3
三日が経った。
何だか今日は朝から慌ただしい雰囲気だ。
どうやら、退院するらしい。
思えば十数年生きてきて、初めての入院生活だった。
大きな病気をしたこともなければ、骨折などの怪我をしたこともない。生まれつき、体は丈夫な方だ。さらにいえば、背も高いし体つきも良く、小さな頃から体を動かすのが得意だった。いわゆる、体育会系ってやつだ。風邪もめったにひかない俺を、仲の良い友人は「お前は馬鹿だから」と笑っていた。
──笑っていたのは、誰だっけ?
思い出せない。
クラスメイトの顔も──。
また忘れてしまったのか。
寂しさが込み上げて、消える。
誰のことなら憶えているんだろう。
思い出そうとして、止めた。
もしかしたら、思い出したことから消えていってしまうのかも知れない。
どうせ忘れてしまうとしても、自ら忘れる手助けをしてしまうのは何となく嫌だった。
しかし、だんだんと慣れてしまったのか、忘れてしまうことを哀しいとも感じなくなってきた。
記憶や経験と共に、人間性まで失っているのか。
いや、失われたのは『成長』かも知れない。
人間、未来に成長出来るのは過去があるからだ。
過去がどんどん失われいってしまえば、成長など出来やしない。
ああ……こうして魂から全てを消し去ってしまうのならば、俺の生きた時間とは何だったのだろう。果たして意味のあるものと言えるのか?
何の為に生まれたかなど考えたこともなかったが、今更ながら気になってくる。
俺は、意味のある人生を送れたのだろうか。
そしてそれは、神の意図に沿うものだったのだろうか。
役立たずだから、寿命を待たずに死ぬことになったのか。
それとも、最初からこれが定められた寿命だったのか。
わからない。
きっと、正解はないのかも知れない。
そもそも、あの世に神はいるのだろうか。
見た覚えは、ない。
忘れてしまっただけだろうか。
……まあ、良い。
母親が、赤ん坊を抱き上げた。
温もりに心を奪われる。
これだけが、今の俺の支えだ。
影の体が床を滑り、壁に移る。
腕の中にも影は溜っている。
俺は、壁から腕の中の自分を見て、腕の中から壁の自分を見ている。
同時にそこにいるのに、どちらにもいないような奇妙な感覚。
また、頭がぼうっとしてくる。
このところは、苦痛を感じる前に、こうして意識が遠のくようになってきた。
ありがたい。
俺は、温もりに全てを委ね、考えることを止めた。
……。
気が付くと車の中だった。
母親は赤ん坊と並んで後部座席に座っている。
運転席に、父親の後頭部が見える。
外の景色は見えないが、走行中のようだ。
二人が何かを話している。
話しているのは聞こえるのだが、その内容が頭に入って来ない。
少し前から、こういったことがよくある。
常にではないのだが、聞こえているのに言葉の意味が理解出来ない。ただ音として感じるだけだ。見えるものに関してもそうだ。目に映ったものが、情報として自分の中に入ってこない。
こうして、俺はどんどん空っぽになっていくのだろう。
ふいに辺りがオレンジ色に染まった。
トンネルに入ったらしい。
幾つものライトが通り過ぎていく。その度に点滅する体が苦痛に曝される。
ああ、また、意識が……。
……、……。
──、──。
──!
────。
──。
誰かの、声が聞こえる。
楽しそうな、声だ。
つられて気持ちが明るくなる。
何を話しているのだろう。
わからない。
ははは。
まあ、何でも良いか。
笑うのは、久し振りだ。
気持ち良いもんだな。
楽しいこと、いっぱいあったよな。
学校でも、家でも、いっぱい笑ったな。
旅行に行ったり、遊園地とか、海や山に行ったり、笑った記憶なんて数え切れない。
数え切れない、はずなのにな。
……思い出せないや。
だんだんと、見えているものが意味を持ち始める。
赤ん坊の母親と、父親の顔が見える。
それと……誰だ?
ああ、いや、見覚えがあるな。確か、病室に来ていた。
おじいちゃん、おばあちゃんってやつか。
「──オカアサンハコチラニドウゾ」
父親がそう言った。
オカアサン……お義母さん?
ということは、母方の祖父祖母だろうか。自分の母親に敬語ということはあるまい。
ここは……ここは、庭か?
あれは、カメラか?
三脚が立てられている。
なるほど、そうか記念写真を撮るのか。
セルフタイマーを仕掛けたらしい。
写真に撮られると魂を奪われるというけれど、俺は大丈夫なのかな。
ははは。
カシャ、と小気味良い音が聞こえる。
良かった。どうやら何事もなかったようだ。
祖父と思しき老人がカメラに近付く。
上手く撮れているか確認したのだろうか。
画面を覗き込んだ後、こちらに向かって指を一本立てた。
もう一枚撮るのか。
うちの家族も、よく写真を撮ったな。
一緒に出掛ける時は必ずカメラを持っていった。
家には何冊ものアルバムが置いてある。
ずいぶん、見てない気がする。
死ぬ前にもう一度見たかった。
家族、みんなで。
最後に撮った家族全員が写っている写真はいつのだろう。
たぶん……この間の、俺の高校の入学式か。妹の中学の入学式と日にちが被らなくて良かった。妹の式には学校の授業があって出られなかった。まあ、学校がなくても行かなかったかも知れないが……。
妹は最近、反抗期というやつだ。といっても暴れたり大声を出したりするわけではない。ただ、ちょっとだけ受け答えが冷たいのが、少し寂しい。
俺もついこの間までは反抗気味だったが、妹の様子を見ていたら急に気持ちがおさまってきた。もともと理由があって反抗していたわけではないのだから、こんなものなのかも知れない。
カシャ、と再びシャッターの音が聞こえる。
祖父がまた、上手く撮れているか確認する。写真はあくまでも彼の担当のようだ。どうやら良い写真がとれたらしい。こちらに向けて指でOKサインを作って見せた。
「──、──」
母親が赤ん坊に何か声をかける。
優しい、愛情に満ちあふれた笑顔だ。
「──」
父親が何か言って、母親の肩を抱いた。おそらく、中へ入ろうと言ったらしい。
一同はカメラを片付ける祖父を置いて、家の中へと移動した。
家はまだ新しいのか、ずいぶんと綺麗だ。白い壁紙も眩しいくらいで、フローリングも輝いている。ここはリビングのようだが、奥にも部屋があるのが見えるし、二階もあるようだ。夫婦が二人で住むには広すぎるから、二世帯で住むのだろうか。母方の実家をリフォームしたのかも知れない。よく見ると古そうな家具もちらほらある。
明るい屋外から室内に移動したため、さっきまではっきりとしていた俺の輪郭が少しぼやける。それに合わせて、俺の気も一瞬遠くなる。
母親は俺を抱いたまま、リビングから二階へと移動する。
階段をゆっくりと登る。
俺の体の大部分は女の腕の中で凝ったままだが、光源の向きが変わる度に壁へ床へと千切れて苦しい。
気を紛らわすために、周りを観察してみる。
間取りはうちの実家に少し似ている。うちの方がずっと老朽化しているが、階段の造りなどそっくりだ。
うちの実家は、父さんが親から譲り受けたものだ。俺が生まれた時、家には父方の祖父母も一緒に暮らしていた。祖父が死んだのは俺が小学校に上がった年のこと。祖母はその翌年に、後を追うようにして亡くなった。
父さんは三人兄弟の末っ子だが、上二人の兄は仕事の関係で遠方に暮らしているため、父さんが親の面倒をみるために実家を貰うこととなったのだ。ちなみに母方の祖父母は、今でも元気に母さんの故郷で暮らしている。こちらは母さんの弟が面倒をみているので問題はない。
……俺のおじいちゃんおばあちゃんも、死んだ後に影に成ったのだろうか。
出来ればこんな風に苦しむことはなかったと思いたい。
優しくて大好きな、おじいちゃんとおばあちゃんだったから……。
母親の足が止まった。
どうやら、今日からここが俺の部屋に成るらしい。
いや、この赤ん坊の、か。
そういえば、赤ん坊は寝ているのだろうか。ずいぶん長いこと泣き声を聞いていない気がする。
光の加減で壁に映った体の一部から、赤ん坊の顔を覗き見た。
……泣いている。
どうやら俺の耳に届かないだけのようだ。
まあ、煩いよりはマシだろう。
俺はひとまず、前向きに考えることにした。
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