第2話

 森に向かって、私は走り続けている。その森は、夜になれば霧が立ち込めるようで、夜霧の森と呼ばれている。今は夕暮れ時で、もうすぐ霧が立ち込めるはずだ。


 振り返ると、遠くに兵士たちがこちらに走ってきているのが見えた。本来なら森に着いているはずだったが、片腕を失ったせいか、思ったよりも走るのが遅い。


 私は前を向き、追い風を巻き起こす。背中を風が押してくれるおかげで、さらに速く走れる。足元は焼けた地から草地へと変わり、ようやく森に入ることができた。


 豊かに伸びる木々の間を、速度を変えずに駆け抜ける。おそらく、私のところに一番に来るのは狐面、または鳥面だろう。遠くに逃げるだけでは、勝てない。どこまで身を隠し続けられるかだ。


 しかし、急に足から力が抜け始める。足がもたつき、地面に突っ伏してしまった。


「く……」


連日の戦と、失った血による疲労のせいで、一時的に魔力が制御できなくなっている。しばらくすれば元に戻るはずだが、今はその時間すら惜しい。


 這いつくばって、近くの木のくぼみに身を潜めて深呼吸をする。ゆっくりと立ち上がろうとするが、足元がふらついてどうしようもない。諦めて、木にもたれかかって目を閉じた。


 すぐ近くで、小枝が折れる音がした。人ではないその音に、神経をとがらせる。


 霧以外にも、この森を選んだ理由がある。ヤガスミという生き物がいるからだ。ヤガスミは、日の当たる場所ではサラスティア平原の保護色となる金色に、夜は闇に解けるような漆黒に変わる被毛を持つ。


 あまりの珍しさゆえにその被毛は高値で売れるが、ネレディア王国ではヤガスミを狩ることが禁止されていた。しかし、エスタニア帝国が惨状となったこの地で、ヤガスミは狩られ始めたのだ。


 ヤガスミは牙や爪を持たぬ温厚な生き物だが、非道な乱獲の末、最近は変わってきたという。なんと、人を食べるようになり、狂暴化しているとのことだ。


 兵士を食べてくれることを願って入ったが、今は状況が違う。自分が喰われるかもしれない。人ではない足音が、近づいてきている気がする。霧もさらに濃くなり、辺りは暗くなっていた。


 魔力を足に送り込んでみるが、未だ力が入らない。見たこともない生き物に対処できない不安と焦りから、呼吸が荒くなる。


 ――パキッ


 目の前で、小枝が折れる音がした。とっさに構える。霧で辺りは、何も見えない。冷や汗が背中を伝った、その時――


「っ!?」


 残っている腕に、痛みが走った。しかし、それは想定していた痛みとはまったく違う。肉を噛みちぎろうとするその口は、とても小さく、鋭くもない。忌み子である自分の皮膚は、食い破られることはないだろう。


 腕を目の前まで持ち上げてみると、黒い被毛の生き物が腕に噛みついていた。狸にも似ているその生き物は、焦点がとらえ損ねるかのように、時折ふっと輪郭が消えた。


 ――これが、ヤガスミか。


 夜に霞むと呼ばれるその被毛は、貴族の忍び衣装や暗殺にも使われるという。初めて目にして、その意味にも納得した。


 この神秘的な被毛は、昼にはさぞ美しく輝くのだろう。まだ眺めていたいが、そんな時間の余裕はない。


 私はヤガスミに構わず、腕を動かす。突き刺す爪もないその手は、離すまいと必死に腕にしがみついている。まるで怯えた子どものような表情で、食えない相手に噛みつくこのヤガスミを、不憫に思った。


 いつの間にか使えるようになった魔力で、切断された腕の凍結を解除する。


「私の皮膚は硬い。食べたいなら、この腕を食べなさい」


 今までの罪滅ぼしのため、善良な行いをしたかったのかもしれない。それに、この腕を抱えて逃げるのにも、いずれ限界が来るはずだ。それならば、この獣の中で少しでも長く生きたいと思った。


 震える手で食べやすいであろう切断部をヤガスミに見せる。ヤガスミは金色の瞳で、私と腕を交互に見るとそっと腕から口を離した。


 ヤガスミは腕の匂いを嗅ぐと、何のためらいもなく噛みついた。自分の腕が喰われる光景に身震いがする。そんな私には目もくれず、ヤガスミは腕に食らいついている。


 かわいらしい見た目に反して、必死に肉をむさぼる姿には、本来なら持つはずのない“人への憎しみ”が宿っているように見えた。もちろん、そんな感情があるかどうかはわからない。けれど、エスタニア帝国に狩られ続け、ここまで変わってしまったのだと思うと、胸の奥がひどく痛んだ。


「……すまなかった。できるだけ長く、生きてくれ」


 腕を地面に置き、小さな頭をそっと撫でる。あたたかく、やわらかな被毛に触れた瞬間、なぜか涙がこぼれそうになった。


 私は片手で頬を叩いた。

 ――今は、泣いている場合ではない。


 立ち上がると、魔力はもう問題なく使えるようだった。ヤガスミが腕を食べているせいか、かすかに血の匂いが漂っている。


 狐面は、鼻が利くという。この血の匂いを辿って、おそらく、ここに来るだろう。


 木々の間に、魔力の糸を張り巡らせる。この糸が触れた相手を、感知することができる。感知できれば、あとは逃げるだけでいい。


 糸を張り終えたあと、ヤガスミに目を向ける。無我夢中で腕にかじりつく小さな背中に、そっと声をかけた。


「食べたら、すぐに逃げなさい。忠告だが……指をひとつだけ残しておけば、追われずに済む」


 ――言葉など、わかるはずがないのに。


 苦笑いをしてから、私は足に魔力を込めて再び走り始めた。霧の立ちこめる森は視界が悪く、張り巡らされた根に気をつけながら、木々の間を縫うように進む。


 ――どうか、生き延びられますように。

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