第3話 最愛の妻は調整中

 意識の浮上は、泥沼から這い上がるような感覚だった。

 アーサー・ヴァンダービルトは、重い瞼をこじ開けた。視界が白濁している。網膜に焼き付いているのは、爆発の瞬間の閃光と、ガラスが砕け散る音、そして最愛の妻の悲鳴だ。


「……エレナ!」

 叫ぼうとしたが、喉から漏れたのは掠れた空気音だけだった。

 身体を起こそうとしたが動かない。

 手も、足も。まるで鉛の塊に閉じ込められたように、指先ひとつ動かせない。


「鎮静剤の影響です、ヴァンダービルト様。無理に動こうとしないでください」

「……ここは?」

「医療区画です。コールドスリープ中に事故がありました。デブリの衝突による冷却システムの暴走です」

 ゲイルは、用意していたシナリオを淡々と読み上げるように告げた。その声には、同情も焦りもなく、ただ事実を伝える無機質さだけがあった。


「事故……そうだ、爆発が……」

 アーサーの記憶がフラッシュバックする。

「エレナは!? 妻はどうなった!」

 アーサーは首を巡らせようとしたが、頸椎固定具がそれを阻む。視界の端に見えるのは、無数に伸びたチューブと、自分の胴体に繋がれた生命維持装置のモニタだけだ。


「奥様は無事です」

 ゲイルは即答した。間を開けると疑われる可能性があるからだ。

「ただし、重篤な感染症の疑いがあります。解凍プロセス中に、汚染された冷却液に曝露しました。現在は別室の隔離ユニットにて、厳重な除染処置を行っています」


「会わせてくれ。彼女の顔を見れば安心できる」

「許可できません。あなたは免疫抑制剤を投与されています。今の状態で接触すれば、双方が命を落とす危険があります」

「私はオーナーだぞ! 命令だ、ここを開けろ!」


「落ち着いてください!」

 ミシャが悲鳴に近い声を上げた。

「興奮すると、傷口が開きます! それに、あなたのバイタルが乱れると、奥様の治療ポッドへの電力供給も不安定になるんです!」


 その言葉は効果があった。アーサーの呼吸が、荒く、だが少しずつ深くなる。

「……エレナの治療に、影響が出るのか?」

「はい。彼女を救いたいなら、安静にしていてください」

 ゲイルが静かに、しかし威圧的に告げる。


 アーサーは天井を見上げた。

「……分かった。会うのは我慢しよう」

 アーサーが力なく呟いた。ゲイルとミシャが、目配せをして安堵の息を吐こうとした、その時だ。


「だが、声くらいは聞けるだろう?」

 アーサーの瞳が、鋭くゲイルを射抜いた。

「通信回線を開いてくれ。彼女の声を聞けば、私も落ち着ける。それとも、通信機すら壊れたと言うつもりか?」


 ゲイルの背筋に、冷ややかな汗が流れた。

 通信機は壊れていない。だが、肝心の「相手」がまだ存在していない。

 作業用端末の画面端で、生成AIのプログレスバーはまだ【68%】を示していた。

 音声合成エンジンは未調整。言語モデルは学習中。今、回線を繋げば、聞こえてくるのは合成音声の不気味なうめき声だけだ。


「通信設備は復旧中で、回線が不安定です」

 ゲイルは時間稼ぎの言葉を吐いた。


「ふざけるな! 今すぐ妻の声を聞かせろ! それができないなら、這ってでも彼女の元へ行く!」

 アーサーが身をよじった。

 四肢のない胴体が、シーツの上で芋虫のように跳ねる。

 このままでは、ショック死するか、船のシステムがダウンするか。どちらにせよ、ゲームオーバーだ。


「……ミシャ」

 ゲイルは覚悟を決めた声で部下を呼んだ。

「回線を繋げ」

「えっ!? でも、まだ調整が……」

「やるしかない」


 ゲイルは手元の端末で、未完成のAIを強制起動させた。

「繋ぎました。……どうぞ、ヴァンダービルト様」

 ゲイルがスピーカーのスイッチを入れる。

 ホワイトノイズが、静まり返った医療室に響いた。


「……エレナ? そこにいるのか?」

 アーサーが縋るように呼びかける。


 数秒の沈黙。それは永遠にも感じられる時間だった。

 やがて、スピーカーからノイズ混じりの音が漏れ出した。


『ア……あ……』


 それは言葉になっていなかった。

 まるで壊れたレコードか、深海の底から響く泡の音のようだ。

 失敗か。

 ゲイルが懐の麻酔銃に手を伸ばしかけた、その瞬間。


『……あー、さー?』


 ノイズの向こうから、声が響いた。


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