第二話 vase

 い──、い……。

 あ、あ──。

 うう……。

 い──、あ──。

 あ……。

 あ?

 …………。

 ………………。

 ………………、………………

 あ……。

 ああ……。


 気が付くと、自分の家のリビングでひざまずく様にしてしゃがみ込んでいた。

 頭がくらくらする。

 二日酔いだろうか。

 記憶が曖昧だ。

 今は何時だろう。

 時計を探して辺りを見渡す。

 すると──、


「う!? うううう!」


 部屋の隅に、一見して人間の死骸とわかるような物体が転がっている。

 僕は声にならない叫びを上げる。

 いや、声を出したつもりだったのだが、まるで喉が空洞になったかの様に肺の中の空気が抜けていった。驚き過ぎると、人間こうなるものなのか。


 腰が抜けてしまった様だ。立ち上がることが出来ない。

 とにかく死体が見えない位置へ移動したい。僕は四つん這いの姿勢で、隣の部屋へと逃げ込んだ。


 隣の部屋は寝室になっている。

 背中で押さえる様にして扉を閉じる。

 ほ、っと息をつく。

 いったい、あの死体は誰なんだ?

 何で僕の家のリビングに?

 ああ、今は何時なんだ……1時? 昼、か?

 くそっ、何にも思い出せない。

 思い出せ。思い出せ。

 昨日、何処にいて、何をしてた?

 くそっ、くそっ!

 頭がはっきりしない。もどかしい。いらいらする。

 そうだ、警察に通報しなきゃ。

 携帯は何処だ?

 机やベッドの上には見当たらない。

 這いつくばって、部屋の中を探す。

 リビングで死体が動き回っているイメージが浮かぶ。

 そんなことがあるはずがない。そんなことがあってたまるか。


 死んでいた。あれは完全に死体だった。

 間違いない。

 あんなに腐っているんだ、生きてるはずがない。

 あれは間違いなく死んで……ちょっと待てよ、おかしいぞ。臭いがしない。あれだけ腐敗してれば、物凄い臭いがするはずだ。それなのに何にも感じない。おかしい。それともおかしいのは僕か。


 ああ、畜生!

 携帯は何処なんだよ!

 リビングか?

 どうする?

 戻るか?

 畜生!

 力任せに床を殴る。

 興奮しているせいか、痛みも感じない。

 どうする?

 どうすればいい?

 いったい何なんだよ!

 思い出せない。

 頭がくらくらする。

 落ち着け。まずは落ち着くんだ。


 そうだ、深呼吸をして……現実味のないイメージはするな。

 そうだ。僕は何もしていない。

 そうだ。あの死体はおそらく死後何日も経ってる。そんなに長いこと記憶が飛んでるはずはないから、あれは僕が殺したんじゃないはずだ。落ち着け。誰かにハメられたんだ。間違いない。でも誰に?


 昨日、何があったんだ。何で思い出せないんだ。

 畜生……畜生……。

 とにかく、携帯だ。誰かに助けを呼ぼう。

 通報しなくちゃ。

 それともまずは友達を呼ぶか?

 友達って……誰を?

 誰の名前も浮かんでこない。

 いくら混乱しているからといって、こんなことがあるだろうか。

 友人の顔を思い出そうとしてみる。

 だめだ。

 まるで記憶が抜け落ちたかの様に思い出せない。

 思い出せるのは子供の頃の思い出ばかりだ。


 何でだ?

 走馬燈ってやつか?

 いや、それは死ぬ時に見るんだろう。

 死んでるのは僕じゃない。

 落ち着け。

 ……ちょっと待て。

 母さんは?

 母さんはいないのか?

 あれ?

 ここは実家じゃないのか?

 でも……ここは僕の部屋……だよな。


 おかしい。

 ここは間違いなく僕の部屋だけど、実家じゃない。

 違う、実家にある僕の部屋じゃない。

 あれ?

 僕は一人暮らししてるんだっけ?

 いつから?

 学校は?

 いや、学校は卒業した。

 卒業した記憶はあるけど……。

 待て、待て待て。違う、違うぞ。

 今はまずあの死体だ。

 記憶が混乱してるのは、死体を見てパニックになってるせいだ。落ち着けば思い出す。一時的な記憶喪失ってやつだろう。映画でみた。


 とにかく、携帯を探そう。

 僕の携帯……どんなやつだっけ?

 ああ、形とか色とかどうでも良い。探すんだ。携帯電話を。

 改めてジーンズのポケットを探してみるが見つからない。上はTシャツ一枚だからしまうところはない。まさか、靴下の中ということもないだろう。

 この部屋の中は充分に探した。

 とすると、やはりリビングか。

 目を強く閉じ、深く息を吸い込む。

 覚悟を決めて立ち上がる。

 ドアノブをゆっくり回し、扉を薄く押し開ける。

 隙間から様子をうかがう。少なくとも、歩き回る死体はいない様だ。


 なるべく死体から視線をそらして携帯電話を探す。

 あった。

 しかし……、

 壊れてる……。

 まるで思い切り壁に投げ付けたかのごとく、部品が床に散らばっている。

 固定電話は……ない。

 そうか。ここは実家じゃないんだっけ……。

 まだ記憶の混乱は治まっていないらしい。

 さて、どうする。

 そうだ、外に逃げよう。

 そうだよ、最初からそうすれば良かった。

 こんなところには、もう一秒だっていたくない。

 よろけながら玄関へと向かう。

 玄関には靴が散らかっていた。

 適当な靴をつっかけて玄関を押し開ける。

 しかし、開かない。

 ああそうか、鍵が掛かっているのか。

 ドアノブのつまみを捻る。

 ……回らない。

 どうして?

 中から開けられないわけないだろう。

 ドアを力任せに押してみる。びくともしない。

 それなら窓はどうだ?

 慌ててリビングへ駆け込む。

 死体を避けて窓に近寄る。

 鍵は……よし、掛かってない。

 僕は力を込めて窓をスライドさせようとした。

 しかし、こちらもびくともしない。

 そんな馬鹿な……鍵は掛かってないんだぞ?

 溶接でもされてるってのか?

 もう一度動かそうとしてみるが、やはり窓はわずかにも開かない。

 閉じ込められた、のか。

 誰に?

 どうして?

 やっぱり僕はハメられたのか?

 でも、そんなひとの恨みを買うようなことをした覚えはない。


 いったい、何が起ってるんだ?

 あの死体は誰なんだ。

 ……確認、してみるか。

 顔を見れば、何かわかるかも知れない。

 ここは、覚悟を決めるしかないだろう。

 息を止めて、振り返る。

 死体は足を無造作に投げ出し、手をだらりとさせて、壁に寄り掛かるようにして座っている。


 ん?


 先程は気付かなかったが、よく見ると、服装に違和感がある。

 この服装は……、

 今の僕と全く同じ服装じゃないか?

 自分の体を見てみる。

 シャツの色柄も、ジーンズのくたびれ具合もそっくりに見える。

 これは、いったいどういうことなんだ?

 恐る恐る、死体の顔を覗き込む。

 ぐずぐずに腐っている。

 鼻も目も溶けて無くなっている様だ。

 これでは、誰なのか判別が出来ない。

 何なんだ。

 何が起ってるんだ。

 この死体は誰だ。

 何で僕と同じ服装をしている。

 何で僕の家のリビングで死んでいる?


 ダメだ。

 やっぱり何も思い出せない。

 それどころか、さっきよりも頭がはっきりしない。

 ふらふらと、隣の部屋へ入る。

 扉を閉めると同時に膝から崩れ落ちた。

 考えがまとまらない。

 仕方ない。こんな状況だ。

 落ち着こう。落ち着くんだ。

 吐き気はない。

 鼓動は……静かだ。こんな状況だっていうのに、息も乱れていない。

 なんだ、落ち着いてるじゃないか。

 ふ、っと短い笑いが漏れる。

 少しだけ、気が楽になった。

 その途端、急激な眠気に襲われる。

 眠っては危険だ。

 寝ている間に何が起るかわからない。

 まぶたが勝手に降りてくる。

 眠ってはダメだ。

 眠っては……。

 ……。


 思いとは裏腹に、僕の意識は再び闇の中へと滑り落ちていった。


   *


 目が覚めると、真っ暗な部屋の中にいた。

 どうやら着替えもせず、ベッドにも入らずに寝てしまったらしい。

 酔っていたのか。

 寝る前のことが思い出せない。

 今は……何時だ?

 暗くて、時計が見えない。

 立ち上がり、手探りで灯りのスイッチを探す。

 あった。

 しかし、カチカチとスイッチを動かしてみるが、一向に灯りは点かない。

 停電か?

 壁伝いに部屋を出る。

 もしブレーカーの問題なら、玄関まで行かねばならない。

 そう、ブレーカーは玄関だ。玄関の、はずだ。

 頭がぼんやりとするのは、寝起きのせいだろうか。

 壁に手をついたまま、リビングを進む。

 途中、足に何か柔らかいものが当たった。

 何だろう。

 暗くて見えない。

 転ばない様に気を付けねば。

 ああ、玄関はどこだ。

 何でこんなに頭がはっきりしない。

 玄関はどっちだ。

 今、僕はどこにいるんだ。

 間取りが思い出せない。

 手に硬い感触。

 何かのスイッチの様だ。

 カチカチと動かしてみる。

 しかし、特に何も起らない。

 もしかしたら、換気扇のスイッチかも知れない。

 近くに他のスイッチもないか、手探りで探す。

 あった。

 こちらも動かしてみる。

 ダメだ。

 灯りが点く気配はない。

 やはり停電の様だ。

 蝋燭はあっただろうか。

 思い出せない。

 これ以上、暗い中を動き回るのは危険だろう。

 部屋に戻ろう。

 今が何時かわからないが、これだけ暗いのだからおそらく夜なのだろう。カーテンから漏れる光すら見えない。ならば無理に起きていることもない。

 そうだ、寝てしまおう。

 寝て、起きて。

 明日は何時に起きるんだっけ?

 学校は……いや、違う。学校は卒業したじゃないか。寝ぼけているのか。

 じゃあ、仕事、は……仕事?

 僕は何の仕事をしてるんだっけ。

 はは、いくら何でも寝ぼけ過ぎだ。

 まあ、良い。

 寝よう。

 これは夢なのかも知れない、とふと思う。

 そうだ、きっと、これは悪い夢なんだ……。


   *


「ああああああああああああ」


 さっきからずっと、叫んでいるのに喉が嗄れる気配がない。


「うああああああああああああああああ」


 誰にも聞こえないのだろうか。

 もしかしたら、本当は声なんてもう出ていないのかも知れない。


「あ、ああ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」


 体が痺れた様に動かない。

 風が、ひび割れた窓をガタガタと揺らす。

 ここはいったい何処なんだ。

 こんなボロ小屋……誘拐でもされたっていうのか?

 そして、この死体。

 誰なんだ。

 何で僕は死体と一緒にいるんだ。

 頭がかき回された様に混乱している。

 何も思い出せない。

 何もわからない。

 何も……。

 誰か。

 誰か教えてくれ!


「では、説明致しますので、ちょっと落ち着いて下さいね」


 ふいに、すぐ傍から声が聞こえた。

 幻聴か?

 いや、それにしてははっきりと聞こえた。

 がばっと立ち上がり、辺りを見渡す。

 それは、僕の背後に立っていた。


「落ち着きましたか」


 女は、天使の様に微笑んだ。

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