保育器、というのだろうか。

 この狭いベッドに寝かされてからは、ようやく落ち着いた感じだ。

 分娩室からここまで来るまでの間、多少辛いこともあったが、思えば子宮の中にいた時よりはマシだった。

 とはいえ、医者や看護師があれこれ処置を施す度に、俺の体は歪み、捻れ、自我や記憶は薄れ削れていった。


 何を忘れたのかはわからない。

 ただ、心の中に消失感だけが残っている。

 ああ、何を忘れてしまったのだろう。

 無駄とわかりながらも、古い記憶を反芻してしまう。


 赤ん坊の影に成ったせいか、さっきから家族の顔ばかりが頭に浮かんでくる。


 父は、俺に対して厳しい人だった。職業は平凡なサラリーマンだが、子供の頃から続けている空手を思想の根幹としており、今でも週末には道場に通っている。その為、長男の自分には男らしさ、精神的な強さを求めた。それは強要に近いものだったかも知れない。そんな父は、妹が産まれるまでは、俺にとっては畏怖の対象でしか無かった。しかし、俺が三歳の時に妹が産まれ、俺の父に対する評価は大きく変化した。妹は、三歳の生意気なガキにとって、あまりにも弱く愛らしい存在だった。産まれたばかりの妹と初めて対面した時、俺は「ああ、父はこいつを守る為に俺を厳しく育ててきたのか」と確信した。思えば、父の思うつぼだったのかも知れない。父が初めから二人目を作るつもりだったのかは知らない。ただ妹の誕生は、父の教育方針を俺に納得させるのには充分過ぎる効果を与えた。それからの俺は、我ながら良い兄だったと思う。妹に対して最良の兄でいる方法は、自らが『良い人間』に成る他ない。俺は勉強もスポーツも人一倍頑張った。そして周囲に文武両道な最高の兄貴として印象付けることに成功した。妹も妹の友達も俺を尊敬してくれたし、俺は俺でそれなりに女子にもて、悪い気はしなかった。


 逆に母は、どちらかというと俺に甘く、妹に厳しかった。同性ということもあるのかも知れないが、妹の服装や立ち振る舞いには非常に口煩かった。俺は正直、そこまで煩くする必要はないのではないかと思っていたが口出しはしなかった。それというのも、妹は客観的に見ても平均以上に可愛らしい容姿で、行儀も良く、まあ自慢の妹だったからだ。それは妹が生まれ持った素質もあったが、母の教育の賜物だということは明らかだった。妹も別に嫌がることもなく、むしろ最近は母に感謝しているくらいだ。今、妹は……少なくとも、高校生……高校生のはずだが、母とは仲が良く、二人で買い物に行くこともしょっちゅうだ。最近は妹の影響か母の服装まで若返っている印象があり、息子としては複雑な気持ちだ。こんなことをいうのは恥ずかしいが、母も、まあ美人な方だと思う。ちなみに妹は成績優秀で品行方正ながらもおっちょこちょいなところもあり、兄としては『頼られがい』がある。但し、俺と違い理系の妹は機械いじりが好きで、その点に関しては兄形無しだ。


 ……最後に家族に会ったのは、いつだっただろうか。思い出せない。無理に思い出そうとしない方が、きっと幸せなのだろう。


 俺の悩みを知る由もなく、赤ん坊はすやすやと眠っている。

 まだ、産まれたばかりでは寝返りが出来ないのだったか。大して動きがないおかげで、俺の体が変形することもない。変形することがなければ、苦しい思いをすることもない。


 影の──俺の体の位置からでは、今は天井しか見ることが出来ない。

 病室の真っ白な景色は、静寂と薄闇に包まれている。

 今俺が置かれている異様な状況からすれば、似付かわしくない程に平和な光景だ。


 これから俺はどうなるのだろうか。

 どれくらいの間、影として生きなくてはいけないのだろうか。

 ふいに不安が襲いかかる。

 しかし、そんな気持ちもすぐに消えていってしまう。

 もう俺は人間ではないのだ、と思った。


   *


 二日が経った。

 今も病室で、母親と二人寝かされている。

 その間、色々な人間が俺を抱いた。その度に影が激しく歪み、苦しみが俺を襲ったが、その間のことはあまり憶えていない。憶えているのは心が千切れるようなあの感覚と、ひどい喪失感だけだ。


 あれから、俺はどれだけの思い出を失ったのだろう。

 古い記憶を呼び戻そうとすると、急に頭にもやがかかったようになる。まだこの数日の出来事の方がはっきりと思い出せる。


 新しい記憶は消えなくて良いのだろうか?

 いや、きっと簡単に消せるのだろう。

 たしか、何か、そんなようなことを聞いた覚えがある。


 ああ、気分が悪い。

 ずっと、気分が悪い。

 この不快さをどう表現するべきか。

 影の体に内蔵などありはしないのだから、胃が痛いとか肉体的に不快なわけではない。こんな姿になるまでは知る由もなかったことだが、肉体的な感覚がないと、精神的な感覚の説明がつかないのだ。『胸が苦しい』とか『頭が痛い』とか、そういった感覚ではなく、心そのものが直接痛む感覚。こればかりは、言葉では言い表せない。


 俺の体は今、夜の闇の中に浸かっている。

 赤ん坊の下敷きになっている『濃い部分』に意識の大半はこごっているが、ふと気が付くと天井からこちらを見下ろしていたりする。自分と世界との境界線が曖昧なのだ。


 俺、とは何なのだろう。

 自我や意識とは、いったい何処にあるのか。

 肉体を奪われ、心だけの存在となった俺の存在の拠り所は……。

 我思う──、というが『ここまでが自分』という明確な線引きの出来ない影の体には、あまりにも無力な言葉だ。肉体という依り代があってこそ『思う我』は確固たる存在として意識することが出来たのだと、今ははっきりとわかる。意識とは、自己という風船の中の気体のようなものだったのだ。


 そうすると、魂とは何を指す言葉なのだろうか。

 今が魂だけの状態だとすれば、意識がそれにあたるのか。

 ならば、このままではいつか散り散りになって消えてしまいはしないのか。よく、わからない。


 色々な考えが浮かんでは消えていく。


 ふと、脳がないのに考えることが出来ることを、可笑しく思った。

 脳がないのに、生きていた頃と同じように考えることが出来るのなら、脳とは何の為にあったのだろうか。

 そもそも肉体とは、何の為にあるのだろう。


 ……触れるため、だろうか。


 何だか無性に人肌が恋しくなった。

 恋人とか、いたんだっけ?

 思い出せない。

 俺、童貞で死んだのかな?

 いや、まさかそんなことはないか……。


 隣のベッドで眠る、母親の姿をちらりと見る。

 この女に抱かれた時だけ、影の体でも温もりを感じることが出来る。不思議だ。

 それを楽しみに思っている自分が情けない。

 そういえば、父親らしき男に抱きかかえられた時も温もりを感じた。保育器から出てすぐのことだ。


 もしかしたら、これは神の恩情なのかも知れない。

 赤ん坊の体が親の腕の中にある間だけは、無条件に安心することが出来る。それがなければ、俺はとっくに気が狂っていたかも知れない。


 温もりが、待ち遠しい。


 神に祈りたい気分だが、生前何の信仰も持っていなかったのに、今更神にすがるなど調子が良すぎるだろう。


 とはいえ、他に何が出来るわけでもない。

 泣き出したい気持ちだったが、泣くことも出来ない。

 あまりにも、無力だ。

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