実りの唄 ~ハーベスト・オン・ザ・ターフ~

はなぶさ利洋

プロローグ

プロローグ その①

 競馬騎手ジョッキーの朝は、早い。


 レース当日。丑三つ時を少し周った頃。


 歯を磨き、顔を洗い、朝飯を済ませてからトレーニングセンター。通称、トレセンへと向かう。


 約二時間、ひとしきり調教を終える。


 馬と別れ、一旦調整ルームに戻り競馬場に行く支度をする。


 慣れたもので、最近だと支度を終えるのに五分と掛からなくなってきた。


 詰め込んだボストンバッグを肩に提げ、調整ルームの入り口まで向かうと外で待機していたタクシーに乗り込む。


 すでに中で座していた先輩に相乗りさせて貰う形に。


 車内の後部座席にて、助手席寄りに姿勢を正して座る俺。対して、運転手席寄りで肩も股も開き切った体勢で、威風堂々と腕を組み何処かリラックスそうな様子の先輩という図。


 この世界に入ってしばらく経つが、もうすっかりお馴染みの光景である。


 先ほど来隣を陣取る先輩騎手の村主すぐりさんが座席越しで運ちゃんと気さくに会話している。


 暖房をフル稼働中の車内から窓の外を見た。


 分厚い雲が空一面を覆っているのもあってか、真っ暗な荒野の風景が延々と続く。


 腕時計の針はすでに今朝が五時過ぎなのを差し示していた。


「さ〜くや〜っ」


 視界が、ガクンと大きく揺れた。


 そう認識した時すでに、村主さんの左腕により俺の頭はがっちりとホールド。いわゆるヘッドロックの形をとられていた。訳もわからず先輩の胸板に己が身を預ける羽目になる。


「ちょっ、ちょっと」


 幸い掛けられた所が首ではなく頭なので、声は上げられる。締め上げられそうになりながらか細く息を整え必死に声を振り絞った。


「……た、タンマっ。タンマ————」

「なに、聞こえんな。言いたいことがあるならはっきり言え。このアンニュイ野郎」

「アンニュイだなんて」

「嘘こけ、真っ暗な風景をいかにも物憂げな面して眺めてるの車窓に反射うつってたんだよ」


 一五〇センチ半ばの小柄な体型から繰り出される村主さん渾身の頭蓋骨固め。対して、俺は騎手にしては大柄よりな部類に入る一七二センチ。タクシーの車内という閉鎖空間で、どちらがより小回りが利きやすく自在であるかは火を見るよりも明らかだ。


 身長に比例する両手足のリーチがハンデとなる中、俺にできるたった一つの抵抗手段。それは見かけによらず隆々とした先輩の二の腕に精々タップすることだった。


「ら、乱暴だなあ」


 ようやく村主さんの束縛から解放され、ホッとする。反面張本人はと言えば「馬鹿言え俺はジェントルマンだい」と余裕の悪態ぶりである。綺麗にカラーリングされた自慢の金髪ストレートも先輩から受けた仕打ちで凄惨極まる有様だ。


「これから勝負だってのに辛気臭い顔してんなよ。お前から漂う負の気配をこっちに持ってこないでくれ」


 手櫛で髪を直しつつ、先輩からの物言いに対して堪らず土俵に上がる。


「勝手に人を貧乏神呼ばわりしないでください」


 すると、村主さんが「あんだってぇ?」と食って掛かる。


「お前が神だと。とんでもねぇ、そんな大層な存在でもあるまいし。単なる貧乏だお前は」


 一方的に強い言葉を浴びせかけられ、無意識のうちに閉口してしまう。とはいえ、今もバックミラー越しにこちらを窺い続ける運ちゃんの視線を無視することもできない。目も吊り上がり、腕組んで大層面白くない様子な先輩を前にして、小粋さを演出する俺。


「貧乏は貧乏でも器用貧乏なら」


 すると、先輩は俺のちゃちなジョークに目から鱗が落ちたようだった。先ほどまでの刺々しさが嘘だったみたいに、朗らかな顔つきへと切り替わる。


「おっ、言うじゃないか。いいぞ、朔八さくやその度胸は買ってやる。それよりもっとポジティブな事考えろ。胡散臭さを軽く吹っ飛ばすくらい明るい奴な」


「ど、どうも」


 相乗りする度に唱えられる先輩からのありがたいご高説。うまくそれをやり過ごせられるごとに、競馬人ホースマンとしての自分が高まっていくように思える。騎手になって早五年このやり取りにも慣れたものだ。


 そうして車内にて先輩の相手をしてると、先ほどまで眺めていた窓外の向こう側が

ほんのり明るくなっているのが目に入ってきた。


 夜明けとともに風景が、何もない荒野から林立する建造物群にシフトする。それらが前から後ろへと次々相次いで流れ切り替わっていった。


 徐々に近づいてくる決戦の舞台と、俺たちを乗せたタクシー。


 本日の戦いは、東京都品川区勝島の地方競馬場。通称・大井競馬場にて催される。




 ——————東京大賞典が、来る。



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