内閣府国家情報局特殊探索群T分遣隊
月待ルフラン【第1回Nola原作大賞】
File.01:トイレの花子さん/双生児(ジェミニ)
昼間あれほど騒がしかった校舎が、夜になると巨大な死骸のように静まり返ることを、内田亜美は初めて知った。
午後六時を回った廊下は、海の底のように暗い。
自分の上履きのゴムが床を擦るキュッ、キュッという音だけが、鼓膜にへばりつくように響く。鼻をつくのは、古びたワックスと埃の混じった、学校特有のあの乾いた臭いだ。
「……あった」
2年B組の教室。亜美は自分の席の机の中に手を突っ込み、スマートフォンを掴み取った。
画面を点灯させる。LINEの通知が数件。安堵で息を吐いた瞬間、下腹部に重い痛みが走った。
生理痛だ。それも、立っていられないほど急激なやつ。
亜美は脂汗の浮かんだ顔で廊下へ出た。昇降口までは遠い。一番近いトイレは――旧校舎への渡り廊下を越えた先、突き当たりの女子トイレだ。
あまり行きたくない場所だった。「出る」という噂があるからではない。単に古くて汚いからだ。だが、今は選り好みしている余裕はなかった。
旧校舎の空気は、本校舎とは明らかに違っていた。
ねっとりと湿り気を帯びている。照明は間引きされ、蛍光灯が一本だけ、瀕死の虫のようにチカチカと明滅していた。
トイレに入ると、カビと下水、そして芳香剤の科学的な甘さが混ざった吐き気を催す臭気が充満していた。
亜美は一番手前の個室へ飛び込んだ。
用を済ませ、個室を出る。
手洗い場の蛇口をひねると、氷水のように冷たい水が出た。手を洗いながら、ふと鏡を見る。
水垢で白く濁った鏡。その隅に、何かが映った気がした。
亜美はハッとして振り返る。
誰もいない。
あるのは、古びた三つの個室だけ。手前と奥のドアは開いている。
真ん中の「三番目」だけが、閉ざされていた。
ベニヤ板の表面はところどころ剥げ、無数のひっかき傷のような木目がある。その傷跡が、苦悶する人の顔のように見えた。
(……花子さん、だっけ)
ふいに、そんな単語が脳裏をよぎる。
三番目のトイレ。三回ノック。呼びかければ、返事がある。
子供だましだ。今どき小学生だって信じていない。
けれど、このまとわりつくような重苦しい空気が、亜美を苛立たせていた。生理痛の不快感も手伝って、無性に何かを壊したくなるような、投げやりな気分だった。
(何も起きないってば。馬鹿みたい)
亜美は湿ったハンカチで手を拭きながら、鏡に向かってフンと鼻を鳴らした。
この不気味な静寂を、自分でぶち壊してやりたかった。
オカルトなんてない。お化けなんていない。私がそれを証明して、この陰気な場所を笑い飛ばしてやる。
そんな、軽はずみな悪戯心だった。
亜美は濡れた手で、三番目のドアの前に立った。
リズムよく、軽快に叩く。
コン、コン、コン。
乾いた音が、静寂に吸い込まれる。
亜美は口の端を少し歪めて、冗談めかして言った。
「……花子さん、あそぼ?」
半笑いの声が、タイル張りの壁に反響する。
一秒。二秒。三秒。
何も起きない。
ほらね、と亜美は肩をすくめた。やっぱりただの噂だ。自分が少し怖がっていたことが滑稽に思えてくる。
さあ、帰ろう。コンビニで温かいココアでも買って。
踵を返そうとした、その時だった。
『――はーい』
心臓が跳ねた。
声は、個室の中から聞こえたのではなかった。
耳元だ。
板一枚隔てた目の前、ドアのすぐ裏側に「それ」がへばりついて、板に唇を押し当てて囁いたのだ。
幼い子供の声。けれど、水底から響くような、湿ったノイズが混じっている。
(嘘、でしょ……?)
ギィィィィィ……。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げた。
ドアが、ゆっくりと開いていく。外側ではない。
内側へ向かって、あり得ない方向へ蝶番がねじ切れながら、闇への入り口が開いていく。
亜美は悲鳴を上げようとして、喉を引きつらせた。
暗い個室の真ん中。便器の中から、真っ赤な何かがあふれ出していた。
スカートではない。
それは、皮を剥がれた筋肉の塊だった。赤黒い繊維が風船のように膨れ上がり、ブクブクと泡立ちながら脈打っている。その上には、おかっぱ頭の形をした「黒い針金の集合体」が乗っていた。顔はない。裂けた口だけが、ニヤリと笑っていた。
逃げなきゃ。
亜美は出口へ向かって走った。だが、足がもつれて手洗い場に倒れ込む。
出口がない。
トイレの入り口が、びっしりと張り付いた「濡れた黒髪」で封鎖されていた。髪の毛は壁や床のタイル目地からも次々と生え出し、生き物のように蠢いて亜美の足首に絡みつく。
冷たい。氷のような冷気と、腐った魚のような生臭さが鼻腔を犯す。
『あそぼ、あそぼ、あそぼ、あそぼ』
背後から、ズルズル、ベチャ、と濡れた雑巾を引きずるような音が迫ってくる。
亜美は手洗い場の下にうずくまり、頭を抱えた。
ごめんなさい。調子に乗りました。悪戯でした。謝りますから。
黒い髪の毛が顔に触れる。ヌルリとした不快な感触。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、亜美は絶望的な祈りを捧げた。誰か、誰か助けて――。
カシャン。
唐突に、硬質な音が響いた。
涙で滲んだ視界の端、トイレの曇りガラスに、黒い円筒形の物体が張り付いているのが見えた。
ドォン!!
鼓膜を破るような爆音が、死の静寂を粉々に粉砕した。
窓枠が吹き飛び、強烈な閃光が狭いトイレ内を焼き尽くす。ただの光ではない。金色の粉塵を含んだ輝きが、絡みつく黒髪の影を瞬時に霧散させた。
「ギェアアアアアア!」
怪異が目を焼かれ、苦悶の絶叫を上げる。
白煙と硝煙の混じる中、砕けた窓から黒い影が滑り込んできた。
ラペリング降下。
軍靴(コンバットブーツ)の底が、不浄な床を容赦なく踏みしめる。フルフェイスのヘルメット、黒いボディアーマー。手には無骨なアサルトライフル。
四名の武装集団が、雪崩れ込んできた。
彼らはうずくまる亜美を一瞥もしなかった。まるでそこに転がる石ころか何かのように無視し、流れるような動作で銃口を怪異へ向ける。
「ブリーチ。クリア」
「コンタクト。前方、クラスB。マテリアライズ(実体化)確認」
ヘルメット越しのくぐもった声。そこに恐怖も、嫌悪も、焦りもなかった。あるのは事務的な冷徹さだけ。
先頭に立った男――隊長(アルファ・リード)が、短く命じた。
「エンゲージ(排除せよ)」
シュッ、シュッ、シュッ。
サプレッサーで減音された乾いた銃声が、連続して叩き込まれる。
正確無比な射撃。亜美を襲おうとしていた肉塊に、5.56ミリ弾が次々と突き刺さる。
着弾の瞬間、肉塊から青白い火花が散った。銀のジャケットが霊的皮膚を焼き、弾芯に仕込まれた岩塩が体内で炸裂する。
怪異の頭部が弾け飛び、腐った肉片を壁にぶちまけた。
「ターゲット・ダウン」
あっけない幕切れ。亜美が呆然と息を呑んだ、その時だ。
飛び散った肉片が、ビデオの逆再生のように動き出した。黒い霧を集め、瞬く間に元の「おかっぱ頭」を形成していく。
「効果なし(ネガティブ)。再生確認」
隊員の報告にも、動揺の色はない。
後方に控えていた小柄な隊員(アルファ3)が、手元の端末と線量計を操作した。
「K線量、再上昇(リサージ)。……パターン『ジェミニ』」
「ソース」
「直上(オーバーヘッド)、フロア4。パス接続(コネクト)。因果閉鎖(ループ)」
「コピー」
隊長は即座にライフルを構え直す。
因果がループしているならば、その円環を同時に断ち切るのみ。
彼はヘルメットの無線機に手を当てる。
「HQよりブラボーへ。プラン変更。対象フロア4へ展開せよ。同時排除へ移行する」
『ブラボー・リード、コピー』
再び怪異が膨れ上がる。今度は全身から無数の触手を生やし、怒り狂って襲いかかってきた。
先頭の隊員(アルファ1)が前に出る。左手のバリスティック・シールドを構え、強烈な体当たりを受け止めた。
シールドの表面に貼られた護符が発光し、衝撃を殺す。
アルファ1は無造作に手を伸ばすと、へたり込んでいる亜美の襟首を掴み、乱暴に引き寄せた。
「ひっ……!?」
「民間人、退避。……そこで耳を塞いでいろ」
彼が示したのは、シールドの裏側、もっとも安全な場所だった。だが、その扱いは荷物と変わらない。
無線からノイズ交じりのカウントが聞こえる。
彼らの網膜には、《八咫烏》が算出した「撃破可能時刻」へのカウントダウンが赤く明滅しているはずだ。
『ブラボー、セット完了』
「アルファ、セット」
隊長がライフルを構え直す。
E-Dot鳥居サイトのレンズが薄紫色に発光し、怪異の核(コア)を捉えた。
上階の部隊と、呼吸を合わせる。コンマ一秒のズレも許されない。因果のループを物理的に切断するための儀式。
『――マーク(執行)』
ドンッ!
三階と四階。
コンクリートの床を隔てた上下で、二発の銃声が完全に重なった。
怪異の悲鳴はなかった。
破裂した肉塊は、今度は再生しなかった。空中に描かれていた見えない糸がプツリと切れ、実体を維持できなくなった黒い灰が、サラサラと床に崩れ落ちていく。
不浄な気配が、急速に薄れていった。
「ターゲット、沈黙(サイレント)。K線量低下。空間O.D.値、正常化」
「状況終了(クリア)。RTB(帰投する)」
隊長が銃を下ろす。
静寂が戻ったトイレに、換気扇の回る音だけが響いていた。
亜美は震える足で立ち上がろうとした。助かったのだ。この黒ずくめの人たちが、あのお化けを退治してくれたのだ。
お礼を言わなきゃ。
「あ、あの、ありが……」
言いかけた言葉は、最後まで続かなかった。
目の前に、アルファ3と呼ばれていた隊員が立っていた。
彼は何も言わなかった。「大丈夫か」とも「怪我はないか」とも聞かなかった。
ただ、無機質なレンズの奥から亜美を見下ろし、手にしたインジェクター(注射器)を、亜美の首筋に押し当てただけだ。
プシュッ。
圧縮空気が皮膚を穿つ音。
冷たい液体が首筋から脳へと駆け巡る。
亜美の視界が、急速に白く濁っていった。意識が遠のく。
最後に見たのは、闇に溶けるように去っていく隊員たちの背中。
そこには白い塗料で、一文字だけ、アルファベットが刻印されていた。
――T
それは、理不尽な恐怖(Terror)を、圧倒的な力でねじ伏せるための象徴だった。
「あれ、ここ工事中だって」
「えー、マジ? じゃあ向こうのトイレ行こうよ」
翌日。
内田亜美は友人と共に、黄色いテープの貼られた旧校舎のトイレの前を通り過ぎた。
ガス管の工事らしい。昨日の夕方、ボヤ騒ぎがあったとかで、立入禁止になっている。
昨日、自分がどうやって帰ったのか、よく覚えていなかった。気がついたら自分の部屋のベッドで寝ていた。たぶん、貧血で倒れて、誰かが運んでくれたのだろう。
首筋に虫刺されのような跡があって少し痒かったが、それだけだ。
亜美は友人の笑い話に相槌を打ちながら、廊下を歩いていく。
あのトイレのドアの向こうに何があったのか。
それを思い出すことは、二度となかった。
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