第3話

 森の中を駆け抜けていると、魔力が反応した。


―――思ったよりも、早い。


 おそらく狐面が、先ほどいたところに来たのだろう。魔力の糸が切れた感触があった。狐面に付着したであろう糸を感知してみると、現状を確認しているのか、立ち止まっている。しばらくすると、走り始めた。迷いなく、こちらへ。


―――なぜ!?


 霧の立ち込めるこの森で、離れた相手を追いかける能力があるのだろうか。確実に、こちらに向かっている。


 理由はわからないが、逃げ方を変える必要がある。私は高く跳び、太い木の枝に乗る。そのまま、木を蹴って跳ぶ。跳んだ先に枝があるとは限らず、木にぶつかりそうになる。片腕で木を掴んで落ちないように、幹を蹴って次の木に飛び移る。


 思った以上に体力を消耗するが、狐面は戸惑ったのか、動きが止まったのがわかった。


 その間に、私は走り続ける。狐面の動きはない。そこまで戸惑うことがあるのかと疑問に思いながらも、足を止めなかった。


 また足の力が抜ける感覚があり、太い木の枝で立ち止まる。荒れる息を整えて、先ほどの糸を感知する。糸の動きは、未だない。


―――おかしい。


 聴覚に集中してみるが、足音はひとつも聞こえない。森は不自然なほど静まり返っている。走ることに意識を向けすぎて忘れていた腕の痛みが、ぶり返した。


「……っ」


 少しうめいた、その瞬間。背後に気配を感じた。


 気づいたときには、もう遅かった。冷たい刃が、首筋に触れていた。


「恨みはないが、死んでくれ」


 耳元で囁くような声。その声が狐面のものだと、すぐにわかった。


 狐面は一切のためらいなく手に力を込めた。刃が首筋をなぞり、鋭い痛みが走る。確かに刃は私の首を捉えていた。しかし、裂けたのは皮膚の表面だけで、流れた血も一筋にすぎない。


「……硬いな」


 驚きの色を帯びたその声とともに、狐面の殺気がわずかに揺らいだ――ほんの刹那の隙。その瞬間を逃さず、私は木の枝から身を躍らせ、地面へと飛び降りた。


 見上げると、霧に霞む枝の上から、狐面が静かにこちらを見下ろしていた。


「逃げても無駄だ。諦めろ」


 その冷たい声に一瞬、怒りが込み上げた。だが同時に、狐面が迷いなくここへ辿り着いた理由を考える。


「……耳か」


 狐面の頭に付いた大きな耳は、狐と同じく、小さな足音すら拾うのだろう。


「ふ、お前の大きな足音はわかりやすかった。木に登ってごまかそうとするのはさぞ滑稽だった」


「……そうか」


 ならば、聞こえなくしてやるだけだ。

 私は魔力を使って空気を圧縮する。その動きに、狐面がわずかに身構えた。


「片腕の忌み子にやられるほど、私は弱くないぞ」


「……知っている」


 狐面の掌に、青白い火玉がふっと灯った。熱気が一瞬で霧を押しのけ、周囲の景色が露わになっていく。私もさらに空気を圧縮し、指先に力を込めた。


「何をしても無駄だ!」


──キィンッ。


 耳を裂くような高音が衝撃波に乗って森を揺らした。


 私の鼓膜すら震えるほどの音だ。耳の良い狐面には致命的だったらしい。


「っ……ぐ、あ……!」


 狐面は頭を押さえて膝をつき、呼吸が乱れていた。青白い顔で四つん這いになり、喉の奥からえずくような声が漏れる。


 吐き気だけではない。平衡感覚が狂っているのか、身体がぐらりと揺れていた。


―――しばらくは耳も使い物にならないだろう。


 私は狐面に背を向け、再び森の奥へと走り出した。


「……っ、ま、待て……!」


 背後から掠れた声が聞こえたが、足音は続いてこない。追おうとしても、まだ身体が言うことをきかないのだろう。


 それでも足を止めずに走り続けた、そのとき――突風が吹き荒れた。向かい風に面を押さえながら前へ進もうとするが、思うように脚が運ばない。


 やがて突風が収まると、立ちこめていた霧は押し流され、薄暗いながらも視界ははっきりとしていた。その奥に、漆黒の翼が見える。


 私は、その場に立ち尽くした。


 ――あぁ、もう終わりだ。


 そう思った瞬間、目の前に鳥面がいた。


 次の刹那、首に激痛が走る。先ほどの狐面とは違う。皮を破り、骨を断つ感触。


 ――切られた。


 すさまじい痛みの中で、分かたれた自分の身体が、ゆっくりと視界に落ちていった。


 痛みは、そこで終わった。音も、風も、匂いも、何も感じない。


 ――私は、死んだ。




 鬼面の首を携え、狐面は王の御前に跪いた。地面に頭を置くと、王はその頭を躊躇なく蹴っ飛ばした。


 付いていた鬼面が外れ、鬼面の顔が露わになる。


 額には二本の角があり、鬼の忌み子と呼ばれていたのにも納得がいく。忌み子の中でも最も醜いと言われていたが、その顔は、死してなお美しいと思えた。


 正気を失ったまま半開きになった瞳が、まるで己を責めているかのようで、狐面は思わず目を背けた。


「よくやった、狐面よ。鳥面が終わらせていたら、お前もこうなっていた」


 王の言葉に、狐面は身震いする。鳥面が頑なに自分へ役目を押し付けた理由を、ようやく理解した。


「遊びの時間は終わりだ。次はザバラ王国だったな…。狐面よ、次はお前が王の首を取ることを期待している」


 取れなければ死ぬことを意味するが、忌み子に選択肢はない。


「は!」


返事をすると満足するように、王の足音は遠のいた。側近たちも鬼面だけを拾い上げると、面白がるようにその頭を蹴り飛ばし、どこかへ去っていった。


 その場に残ったのは、鳥面だけだった。鳥面は、転がされた頭をそっと抱え上げると、何も言わずに歩き出す。


「……どちらへ?」


 問いかけても、返事はない。


 鳥面は近くの地面に膝をつき、鋭い爪で静かに土を掘り始めた。そして、掘り終えた穴に、その頭を丁寧に埋める。


 その上に草を被せた。おそらく、花の代わりなのだろう。焼けた地面から草を取って、自分も同じように被せる。


 鳥面は胸に手を置いたまま、しばらく動かなかった。おそらく、考えていることは同じだろう。


――すまなかった。どうか安らかに。



 眩しさに、目が覚めた。木漏れ日の隙間から差し込む陽の光が、やけに美しい。穏やかな風と、葉擦れの音に、ここが天国なのだと思った。


 切られたはずの首も、天国に来れば元に戻るのだろう。そう思いながら首元に触れた。確かにつながっていることに安堵する。切られた腕も戻っているかと思い、持ち上げてみたが、そこにあったのは凍結した切断面だった。どうやら、腕は治らなかったらしい。


 目を閉じ、ゆったりとした時間に身を委ねていると、不意に視界が暗くなる。目を開けると、それはそれは美しい、一糸まとわぬ少年がこちらを覗き込んでいた。


 ―――あぁ、天使が迎えにきた。

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