3
「さあ、それでは行きましょう」
呆然としゃがみ込んだ僕を尻目に、彼女は弾んだ調子で言う。
何が嬉しいのか、楽しいのか。
僕はこんなに──、
「可哀想では、ありません」
僕を真っ直ぐに見て彼女が言った。
「貴方は、可哀想ではありません。思い出せないことを責めはしませんが、貴方はただ受け入れるべきなのです」
「僕は……地獄に堕ちるのか?」
先程から、ずっと気になっていたこと尋ねる。
僕が彼女の言うような悪人なのだとしたら、この後の行き先は天国であるはずがない。
しかし、地獄への案内も天使がするものだろうか。
僕には、彼女が悪魔には到底見えなかった。
「地獄など、ありません」
事務的な口調で彼女は言う。
よく訊かれる質問なんだろうな、と思った。
「天国も地獄もありません。但し『あの世』に相当する世界はあります」
「つまり、善人も悪人も、死んだら同じところへ行くのか?」
「そうです」
「そうなんだ……何か、報われないですね」
「報われない?」
「良いことをしたら天国へ行けるって、信じて頑張ってる人もいるじゃないですか。それなのに、悪人と同じところへ行くなんて……」
「それでしたらご安心下さい」
「え?」
「行くのは同じ場所でも、扱いは異なりますから」
訊かなければ良かったと、少しだけ後悔した。
「ご質問は、もう宜しいですか?」
「あ、はあ……」
本当はまだまだ訊きたいことが沢山あったが、何だか急にどうでも良くなってきた。
さっきまでの混乱は何処へ行ったのか、今はただ頭がぼんやりして、考えることが億劫だ。死ぬと、こんな感じなのだろうか。つい今しがたのことが上手く思い出せない。もう未来がないから、新しく記憶することが出来ないのかも知れない。
彼女はくるりと背を向けると、そのしなやかな腕で虚空に円を描いた。
すると手の動きに合せて、何も無かった空間に光のトンネルが現われた。
「さあ、行きましょう」
僕は彼女の言葉に従い、立ち上がった。
彼女の後ろについてトンネルをくぐる。
眩しくて、あたたかい。
見た目も感触も、ふわふわとしていて心地よい。
「この後の流れを簡単に説明させていただきます」
歩きながら、振り向きもせずに彼女が言う。
「ところで貴方は、ご自分の名前を憶えてらっしゃいますか?」
当然、と答えようとするが、全く頭に浮かんでこない。
自分の名前を、忘れたというのか。
「では、私の名前は気になりませんでしたか?」
そういえば、訊いていなかった。
気になりもしていなかった。
「よろしい」
何も答えていないのに、彼女が言う。
「この道は『あの世』へと続いています」
「はあ」
話が突然切り替わる。
「そこでは魂から記憶を消し、新たな生を与える作業をしています」
「作業、ね」
何となく、言い回しが気に障った。
「魂の総数は有限です。死んだ生物の魂は回収し、新たな生を与えるのですが、その際に前世での記憶が残ってしまっているといけません」
「だろうね」
「大抵は死んだ瞬間に綺麗に記憶が消えるのですが、何か未練や強い感情を残してしまっていると、魂に記憶が残ったままになってしまうのです。しかし、ほとんどの場合、それもしばらく放っておけば自然と消えていきます。諦め、とでも申しましょうか」
「僕は、諦められなかったわけだ」
「はい。その場合は、我々によって作為的に記憶を消去する必要が出ます。方法は幾つかの段階に分かれており、先程貴方にかけた粉が、言うなれば第一段階となります」
「粉?」
「はい。あの粉を振りかけられますと、現世への思いの強さにもよりますが、それだけで記憶がまっさらになる確率が二割程度です」
そうなのか。
正直『あの粉』と言われても、何のことかよく思い出せないのだが、どうやら僕は第一段階において八割のグループに入ってしまったらしい。
「残りの八割におきましては、逆に理性的になってしまうのですが、この場合も新しい記憶から徐々に消えていくようになりますので、無駄にはなりません」
「ああ、なるほど。それで……」
「実感されているのなら幸いです。但し、あの粉の効果で消える記憶は『私が説明した以外のこと』に限られます。またこの先の段階に進みますと、粉による記憶の消去効果は失われます」
「どうして?」
「何もかも忘れた状態で次の段階へ進んでも、また強い思いを生み出しかねませんので……」
「なるほど、ね」
つまり、都合の良いこと以外はどんどん忘れていくわけだ。
何だか、急に緊張が解けた。
これも粉の効果なのだろうか。
さっきから、大した疑問も抱かずに納得している自分がいる。
「で、この後、悪人の僕は何をされるの?」
おどけた調子で訊いてみる。
「この後はまず受付をしていただきます」
「受付?」
「はい。そこで記憶がどの程度魂に根付いているかを調べさせていただき、その上で、次の段階に進ませていただきます」
「いくつかコースがあるんだ」
「はい」
「で、僕にはその中でも厳しいコースが選ばれるわけだ」
「悪い感情や衝動は、魂の奥深くにまで根付くものです。それ故、どうしても簡単には取り除けないのです」
そういうことか。
よくはわからないが、理解は出来る。
「でも、良い心が深くに根付くことはないの?」
「いえ、善にせよ悪にせよ、強い感情は深く残るものです」
「良い心も、消すんだよね?」
「はい。心と記憶は非常に密接です。やはり、転生後に前世の記憶を残すわけにはいけませんので」
「じゃあさ、聖人君子も極悪人も同じように、簡単な方法では記憶を消せないんだよね?」
「おっしゃる通りではありますが、簡単でないからといって、辛い方法しかないわけでは御座いません」
「……なるほど」
「はい。他にご質問はありますか?」
「いえ……」
「では、この後のことはあちらに見えます受付で説明を受けて下さい」
そう言われて前を見ると、奥にトンネルの出口らしきものが見える。
無言で歩く。
苦しい思いをするのは嫌だ。
ただ、それだけが頭の中をぐるぐると回る。
トンネルを出る。
そこには想像を絶する程の、広大な空間が広がっていた。
大勢の人間が列を作っている。
「ここが、受付?」
「はい。貴方はこちらにお並び下さい」
誘導されるがまま、列に並ぶ。
「それでは、私はここで」
「え? 行っちゃうの?」
「良い来世を」
有無を言わさぬまま、彼女はふっと消えてしまった。
何だよ、もう。
取り残された僕は、息を吐いて空を仰いだ。
眩しいくらい真っ白な、曇り空がそこにはあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます