞ってくる母親の面影を重ね合わせた。


“リンコ・【にも関わらず、とうのアンタは自分のことだけで手一杯。俺が俺がって承認欲求モンスターかっつーの。この際だからハッキリ言わせてもらうけれども、アンタさ。ハナっから舐めて馬に乗っていない?】”


“さくや・【そ、そんな事ないよ。レースでは馬と呼吸を合わせるように意識してるし今日だって】”


“リンコ・【どうなのかな。現に今日あったレースで乗った馬に関して一切自分から口にしないんだもん】”


“さくや・【え……?】”


 予期していなかった指摘に思わず面食らう。固まっている所だろうがお構いなしに、「さすがにこの始末じゃお馬さんも浮かばれないよ」と捲し立てられる。


 ロクに受け答えもできぬまま、嫌な汗が流れ落ちるのを身体の随所で感じ取った。


“リンコ・【確かアンタのお馬さん、ミラージュオアシスって言ったっけ? あの不甲斐なさったら、ねえ。大方鞍上が大舞台で舞い上がっちゃってどうしようも無かったんだろうけども】“


“さくや・【それは……】”


 とりあえず口を動かそうとするも、何も言えないでいる俺を無視してさらに進める凛子。


“リンコ・【ねえ。アンタの夢って、何?】“


“さくや・【ゆ、夢? 夢くらいあるよ……】”


 俺にだって、と少し間を取ってから付け加えた。


“リンコ・【ふ————ん。どんなの】“


“さくや・【………………ダービー】”


“リンコ・【今なんて言った? よく聞こえない】“


“さくや・【…………に、日本にっぽんダービー】”


“リンコ・【夢が日本ダービーって何なの? 出たいの? あ、そ。出られるだけでいいんだ、日本ダービーに】“


 凛子のわざとらしい言動に対し、辛抱堪らなくなってくる。


 せっかく勇気を振り絞りやっとこさ口にできたというのに。あまりにもあんまりな態度だ。経歴的にも技量的にも優秀であるとは言い難く、むしろ半人前でどちらかといえばポンコツもいいところ。そんな俺からすれば、日本ダービーに出るということは単なる目標なんかでなく、そのために今日こんにちまで騎手を続けられる目的であり理由でもあるのだ。にも拘わらず、元・同期で夢の大舞台に立つこともなくいの一番に野に下った人間からどうしてこうも茶化されなければならないのか。


 踊らされている事くらい自分でもわかっていた。けれど、ここまで来てだんまりを決めて何も言わなければ、それこそ自分の中にある騎手魂はもとより競馬人ホースマンとしての誇りをスポイルさせかねない。そう思えばこそ下手に貶されるままでいるのは性が許さなかった。




 ——————“あまり舐めるなよ。”




 気がついた時には声として出ていた。身体中の筋肉が強張り思うように喉が動かせず地声よりもくぐもった、大きくドスの利いた声音(こわね)として表れた。


 無礼講とはいえ流石にまずいとは考えたが、ここまで来て今更引っ込みもつかない。いざとなれば後で謝り倒そうと割り切り勢いに身を任せてありのままをさらけ出す俺。


“さくや・【いいか、よく聞いておけ。俺はな、日本ダービーに出て、走って、勝って、親父みたいに——————否! 新時代のダービージョッキーとなって、親父を超えてみせるッ!】”


 我ながら思った、大それた事を言ってしまったと。GⅠどころか以下のGⅡ・GⅢの重賞すら勝ててないクセして勝つどころか騎手時代の頃の実父をも凌ぐだのとか単に噴飯物ふんぱんものでしかない。


 言い切った手前、ぽっかり開いたままな大口をパクパクさせて首から上は火が吹き出てるかのように熱々だった。


 直後に訪れる沈黙。誰も何も言いださない、無の時間がとてつもなく長く感じる。無理に返せとは言わないが、せめて笑ってやってくれと切に願う。


 身悶える気持ちを抑えて構えていると、凛子側のアバターが無表情から少しずつ笑みを浮かべて段々調子を上げしまいには大きく口を開けて笑い出す。


 まあ、そりゃ笑うわな……そう思い落胆しかけた矢先。


“リンコ・【アッハッハッ……なーんだ、朔八アンタも存外夢想家なんじゃん】“


“さくや・【あたぼうよ、勝負師が夢見て悪いか】”


 思ってたよりも好感触で内心驚いた。咄嗟に見栄で不遜っぽく答えてみる。ふ~ん、と鼻で軽くあしらわれてバレてるなと悟った。


“リンコ・【そうこなくちゃ。私も私で自分の書いた記事を一面に載せるって夢があるから。ジャーナリストの端くれとしてこれだけは譲れない】“


“さくや・【そうだな……】”


 背中を押してくれつつも負けじと夢を披露する凛子。アバターとは分かっていながらも、その瞳の最奥部には煮えたぎったモノで満ちているように見えた。


“リンコ・【いの一番に辞めた分際で言うのもアレだけど、重賞を獲れる秘訣でも教えてあげよっか】“


“さくや・【えっ、なに何。どんな方法?】”


 ふいに訪れた機会と考え、ダボハゼのように飛びついた。期待するあまり俺のジュース頭アバターも、中の氷がカラコロカラコロとけたたましく唸り声をあげている。


 まさか縋り付く勢いで反応してこられるとは想定していなかったのだろう。チャット内でもわかりやすいくらいの苦笑を浮かべる凛子。


“リンコ・【食いつきエグいて。まあいいや……それはね、】”


“さくや・【そんなもったいぶらずに早く教えてくれよ】“


 経験者語りき、というよくよく考えずとも大変貴重な情報を提供してくれるという千載一遇のこの状況。すぐにでも「ヘボジョッキー」の称号を返上したかったので俄然喉から手が出るぐらいしつこく煽った。


“リンコ・【黙って聞いて。それはね————とにかく前に出ること】“


 競馬のレースに挑む以前よりもずっとずっと前らへん、「当たり前中の当たり前」を秘訣として語られて拍子抜けしたあまり言葉もない。


 ————思てたんと違う!


 心の中で飼っている、通天閣周辺をテリトリーとするワンカップおじさんも流石に苦言を呈する始末。


“さくや・【そ……それだけ、か?】”


“リンコ・【ぶっちゃけて言えばね、重賞ってのはその時の流れと勢いであっさり獲れちゃうものよ。馬質は別としてね】“


 それを聞きつけるなり、マイワールド内で地団駄を踏むワンカップおじさんが突如として現れたミラージュオアシスによって後ろ脚で蹴飛ばされ、そのまま星と化すというシュール極まりない模様が繰り広げられる。


 年内いっぱいで現役生活に幕を閉じたミラージュオアシス。とっくのとうに玉も取られ、気が付けば今年で十六歳を迎えた。騙馬で高齢にも関わらず出走され続けたかつての相棒の背中を思い浮かべる。ツキさえ巡ってくれれば、ともに重賞の美酒を味わうことも不可能ではなかったのかもしれない。


 今回の東京大賞典で醜態を晒した事はともかくとして、勝てずとも数々のレースで培った経験は決して無駄ではなかったと思えた。


“さくや・【そんなもんかぁ】”


“リンコ・【正直アンタの腕前なら、良い馬と巡り会えたらそのうち重賞もいけるとは思う】“


“さくや・【そ、そうかな……エヘヘ】”


 思いがけず元同僚から己の腕前についてヨイショされ、軽く謙遜しつつ頬を緩ませる。


 悪い気がしない中。「思うんだけどねえ」、とため息まじりに吐き捨てられ途端に閉口させられた。


“リンコ・【とはいえ本気で日本ダービー獲りたいなら、文字通り死ぬ気で精進なさいよ。ここで燻り続けてるままなら重賞もそうだし、何よりダービーなんか夢のまた夢だからね?】“


“さくや・【……わかってるよ、そのくらい】”


 どんな薬よりも効く、辛辣なアドバイスという名の説教を凛子から見舞わされて立つ瀬がない。


 残り僅かな量のノンアルコールビールを缶ごとひっくり返し喉に流し込む。かつてない程の苦さが口いっぱいに広がりむせ返りそうになった。


 同期とのさし呑みでヒイヒイ言わされている中、電脳空間にかかりっきりなせいですっかり疎かとなる現実世界。時を同じくして、村主先輩が何某かの店で夜の蝶に囲まれながらドヤ顔をキメつつも酒を飲む写メを送り付けていたとはつゆ知らず。


 明け方頃、バーチャル忘年会も無事に解散・撤収を迎えて、ようやく自前のスマホに手を伸ばせた。


 昔撮った同期連中との集合写真で設定された待ち受け画面上に架かるようにして、あられもない姿を晒す先輩の通知が届いていた。


 直後。性質タチの悪い頭痛が徹夜で寝不足の俺に襲いかかってくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る