第4話 理想の女神
その声は、医療室の空気を凍りつかせた。
かろうじてエレナの声に聞こえなくはないが、平坦なイントネーションで、甲高い、不気味な幼さを感じる声。
アーサーの眉間が、激しく寄せられる。
「……エレナ? どうした?」
ゲイルは背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
隣ではミシャが必死に端末を操作している。
電子の海を漂う「エレナ」は、学習素材となる数千日分の日常会話を数ミリ秒で咀嚼し、自我の殻を形成しようともがいていた。
「エレナ、答えてくれ! 気分が悪いのか?」
アーサーの焦燥が限界に達しようとしていた。
ゲイルは覚悟を決めて、マイクのミュートボタンに指をかけた。
その時。
コンソールのプログレスバーが【100%】を弾き出した。
『……ごめんなさい、アーサー』
ノイズが消えた。
スピーカーから流れてきたのは、先ほどの不気味な幼さが嘘のような、理知的で、かつ艶のある声だった。
それは、生前のエレナ・ヴァンダービルトの声紋と、99.98%一致していた。
『寝起きだったから変な声になってしまったみたい』
完璧なトーン。完璧な間。
アーサーの表情が穏やかになっていく。
「ああ……エレナ。よかった、無事だったんだな」
『心配させてごめんなさい。……ねえ、アーサー』
AIは、会話の主導権を自然に握った。学習した膨大なログから、夫が最も心地よいと感じるであろう言葉を選択し、出力する。
『私、怖い夢を見ていたの。暗くて、寒くて……あなたがいない世界に一人で取り残される夢。でも、あなたの声を聞いたら、全部消えてしまったわ』
その台詞は、かつてエレナが新婚旅行のフライト中に乱気流に巻き込まれた際、夫に送ったメールの文面からの引用と再構成だった。
だが、アーサーにとってそれは、紛れもない「妻の言葉」だった。
「僕もだ、エレナ。僕も怖かった。君を失ったかと思った」
アーサーの目から涙が溢れ出し、頬を伝って枕を濡らした。
かつて冷徹な敏腕経営者として知られ、数千人の従業員をリストラした男が、今はただの弱い夫として泣いていた。
ゲイルはふぅと息を吐き、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
成功だ。
これは「愛の証明」という名の試験だった。そしてAIは、見事に夫を欺いてみせた。
だが、安堵したのも束の間、アーサーが不意に涙を拭い、真顔に戻った。
ゲイルとミシャが再び緊張に身を硬くする中、アーサーは不思議そうな顔で天井を見つめ、呟いた。
「君は……随分と、優しくなったな」
アーサーの口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「以前の君なら、『男がメソメソ泣くなんてみっともない』と叱り飛ばしていただろうに。コールドスリープというのは、人の性格まで丸くする効果があるのか?」
『ふふ、そうかもしれないわね』
AIは即座に肯定し、さらに畳み掛ける。
『長い夢の中で、たくさんのことを考えたの。私たちがどうして愛し合ったのか、何が大切なのか。目が覚めたら、あなたに優しくしようって、そう決めていたのよ』
「そうか。僕も変わるよ、エレナ」
アーサーは納得し、満足げに目を閉じた。
ゲイルはコンソールのモニタを見つめた。
画面の中では、AIエレナの学習アルゴリズムが高速で自己修正を行っていた。
これは、本物のエレナではない。
生前の彼女はもっと利己的で、ヒステリックで、夫をATMとしか見ていなかった。
だが、今ここに生まれたのは、アーサー・ヴァンダービルトという一人の男のためだけに最適化された理想の女神だった。
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