僕がこの部屋で目覚めてから、丸一日が経過した。


 今が何月何日なのかはわからないが、時計は確認出来るので、経過時間は正確に把握出来る。もちろん、時刻が正しいとは限らないが。

 しかし時計を見ていると、どうしてもあの秒針の影を思い出してしまう。

 記憶を無くし、自我までも失った魂。

 受け入れがたい有様だった。

 そのことを、ぬいぐるみの彼にも教えるべきか?

 いや、もしかしたら自分がこの先どうなるのか、すでに知っているかも知れない。ずいぶん長い間影として過ごしているようだから、可能性はある。ならばわざわざ話すことはないだろう。話して楽しい話題ではない。


 この一日の間、僕達はただひたすらにお喋りをして過ごした。

 話題は専ら生前のことで、死んでからの話はどちらからともなく避けていた。

 話していると、今まで思い出せなかったことも思い出せた。思い出せる限り最も最近の記憶は中学校での生活についてだ。友達のこと、勉強のこと──思い出せはするのだが、話しているうちに何を話していたのか忘れてしまう。そんな時は気に病まず、お互い笑って次の話題を探した。


 嬉しかった。

 楽しかった。

 幸せだとさえ思った。

 僕達は夢中で話した。

 久し振りに喋ったせいで、疲れてしまった。

 眠ることはないが、今は少し休憩中だ。

 彼の方を見る。

 汚れた猫のぬいぐるみは、何を考えているのだろう。

 表情がわからないので、黙っていると感情が見えない。

 仕方がないので視線を他に移す。


 部屋の壁は、工具やが置かれた棚でほとんどが埋め尽くされている。床の上も同じような状態で足の踏み場もない。照明は天井に一つと、机の上の作業用ライトの計二つで、天井のライトだけが今は点けられたままになっている。どうやらここの主は手先は器用なくせに、相当だらしのない人間のようだ。


 しかし、主はいつ帰ってくるのだろう。

 もしかして、この部屋に来ないだけで家の中にいるのだろうか?

 そんなことを考えていると、扉がゆっくりと開くのが見えた。

 これが、だらしのない主だろうか。

 薄く開いた扉の隙間から、ゆっくりと手が差し伸べられる。

 そして──、


 カチッ。


 乾いた音を立てて天井の明かりが消えた。

 部屋の中は一瞬にして闇に包まれた。


 ちょっと、待ってくれ!

 心の準備ぐらいさせてくれよ!

 急激に輪郭を失い、魂が存在の確立を求めて暴れ出す。

 何処までが自分自身で何処からが闇なのか線引きをするために、心は拡がり収縮し、記憶と共にひび割れていく。


「ああああああ!」


 思わず声が出る。


「うう……ああああ……」


 彼の声も耳に届く。

 気が触れたような二重奏が、真っ暗闇の部屋の中に響く。

 誰か、助けて。

 助けてくれ。

 早く気を失ってしまいたい。

 記憶なんてくれてやるから。

 この苦しみを、止めてくれ!


「いやだ、忘れたくない……」


 彼の声だ。


「もう名前も思い出せない……私が、つけた名前なのに……会いたい……抱きしめたい……愛しているよ……愛して……」


 確か娘がいると言っていた気がする。

 娘のことを思い出しているのだろうか。

 声が、嗚咽に変わる。

 泣くことなんて、出来やしないのに。

 彼には、こんなにも忘れたくない、素晴らしい思い出があるのか。

 僕にはあるだろうか?

 わからない。

 わからないけど、


「僕も、忘れたくない……」


 走馬燈のように流れていくのは、家族の顔。

 名前、か。

 自分の名前も、両親の名前も、まったく思い出すことが出来ない。

 いつ、忘れたんだろう。

 そういえば、彼の名前は?

 今まで訊くことさえ思いつかなかった。

 でも訊いたところで、彼も忘れてしまってるんだろうな。


「忘れたくない……」


 どうして彼はこんな罰をうけているのだろう。

 良い人そうなのに……。


「忘れたくないよう……」


 苦しみが意識を越える。

 もう、何も考えられなくなる。


 ……。


 気が付くと、眩しいくらいの光に照らされていた。

 目の前に誰か、いる。

 男だ。

 これが主だろうか。

 机に向かい、何か機械をいじっている。

 ラジオだろうか?

 ずいぶんとボロボロだ。どうやら修理しているらしい。

 作業の邪魔になるからか、僕の体は机の端に移されている。

 そうだ。彼は。彼は無事だろうか。


「大丈夫ですか?」


 出来るだけ大きな声で呼びかけてみる。

 主は僕の声には気が付かない。僕の声が人間に聞こえないことは、雑貨屋にいた時にすでに気付いていた。


「なんとか、大丈夫だ」


 向かいの棚から返事が聞こえる。

 男が邪魔で見えないが、どうやら彼も無事らしい。


「どれくらい、気を失っていたんでしょう?」


「わからない。時計を見る限り、少なくとも十時間以上じゃないかな」


 こちらからは時計は見えないが、彼からは見えるようだ。

 目の前の作業用ライトのおかげか、いつもよりずっと早く頭がすっきりしてきた。影が濃いからだ。


 男の顔を見る。

 下を向いているため顔はよく見えないが、そんなに若くはなさそうだ。

 三十代半ばか、後半だろうか。

 小さな工具を器用に動かし、壊れたラジオと格闘している。

 時折、ずれた眼鏡を指で直す仕草はずいぶんと神経質そうだ。しかし、ぼさぼさに乱れた髪と部屋の散らかり具合を考えると、神経質というよりは短気なだけかも知れない。


「一人暮らしなのかな……」


「他の家族を見たことはないから、おそらくは」


 独り言のつもりで呟いたのだが、ぬいぐるみの彼が返事をしてくれた。

 この距離では届かない程度の声だと思ったが、どうやら僕らの声は距離を越えて届くらしい。思えば口も声帯もないのだ。空気を震わせて音を伝えているはずもない。テレパシーのようなものなのだろうか。それならば自分達の声が生きている人間に聞こえないのも頷ける。


「この歳で独身なんですかね」


「らしいな」


「あなたは、幾つで結婚されたんですか?」


「結婚? 結婚したのは一昨年だから……あれ、幾つだっけな……」


「お子さんは、幾つの時に?」


「子供?」


 はっとして、僕は言葉に詰まる。


「いやあ、まだ新婚気分が抜けなくてね。子供はまだ良いかなんて話していて……」


「そう、ですか」


 わざとらしく「ははは」と笑って見せる。

 忘れて、しまったのか。

 あんなに忘れたくないと言っていた、娘のことを。

 忘れてしまったのか……。

 やりきれなさと、途方もない虚無感が襲う。

 何故彼が忘れて、僕は忘れていないんだ。

 僕が憶えていても仕様がないじゃないか。

 彼の娘なんだ。

 彼が憶えてなくちゃ、意味がない。

 彼が憶えてなくちゃ……。


「妻とはね、大学の時に知り合ったんだ」


 僕の思いを知る由もなく、彼は語り出した。


「入学してすぐに出会った。同じ学部だったんだ。友達の友達という感じで、最初はたまに話すくらいのものだった。つきあい始めてから知ったんだけど、実はお互いに、一目惚れだったんだよ。妻も私も、あまり積極的な方ではなかったから、実際につきあい始めたのは、卒業が決まってからだった。仲間内で卒業記念と称して飲み会を開いた。その帰り道に、酔った勢いで告白したんだ。一目惚れでした、ってね。『私もです』って返事を聞いた時、本当に嬉しかったなあ……」


 これは、本当は何年前の話なんだろう。

 今の彼にとっては数年前の出来事に感じているのかも知れない。

 しかし実際には彼には子供がいて、もしかしたら成人しているかも知れない。或いは、孫がいたっておかしくない。そんな『過去』は、彼にとってもはや『未来』と成ってしまったのだ。来ることは決してない未来に。


「就職して、一緒に暮らし始めて。本当はすぐに結婚したかったんだけどね。お互いの家庭の事情もあって、結婚まで十年もかかってしまった」


 この話から推測するに、彼の記憶は三十代半ばまで遡っているということになる。それにしては年寄り臭い喋り方に思える。それは影に成ってからの記憶の影響なのだろうか。いまいち、よくわからない。


「苦労、されたんですね」


 この話がもう終わってくれるように祈りながら返事をする。


「ああ。これからって時だったのになあ……子供も、欲しかった。妻は、私が言うのもなんだが、それなりに美人でね。もし娘が生まれたら、きっと可愛い子だっただろうに……」


 それっきり彼は口を噤んでしまったので、部屋の中は男が作業する音しか聞こえなくなった。


 何故、彼は口を噤んだのだろう。


 もしかしたら──自分は手元の明かりのおかげですぐ正気に戻ったが──彼は今頃になって回復してきたのだろうか。そして今の自分の発言に違和感を憶えているのかも知れない。さっき話していた記憶よりも未来の思い出のかけらが心の何処かに残っていたのかも知れない。そして、記憶を失っていく恐怖に震えているのだろうか。だとしても、何も言うまい。どうにも出来ないことなのだ。これ以上、彼を傷付けたくはない。


「今、何時ですか?」


 話題を変えようと、声をかける。

 本当はもっと膨らむ話題にしたかったが、今話が膨らむのも危険な気がした。


「今は……八時だね」


「朝ですかね、夜ですかね」


「さあ……」


「この男、どんな服装ですか?」


「上はTシャツ、下はスウェット、かな」


「ううん。平日の朝ではなさそうですね。日曜の朝か、仕事が終わって帰宅した夜か……」


「ありがとう」


 突然お礼を言われ、僕は「え?」と声を上げる。


「気をつかってくれているんだろう? 何か……君は憶えているんだね」


「あ、いや、その……」


 やはり、気付いてしまったか。

 上手く誤魔化すことも出来ずに慌ててしまう。


「私は、何を忘れたんだろうか。いや、教えてくれなくて良い。ただ……」


「……ただ?」


「……何でもない。忘れてくれ」


 忘れてくれ、か。


 消しゴムをかけるように自分で簡単に忘れることが出来たなら、どれだけ楽だろうか。


 僕はひとり、神を憎んだ。

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