この家に来てふた月が経った。


 花瓶には花が活けられ、リビングに飾られている。何という花なのか知らないが、小さくて可愛らしい花だ。

 秒針の影は、あれから数日後に消えていた。

 いや、消えていたというのは正しくない。正確には『ただの影に成っていた』だ。

 記憶の消去が済んだのだろうか。

 あまり、考えたくはない。

 他にも誰かいないかと探してみたが、今のところ、この家の中に『生きた影』は自分だけのようだ。


 寂しい。

 退屈だ。


 こうしてリビングに一人いても、普段はほとんど誰もいないし、食事の時は賑やかでも、話している内容まではほとんど理解出来ないようになってしまった。だから光の角度によってはテレビが見えることもあるが、どうにも楽しむことが出来ない。思考はまだ正常に感じるが、五感はもうほとんど使い物にならなくなってきたようだ。このままだと、視力もいつ役に立たなくなるかわからない。


 最近はひたすらに、コミュニケーションへの渇望を感じている。

 会話がしたい。

 意思を交したい。

 贅沢をいえば、ふざけあって笑いたい。

 記憶を、思い出を誰かと共有したい。

 消えてしまうと知っていても。

 無意味なことだとわかっていても……。

 あれから、どれだけの記憶を失ったのだろうか。

 それを知る術はないが、何だかあまり変わっていないような気がする。

 夜はあんなにも苦しいのに、こんなに時間がかかるものなのか。

 いつまで続くんだ、この生活は。

 他人の幸せな人生を見せつけられて、僕はどうすれば良いんだ。

 これならあの雑貨屋に並んでいた時の方がよっぽどマシだった。

 もう、沢山だ。

 行き場のない怒りや憎しみが込み上げてくる。

 畜生!

 殺せ!

 記憶を消したいのなら、ぶん殴って消してくれ!

 存在しない腕を振り回し、存在しない頭を掻き毟る。

 しかし、影の体は身じろぎひとつ出来ない。


「あ」


 突然、花瓶がテーブルの上から倒れて落ちる。

 母親がぶつかってしまったらしい。

 為す術もなく、花瓶は床に叩きつけられ──、


 カシャン。


 ……。


 …………。


 ……………………。


 ………………………………。


 …………………………………………。


 ──。


 ──、──。


 ────。


 ────、──。


 ……声が、聞こえる。誰の?


 僕は、どうなったんだ?


 目をうっすらと開けてみる。

 眩しい。

 そこは、見覚えのある光景だった。

 見覚えのある光景なのだが、いったい何処なのかはわからない。

 まるで雲に包まれているかのような場所だ。

 あの世、だろうか。

 思い出せないが、きっとそうだろう。

 僕の周りでは、幾人かの人間が作業をしている。

 声は聞こえるが、何を言ってるのかはわからない。

 何をしているのだろう。

 一人がこちらを向いた。

 僕を見ているのか?

 ゆっくりと、近付いてくる。

 奇妙な形の人間だ。

 腕や足が、てんでばらばらに折れ曲がっている。

 あれで作業が出来るのだろうか。

 おや、何か手に持っている。

 袋か?

 そいつは手を袋に突っ込むと、中から何かを取りだした。

 何だ?

 握りしめているので見えない。

 ───っうわ。

 そいつは握っていたものをこちらに投げ付けてきた。

 粉、か?

 何の粉なんだ。

 急に、まるで強烈な睡魔に襲われたかのように頭がぼうっとしてくる。

 どうしたんだ?

 今の粉の仕業なのか?

 何もわからないまま、僕の意識は急速に失われ──。


 ……。


 気が付くと、見知らぬ部屋にいた。

 あれ?

 ここは何処だ?

 僕は今まで……何処にいたんだっけ?

 確か、いつも通りリビングのテーブルの上に……。

 いや、違うか?

 思い出せない。

 何だか妙に頭がぼんやりとする。

 いつも夜が明けた時にはこうして記憶が曖昧になるものだが、これはいつもとは違う感じだ。


 とにかく、ここは何処なんだ。

 辺りを見渡す。

 僕の体は壁に落ちている。観察するにはちょうど良い位置だ。

 僕の本体は、これか?

 それは机の上に置かれた、ヒビだらけの歪な一輪挿しだった。

 壊れたものを修復したのかも知れない。

 狭くて雑然とした部屋の中には、他にも修復した形跡のあるものが至る所に置いてある。

 花瓶や食器以外にも、置き時計や木製の椅子、ぬいぐるみといった様々なものが置いてある。

 骨董品屋、とは違うようだ。

 修理屋だろうか。

 だとしたら、何故修復が終わったものがこんなに置いてあるのか。

 自分も含め、どれも綺麗に直してあるように見えるが……。修理が終わったら依頼主のもとに返されるのではないのか?

 もしかしたら、趣味なのかも知れない。

 捨てられているものを拾ってきては、自分で直して飾る。

 趣味にしては本格的過ぎるかも知れないが、仕事というよりはしっくりくる。


 この部屋には窓がないので、外の様子はわからない。

 広さは八畳程だろうか。居住スペースというよりは物置のような感じだ。

 今は天井の灯りが点けられているので安心だが、電気を消されたら真っ暗になるだろう。


 これは、困ったことになった。

 まずは状況を整理しよう、

 そもそも何故こんなところにいるのか。

 さっきまで家のリビングにいたじゃないか。

 家の……誰の家だ?

 自分の家、じゃないよな……。

 ダメだ。記憶が混乱している。

 待て待て、僕は死んだんだ。影に成ったんだ。それは間違いない。それだけははっきり覚えている。


 だから、あれは自分の家じゃない。

 そうだ、あの子の家だ。

 雑貨屋で僕を買ってくれた、あの子の家だ。

 そして、テーブルの上にあった僕を母親が倒してしまって……。


 よし、だいぶ頭がはっきりしてきたぞ。

 もう一度、部屋の中を見渡す。

 おや、あの影は……。


「も、もしかして、君も影か?」


 机の対面にある棚の中段に壁にもたれ掛かるような形で床に置かれた、小さな猫のぬいぐるみの影が話し掛けてきた。


「は、はい。そうです」


 すぐに答える。

 ああ、なんということだろう!

 この数ヶ月切望していた話し合い手に、ついに出会えたのだ。

 嬉しくて、思わず飛び上がりたい気分だ。

 どれ程この瞬間を待ちわびたか。

 良かった。これでこの部屋の生活も、少しは希望のあるものになる。


「いつからここにいるんですか?」


「わからん。私の場所からは時計が見えないし、ここには窓がないから……」


「そうですか……」


「君は、いつからだ? まさかずっと黙っていたんじゃないだろうな?」


「まさか。たった今、たった今ですよ」


「ああ良かった。実はずっと一人でいたせいで、もう気が狂いそうだったんだよ」


「僕もです、僕もです!」


 仲間だ。本当に良かった。

 僕は独りじゃない。彼も独りじゃない。

 会話が出来る。

 コミュニケーションが取れる。

 情報を共有して役立てることが出来る。

 生きている時はあたりまえに出来ていたことが、何と愛おしく、何と嬉しいことだろう。


「私は、ここに来る前はある一家のところにいたんだ。私は──このぬいぐるみは、その子の三歳の誕生日のプレゼントだった……。そこには、半年くらいはいたかな」


「半年も」


「辛いことは確かに多かったが、幸せなこともあったよ。生前、私にも娘がいたんだ。もう、あまり思い出せないけれど……」


 ということは、彼はずいぶん高齢で死んだのではないだろうか。そうでなくては影になって半年も経つのに、自分に子供がいたこと──よっぽど若くして子供を持ったのでなければ──子供が生まれて以降の記憶を憶えているはずがないだろう。どれくらいのペースで記憶が失われていくのかはわからないが、彼の苦しみはまだ長く続きそうだ。


「その子はね、私を大事にしてくれたよ。しかし、ある日。何の弾みか僕の体がゴミ箱に落ちてしまって……」


「それで、ここに?」


「ああ。今の体は、その時のぬいぐるみとは違うようだがね。ゴミ処理場で燃やされた後に、ありがたくない転生を果たしたらしいよ」


「僕も同じようなものです。僕の場合は、母親がうっかり倒してしまって……」


「それは災難だったな」


「はい……。ここは、物置ですかね?」


「うん。よくわからんが、個人の作業場らしいな。たぶん、趣味でゴミの修復をしているんだろう」


「珍しい趣味ですね」


「まったくだ」


 お互いに、声に出して笑う。

 ああ、気持ちいい。

 笑うことがこんなに気持ち良かったなんて!

 こうやって、毎日笑って過ごしたい。

 どうか、空っぽになる時までは……。


「ところでこの部屋、窓がありませんけど……電気消されたら真っ暗ですよね?」


 少し安心したところで、僕は一番聞きたかった質問に移る。


「ああ……たまにこうして点けっぱなしのまま出て行くこともあるが、一度消されてしまうと次はいつここに来るかわからないからな……」


 どうやら話し相手が出来たといって、手放しで喜んではいられなさそうだ。

 一晩闇の中にいるだけでも大変な苦痛なのに、何日も真っ暗な中にいたらどうなってしまうんだろう。次に灯りが点いた時、果たして自分は自我を持った存在でいられるのだろうか。ぬいぐるみの彼はまだずいぶん記憶がしっかりとしているようだから、一気に消えてしまうことはないのだろうが……。

 いや、一気に消えた方が楽なのか。

 どうもすぐに「忘れたくない」と思ってしまう。

 そのせいで、なかなか記憶が消えないのだろうか。

 忘れる努力をするべきなのかも知れない。

 それは、とても難しいことだけれど……。

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