第三話 infant−2
1
気が付くと、とても温かい場所にいた。
夢を見ているのだろうか。そんな心地良さだ。
しかし、心の何処かがこれは現実なのだと訴えている。
ならば、ここは、何処だ。
そうだ、確か俺は死んで……。
影に、成ったんだ。
そう、俺は影に成ったんだ。
どうして、どうやってここに来たのかは思い出せない。
とにかく、俺は残った記憶を消すために影に成ったのだ、ということだけが鮮明にわかる。
誰に言われたのか忘れたが、確か俺は新生児の影に成ると言っていた。
ということは、ここは……?
もしかして、子宮の中だろうか。
薄い肉色に染められたこの空間は、心地良い温度の液体で満たされている。
新生児と言ったが、どうやらまだ産まれていないようだ。
目を凝らして、辺りをうかがう。
霞んでよく見えないが、まるで全身が目玉になったかの様に視界が広い。
この視界を漂う巨大な物体が、俺の『本体』とも言うべき赤ん坊なのだろうか。
『本体』が揺れる度に、俺の体は歪に形を変える。
そもそも暗い子宮の中で、影である俺の存在は希薄なようだ。
体が歪む度、闇に溶ける度に、狂いそうな程に意識が乱れる。
苦しい。
ああ、これが……こんなことが、ずっと続くのか。
ぼやけた輪郭から、自我が漏れ出していくようだ。
やめてくれ。
頼む。
少しの間だけで良い、動かないでくれ。
しかし、お構いなしに胎児は揺れる。
母親が動いているのか。
腹壁の向こうに灯りが透けて見える。
ここは、何処なんだ。
俺では無く、母親は何処にいるんだ。
病院か?
何か声が聞こえるが、内容まではわからない。
それに鼓動や液体の流れる音がうるさく、周りの状況まではわからない。
もしかして、今から分娩なのか?
臨月なのかも知れない。
腹の中は程よい広さだ。赤ん坊もすっかり人の形をしている。
産まれるのなら、早く産まれて欲しい。
外はここよりも、いくらかマシだろう。
光源の位置が変わる度に、俺の体は右へ左へ飛び交う。ひどい時は分裂さえしてしまう有様だ。分裂すると、それぞれに分かれた意識がお互いを見つめる感じになる。上手く説明出来ないが、ひたすらに不快だ。
不意に、辺りが静かになった。
光源の位置が定まり、いくらか気分が楽になる。
俺は耳を顰める。
しかし、とにかく腹の中の音が騒がしく、外の音はほとんど聞こえない。
血管の中を血が巡る音がする。
腸が蠕動し、消化物やガスが移動する音がする。
赤ん坊はうるさくないのか?
耳を塞ぎたい気分だったが、手を動かすことが出来ない。
それどころか瞬き一つ出来ないではないか。
影なのだから、当たり前か。
畜生。
俺が何をしたってんだ。
これじゃあ、まるで、拷問じゃないか。
ここは地獄なのだろうか。
地獄に堕ちるなんて聞いていない。
いや、待て。確か誰かが地獄も天国もないと言ってたはずだ。
誰だったかは思い出せないが、確かに聞いた覚えがある。
じゃあここは何なんだ?
そんなことを考えている間も、何処についているのかもわからない自分の目が、耳が、勝手に情報を伝えてくる。
匂いや味がわからないだけまだマシか。
今まで感じたことのない程の強いストレスを、心が直に感じている。
早く、終わってくれ。
いつまでこんな苦しみが続くんだ。
そうだ、記憶は? 何か忘れたか?
……くそっ、何を忘れたのかがわからないじゃないか!
影に成ってからの記憶はいやに鮮明だが、本当に効果はあるのか?
ただ苦しいだけなんてごめんだぞ。
思い出せ。何を忘れたのか。
いや、違う、ダメだ。もっとどんどん忘れなくては。
くそっ。
辛い。
苦しい。
自分では何も出来ないのか。
記憶がなくなるまでじっと耐えるしかないのか。
不意に、視界が暗くなる。
部屋の灯りが消えたのかも知れない。
とすれば、今は夜なのか。
体が闇に沈んでいく。
意識が遠くなる。
暗い。
何処までが『俺』で、何処までが『闇』なんだ。
目の前を漂う胎児の姿が朧気に見える。
俺の気持ちなど知らずに、安らかに眠っているようだ。
これが──この赤ん坊が、俺だったら……。
この子にはこれから無限の可能性が待ち受けている。
それに比べて自分はどうだ。
選択枝一つない苦しみの中に一人でいる。
羨ましい。
妬ましい。
……いや、待て。
この子も、生まれ変わる前は影だったのかも知れない。
誰もが魂の記憶を消されて、この世に産まれるのだ。
そうだ。
希望を持たねば。
俺もこの苦しみを耐えれば、また生まれ変わることができるのだ。
生まれ変わったら、いったい何に成るのだろう。
また、人間に成れるのだろうか。
こんな苦しい思いをしたのだ、人間だろうが何だろうが、幸せにしてくれなければ割に合わない。幸せになれるのなら、まあこの苦しみも我慢できないことはない。
しかし──、畜生。
ここは嫌だ。
この場所は嫌だ。
暗くて狭い。
自分が保てない。
もっと明るい場所へ行ってくれ。
頼む。
早く。
産まれろ。
早く、産まれろ!
その時、母親の体がビクンと跳ねた。
遠くで呻くような声が聞こえる。
陣痛だろうか。
願いが届いたのかも知れない。
子宮の中に、灯りが点る。
慌ただしい物音と声。
医者か看護師を呼んだのだろうか。
もしかしたら自宅で出産という場合も考えられる。
いや、そんなことはどうでも良い。
とにかくここから出たい。
母胎が、胎児が揺れ、俺の体が歪む。
その苦痛に、俺はじっと耐える。
他に方法がないからだ。
歪み、捻れ、重なり、混ざり、分れ、飛び交う体。
めまぐるしい苦痛。
色とりどりの不快。
これが地獄の責め苦でなくて、何だと言うのか。
心が削れ、魂が漂白されていく感覚。
こうしてどんどん、記憶を、思い出を無くしていくのか。
揺れが一旦おさまる。
複数の人間の声が聞こえる。
子宮が、胎児が動き始める。
動きに合せて回転する視界。
もう何も、考えられない。
いっそ気絶してしまえば楽なのだが、それは許されないようだ。
ふいに、体が闇に包まれた。
ここは──産道、なのか?
暗くて何も見えない。
低く、力強い音だけが聞こえてくる。
脈絡も無く、頭の中に映像が浮かんだ。
ああ、これは、俺が大学に受かった時の記憶だ。
妹は妹で高校受験に合格して、二人分ってことで、盛大にお祝いしたなあ。
受かったってわかった時、あいつ泣いて喜んでたっけ。
懐かしい。
あれ?
でも、入学したのはついこの間じゃなかったっけ?
いや、違うか。
俺は、そう、もう大人で……働いていたはずだ。
仕事帰りに死んだと、聞いたじゃないか。
誰に?
頭がぼうっとしてきた。
まるで脳味噌が溶けてしまったかのようだ。
今頭に浮かんでいた思い出が、消えていくのを感じる。
何で、妹も俺も、喜んでいたんだっけ?
もう、忘れてしまった……。
突然視界が明るくなった。
そして聞こえる叫び声。
産まれた、のか?
どうやら『本体』は医者に抱かれているようだ。
腕の中の俺は、本体の下敷きになっていて視界を奪われている。
未だ床に落ちている体の一部が、辺りの様子を見ている。
そこは、やはり病院だった。
白衣を着た複数の人間を、俺は見上げている。
母親はベッドに隠れていて、下からでは見えない。
へその緒が切られた。
一瞬、体が切断されるような感覚を覚えたが、幸いへその緒は俺の一部ではないらしい。痛みを感じることはなかった。
医師と母親は何か話しているようだったが、音としては聞こえても、その内容までは理解出来なかった。
赤ん坊が、大きな泣き声を上げる。
生きている、と少しだけ安心した。
別に死産だったとしても俺には関係ないのかも知れないが、まだ人並みの優しさは持ち合わせていたようだ。
母親へ、赤ん坊の体が渡される。
同時に、俺の体も母親の腕へと移る。
不思議なことに、医師の腕には感じなかった温もりを感じた。そして温度と共に胸に広がるこの気持ちは──。
やめてくれ。
この女は、別に俺の母親じゃない。
特別な感情なんて……。
戸惑う俺の耳に、赤ん坊の泣き声が突き刺さる。
嬉しいことに、抱かれている間はあまり影が歪むことはないようだ。
俺は見知らぬ女の体温を感じながら、ほっと息をつく。
頭が少しずつはっきりとしてきた。
母親が赤ん坊を医師の手に返す。
俺の影がまた歪んだ。
安らぐ暇は、どうやらなさそうだ。
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