File.03:ターボババア/追走者(スプリンター)Ⅱ

 一


(……バイクか?)


 最初はそう思った。

 バックミラーの隅、赤黒い闇の底から、猛スピードで迫ってくる影があった。

 だが、すぐに違和感が背筋を駆け上がる。

 ライトがない。

 こんな土砂降りの深夜、時速八十キロで流れる高速道路を、無灯火で走る乗り物などあるはずがない。

 それに、動きが異常だった。

 右の車線から左の車線へ。さらに路側帯へ。

 まるで熱湯をかけられた蟲のように、激しくジグザグにのたうち回りながら、それでも一直線に啓介の軽バンとの距離を詰めてくる。


(なんだ……なんなんだよ、あれ)


 啓介は無意識にアクセルを踏み込んだ。

 速度計が九十キロを超える。車体がガタガタと悲鳴を上げ、ハンドルの振動が骨に響く。

 逃げなければならない。

 さっきまで「死にたい」と願っていたはずの脳が、今は「あれに捕まってはいけない」という原初的な警報を鳴らしていた。


 影は離れない。むしろ加速した。

 二百メートル。百メートル。五十メートル。

 道路上の街灯が、一瞬だけオレンジ色の光を投げかけ、その正体を暴き出した。


「――ひっ」


 啓介の喉から、空気が漏れた。

 見間違いであってくれと願った。脳が疲れて幻覚を見ているのだと思いたかった。

 人間だった。

 ボロボロのモンペを履いた、白髪の老婆だ。

 だが、走り方が決定的に狂っていた。


 四つん這いですらない。

 仰向けだ。

 背中を地面に向け、手足の関節をあさっての方向にねじ曲げた「蜘蛛歩き(スパイダーウォーク)」で、老婆はアスファルトの上を滑走していた。

 地面に擦れる背中からは火花が散り、白髪が濡れたモップのように雨風になびいている。

 その顔は――逆さまのまま、啓介の方を見ていた。


  二


「う、うわ、うわああああああ!?」


 啓介は絶叫し、アクセルを床まで踏み抜いた。

 時速百十キロ。軽自動車の限界速度。エンジンが焼け付くような異臭が漂い始める。

 だが、バックミラーの中の怪物は、あざ笑うように加速した。


 カサカサカサカサッ!


 タイヤの走行音に混じって、硬い爪がアスファルトを搔く乾いた音が聞こえてくる。

 速い。あまりにも速い。生物としてのリミッターが外れている。

 老婆は一瞬で軽バンの真横に並んだ。


 窓ガラス一枚隔てた向こう側。

 暴風雨の中を、老婆が並走している。

 手足の動きが見えない。あまりの高速回転に、千手観音のように腕がブレて残像になって見える。

 バキ、ボキ、と関節が外れては嵌まる音が、風切り音に混じって鼓膜を犯す。


 老婆が、首をギギギと回転させた。

 目が合った。

 眼窩には眼球がなく、ただ暗い穴が空いているだけだった。

 口は耳まで裂け、そこから紫色の長い舌がダラリと垂れ下がっている。舌先が風に煽られ、ピチピチと鞭のように自分の顔を叩いていた。


『ギ、ギギ……速イねェ、速イねェ……』


 ガラス越しに、声が聞こえた気がした。

 それは老婆の声ではなかった。複数の人間が同時に囁いているような、不協和音のノイズ。


 ドォン!!


 衝撃。車体が横滑りし、啓介は悲鳴を上げてハンドルにしがみついた。

 張り付いた。

 老婆が、走行中の車の助手席ドアに飛び乗ったのだ。

 窓ガラスに、逆さまの顔が押し付けられる。

 潰れた鼻。黄色く変色した歯。腐った息がガラスを曇らせる。


 ベチャリ。

 垂れ下がっていた紫色の舌が、窓ガラスに吸い付いた。

 ナメクジが這うように、舌がガラスの表面を這い回り、粘液を塗りつけていく。


「離れろ! 落ちろ! 頼むから落ちてくれええええ!」


 啓介は半狂乱でハンドルを左右に振った。車体は激しく蛇行し、ガードレールと接触して火花を散らす。

 だが、老婆は落ちない。

 細い指先が、窓枠のゴムパッキンに深く食い込んでいる。爪が剥がれ、指先からドス黒い血が流れ出し、雨水と混じって窓を汚していくのに、老婆はへばりついたまま笑っていた。


  三


 ミシッ……。


 車内に、聞いてはいけない音が響いた。

 強化ガラスに、蜘蛛の巣状の亀裂が入る。

 老婆が、頭突きをしたのだ。何度も、何度も。

 ガンッ! ガンッ! グチャッ!

 老婆の額の皮膚が裂け、白い頭蓋骨が見えている。それでも自傷行為のような頭突きは止まらない。

 痛みを感じていないのではない。「中に入る」という執念だけが、肉体の崩壊を凌駕している。


 死にたいなんて嘘だ。

 ガードレールに突っ込んで死ぬのは、一瞬の解放かもしれないと思っていた。

 だが、これは違う。

 これは「救い」ではない。理不尽で、暴力的で、おぞましい「捕食」だ。

 嫌だ。こんな化け物に喰われて死にたくない。生きたい。惨めでもいいから生きたい。


 ピキ……パリン。


 ガラスに小さな穴が開いた。

 そこから、猛烈な腐臭が車内へ吹き込んでくる。生ゴミと、排気ガスと、死体の臭い。

 そして。

 穴の隙間から、紫色の舌がニュルリとねじ込まれてきた。

 舌は生き物のように蠢き、車内の空気を探るようにクネクネと動く。


「ひっ、あ、あ……」


 啓介の股間が熱くなり、すぐに冷たくなった。失禁していた。

 逃げ場はない。ここは時速百キロで走る密室だ。

 前方に、小仏トンネルの黒い口が見えた。救いではない。あれは巨大な怪物の食道だ。あそこに入ったら、もう二度と出られない。


 ガシャアアアアン!!


 トンネルに入った瞬間、助手席の窓が粉砕された。

 轟音と暴風と共に、老婆の上半身が車内になだれ込んでくる。

 折れた肋骨が皮膚を突き破り、内臓の腐った臭いが鼻をつく。

 至近距離。

 眼球のない眼窩が、啓介の顔の目の前に迫る。


『――捕マえタ』


 枯れ木のような指が、啓介の喉仏を掴んだ。

 握力は万力のように強く、爪が皮膚を突き破って気管に達する。

 ゴボッ、と血の泡が口から溢れた。

 意識が暗転していく。

 老婆の裂けた口が、啓介の顔を喰らおうと大きく開かれた、その時だった。


 ダッシュボードのスマホが、警告色に染まった。


『――警告。因果合流地点(マージ・ポイント)へ到達』


 啓介の意識が途切れる寸前。

 バックミラーに、新たなヘッドライトが映った。

 獲物を狩る獣の眼光のように鋭い、青白いLEDの輝き。

 漆黒の車列が、こちらの車を遥かに凌駕する速度で迫っていた。

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