「さあ、それでは行きましょう」


 呆然としゃがみ込んだ僕を尻目に、彼女は弾んだ調子で言う。

 何が嬉しいのか、楽しいのか。

 僕はこんなに──、


「可哀想では、ありません」


 僕を真っ直ぐに見て彼女が言った。


「貴方は、可哀想ではありません。思い出せないことを責めはしませんが、貴方はただ受け入れるべきなのです」


「僕は……地獄に堕ちるのか?」


 先程から、ずっと気になっていたこと尋ねる。

 僕が彼女の言うような悪人なのだとしたら、この後の行き先は天国であるはずがない。

 しかし、地獄への案内も天使がするものだろうか。

 僕には、彼女が悪魔には到底見えなかった。


「地獄など、ありません」


 事務的な口調で彼女は言う。

 よく訊かれる質問なんだろうな、と思った。


「天国も地獄もありません。但し『あの世』に相当する世界はあります」


「つまり、善人も悪人も、死んだら同じところへ行くのか?」


「そうです」


「そうなんだ……何か、報われないですね」


「報われない?」


「良いことをしたら天国へ行けるって、信じて頑張ってる人もいるじゃないですか。それなのに、悪人と同じところへ行くなんて……」


「それでしたらご安心下さい」


「え?」


「行くのは同じ場所でも、扱いは異なりますから」


 訊かなければ良かったと、少しだけ後悔した。




「ご質問は、もう宜しいですか?」


「あ、はあ……」


 本当はまだまだ訊きたいことが沢山あったが、何だか急にどうでも良くなってきた。

 さっきまでの混乱は何処へ行ったのか、今はただ頭がぼんやりして、考えることが億劫だ。死ぬと、こんな感じなのだろうか。つい今しがたのことが上手く思い出せない。もう未来がないから、新しく記憶することが出来ないのかも知れない。


 彼女はくるりと背を向けると、そのしなやかな腕で虚空に円を描いた。

 すると手の動きに合せて、何も無かった空間に光のトンネルが現われた。


「さあ、行きましょう」


 僕は彼女の言葉に従い、立ち上がった。

 彼女の後ろについてトンネルをくぐる。

 眩しくて、あたたかい。

 見た目も感触も、ふわふわとしていて心地よい。


「この後の流れを簡単に説明させていただきます」


 歩きながら、振り向きもせずに彼女が言う。


「ところで貴方は、ご自分の名前を憶えてらっしゃいますか?」


 当然、と答えようとするが、全く頭に浮かんでこない。

 自分の名前を、忘れたというのか。


「では、私の名前は気になりませんでしたか?」


 そういえば、訊いていなかった。

 気になりもしていなかった。


「よろしい」


 何も答えていないのに、彼女が言う。


「この道は『あの世』へと続いています」


「はあ」


 話が突然切り替わる。


「そこでは魂から記憶を消し、新たな生を与える作業をしています」


「作業、ね」


 何となく、言い回しが気に障った。


「魂の総数は有限です。死んだ生物の魂は回収し、新たな生を与えるのですが、その際に前世での記憶が残ってしまっているといけません」


「だろうね」


「大抵は死んだ瞬間に綺麗に記憶が消えるのですが、何か未練や強い感情を残してしまっていると、魂に記憶が残ったままになってしまうのです。しかし、ほとんどの場合、それもしばらく放っておけば自然と消えていきます。諦め、とでも申しましょうか」


「僕は、諦められなかったわけだ」


「はい。その場合は、我々によって作為的に記憶を消去する必要が出ます。方法は幾つかの段階に分かれており、先程貴方にかけた粉が、言うなれば第一段階となります」


「粉?」


「はい。あの粉を振りかけられますと、現世への思いの強さにもよりますが、それだけで記憶がまっさらになる確率が二割程度です」


 そうなのか。

 正直『あの粉』と言われても、何のことかよく思い出せないのだが、どうやら僕は第一段階において八割のグループに入ってしまったらしい。


「残りの八割におきましては、逆に理性的になってしまうのですが、この場合も新しい記憶から徐々に消えていくようになりますので、無駄にはなりません」


「ああ、なるほど。それで……」


「実感されているのなら幸いです。但し、あの粉の効果で消える記憶は『私が説明した以外のこと』に限られます。またこの先の段階に進みますと、粉による記憶の消去効果は失われます」


「どうして?」


「何もかも忘れた状態で次の段階へ進んでも、また強い思いを生み出しかねませんので……」


「なるほど、ね」


 つまり、都合の良いこと以外はどんどん忘れていくわけだ。

 何だか、急に緊張が解けた。

 これも粉の効果なのだろうか。

 さっきから、大した疑問も抱かずに納得している自分がいる。


「で、この後、悪人の僕は何をされるの?」


 おどけた調子で訊いてみる。


「この後はまず受付をしていただきます」


「受付?」


「はい。そこで記憶がどの程度魂に根付いているかを調べさせていただき、その上で、次の段階に進ませていただきます」


「いくつかコースがあるんだ」


「はい」


「で、僕にはその中でも厳しいコースが選ばれるわけだ」


「悪い感情や衝動は、魂の奥深くにまで根付くものです。それ故、どうしても簡単には取り除けないのです」


 そういうことか。

 よくはわからないが、理解は出来る。


「でも、良い心が深くに根付くことはないの?」


「いえ、善にせよ悪にせよ、強い感情は深く残るものです」


「良い心も、消すんだよね?」


「はい。心と記憶は非常に密接です。やはり、転生後に前世の記憶を残すわけにはいけませんので」


「じゃあさ、聖人君子も極悪人も同じように、簡単な方法では記憶を消せないんだよね?」


「おっしゃる通りではありますが、簡単でないからといって、辛い方法しかないわけでは御座いません」


「……なるほど」


「はい。他にご質問はありますか?」


「いえ……」


「では、この後のことはあちらに見えます受付で説明を受けて下さい」


 そう言われて前を見ると、奥にトンネルの出口らしきものが見える。

 無言で歩く。

 苦しい思いをするのは嫌だ。

 ただ、それだけが頭の中をぐるぐると回る。

 トンネルを出る。

 そこには想像を絶する程の、広大な空間が広がっていた。

 大勢の人間が列を作っている。


「ここが、受付?」


「はい。貴方はこちらにお並び下さい」


 誘導されるがまま、列に並ぶ。


「それでは、私はここで」


「え? 行っちゃうの?」


「良い来世を」


 有無を言わさぬまま、彼女はふっと消えてしまった。

 何だよ、もう。

 取り残された僕は、息を吐いて空を仰いだ。

 眩しいくらい真っ白な、曇り空がそこにはあった。

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