File.02 :ターボババア/追走者(スプリンター)Ⅰ

  一


 佐藤啓介の人生は、いつだって「消去法」で選ばれてきた。

 三十二年間の記憶を遡っても、そこに鮮烈な極彩色の思い出はない。あるのは、洗って色落ちしたジーンズのような、くすんだ灰色の日常だけだ。


 子供の頃から、啓介は「手のかからない子」だった。

 親の言うことを聞き、先生の言いつけを守り、掃除当番をサボる同級生を黙って見送って一人で箒を動かすような子供だった。

 真面目だね、と大人は褒めた。けれど、それは「都合がいい」と同義語であることを、啓介は薄々感づいていた。

 地方の公立高校から、中堅の私立大学へ。

 就職活動は、ちょうど氷河期の終わりかけだった。夢を見る余裕などなかった。

 第一志望のメーカーは全滅。滑り止めで受けた商社も落ちた。

 最後に内定をくれたのが、今の会社――都内に本社を置く、従業員五十名ほどの工業用部品商社だった。


『君のような、粘り強そうな人材が欲しかったんだ』


 最終面接で社長はそう言って笑った。

 啓介は、自分が認められたのだと思った。この場所でなら、歯車の一つとして堅実に回っていけるかもしれない。そう信じた。

 それが、地獄への入り口だとも知らずに。


  二


 入社三年目で、同期は全員辞めた。

 五年目で、付き合っていた恋人の由美が去っていった。

『啓介といても、未来が見えないの』

 ファミレスのドリンクバーの氷が溶ける音を、今でも覚えている。

 彼女を責めることはできなかった。デートの約束はいつもドタキャン。たまに会えても、啓介は社用携帯の着信に怯え、疲労で目の下に隈を作っていたのだから。


 そして十年目の今。

 啓介に残ったのは、三十五年の住宅ローンで買った郊外の狭いマンション(寝に帰るだけの箱)と、ストレス性の胃炎、そして「係長」という名の、残業代が出なくなるだけの空虚な肩書きだけだった。


「――申し訳、ありませんでしたッ!」


 額を擦り付けるようにして頭を下げる。

 山梨県甲府市。工業団地の片隅にある取引先の工場事務所。

 パイプ椅子にふんぞり返った工場長が、汚いものを見るような目で啓介を見下ろしていた。


「納品ミスってどういうことだ。ラインが止まったぞ。損害いくらだと思ってんだ」

「工場の手違いで、品番が……」

「お前の会社の管理不足だろ! これだから下請けは信用できねえんだよ!」


 怒号が飛ぶ。唾が飛んでくる。

 啓介はただ「すみません」と繰り返すだけの機械になった。

 悪いのは啓介ではない。発注データを間違えたのは本社の事務員だし、検品をすり抜けたのは倉庫のバイトだ。

 だが、現場で泥を被るのは、いつだって営業の仕事だった。


 二時間後。

 ようやく解放された啓介は、深夜の駐車場で震える指でタバコに火をつけた。

 スマホを見る。部長からの着信履歴が五件。LINEには『解決したか?』『始末書、明日朝イチで出せよ』というメッセージ。

 労いの言葉は一文字もない。


(……帰ろう)


 吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し込む。

 時刻は午前一時を回っていた。ここから東京まで、高速を使っても二時間はかかる。

 明日の出社は八時半だ。風呂に入って、仮眠をとって、また満員電車に揺られて。

 ふと、車の鍵を持つ手が止まった。


(俺、なんのために生きてるんだろう)


 答えは出ない。

 ただ、月々のローン返済額と、光熱費の数字だけが脳裏をよぎる。生きるコストを払うために働いて、働くために生きている。

 その循環(ループ)には出口がない。

 啓介は、逃げ込むように社用車の軽バンに乗り込んだ。


  三


 深夜の中央自動車道は、世界から切り離された異界のようだった。

 激しい雨がアスファルトを叩いている。

 他の車はほとんどいない。たまにトラックが水しぶきを上げて追い抜いていくだけだ。


 ザザザ、ザザザ。

 単調なワイパーの音が、疲弊した脳を麻痺させていく。

 強強打破のカフェインですら、蓄積された十年分の疲労には勝てない。意識が泥水の中に沈んでいきそうになる。


 ――楽になりたい。


 その言葉が、不意に口をついて出た。

 視界の端に、白いガードレールが流れていく。

 ハンドルの遊びを、ほんの少し左に切るだけでいい。

 そうすれば、鉄の塊ごと谷底へダイブできる。痛みは一瞬だろう。そのあとには、果てしない静寂と、永遠の眠りが待っている。

 明日、謝らなくていい。電話に出なくていい。


 啓介の視線が、虚ろにガードレールへ吸い寄せられていく。

 死への恐怖よりも、生への疲労が勝っていた。

 このまま。

 このまま、終わらせてしまえば――。


 その時だった。

 魔が差したような静寂を破るように、バックミラーの隅に「違和感」が映り込んだのは。


(……バイクか?)


 それは、啓介が望んだ静かな死(救い)ではなかった。

 もっと暴力的で、おぞましく、理不尽な「死そのもの」が、ライトも点けずに背後から迫っていた。

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