5
しばらく歩くと、突き当たりに扉が見えた。小走りで近付く。
隅々まで磨かれた黒曜石の様な色をしたその扉は、触れると想像通りにひんやりとしている。
ゆっくりと、黒光りしたノブを回す。軋む音ひとつたてずに扉は開いた。
そこにあったのは、広さ十畳程の部屋だった。もっと広い部屋を想像していたので、意外である。中には家具は何もないが、壁の一部がソファの様に突き出している。
ここで、一人で待てというのだろうか。
どれくらいの時間待たされるのかわからないが、あまりにも退屈だ。
ひとまず、ソファに腰を下ろす。雲のふわふわとした感触が心地よい。思わず、眠ってしまいそうだ。
眠ってしまったら、どうなるだろうか。
目覚めたら何も思い出せないなんてこともあり得る。
或いは、夢は記憶の整理を行う為のものと聞いたこともある。忘れてしまうことへのブレーキとなる可能性も考えられるだろう。
しかし、眠ってしまうのはやはり怖い。
眠気覚ましの為に、頬を軽くつねってみる。
痛く、ない。
俺は胸がざわつくのを感じた。
死ぬと、痛みも感じなくなるのか。尻の下にソファの柔らかな感触はある。触感はあるのに痛みはないのか。死に対する危機感を覚える必要性がないから、痛みだけは感じないのか。
視覚と聴覚は、どうやらまだ生きている。
味覚と嗅覚はどうか。
両の手の平を鼻に近付けてみる。何も匂わない。試しに腋や服も嗅いでみるが、やはり匂いは感じない。次に、手を舐めてみる。何の味も感じない。これも、危機感の喪失によるものなのか。
そもそも、もう死んでいるのだから食べたり飲んだりする必要はない。だから、感じないのかも知れない。
愕然とした気持ちで、俺は自分の手の平を見つめた。
透き通っているわけでもない、ゾンビの様に腐敗し傷付いているわけでもない。
生きているようにしか見えない、見慣れた自分の体だ。
本当に俺は死んでいるのか?
少し前に、何か『自分は死んだのだ』と納得出来るようなことがあった気がする。
思い出せない。
俺はどうやってここに来たんだ?
この後、俺はどうなる?
誰かに説明を受けた気がする。
思い出せない。
思い出せない……。
「検査結果が出ました」
突然、耳元で声がした。
驚いて立ち上がる。
しかし、部屋の中には俺一人しかいない。
「近い記憶に関しての消去は順調に進んでいるようですが、古い記憶に関しましては、標準と比べてかなり深く魂に刻まれているようです」
誰もいないのに、すぐそばから声が聞こえる。
落ち着かない。
「よって、この後の処理方法は『影』と決定致しました」
「か、げ?」
俺は目の前の虚空へと質問を投げかける。
「はい。この後、準備が済みましたら貴方には『影』として現世に戻っていただきます」
「影として、現世に?」
阿呆の様に繰り返し尋ねる。
「はい。記憶の根深さと前世の行いとを考慮致しまして、貴方には新生児の影と成っていただきます」
「新生児って……赤ん坊ってことか?」
「はい」
「……幾つか、質問をして良いか?」
「手短に」
あくまでも事務的な声に、少しだけ苛立つ。
「影、っていうのは『光と影』の影か?」
「はい」
「それに、俺は『成る』と?」
「はい」
「影の中に入るってことか?」
「いいえ」
声は初めて否定した。
「影そのものに成るということです」
「影そのものに?」
「はい」
「それで、どうなる」
「影は、光の加減などで形を様々に変化させます」
「……それで?」
「自分の意思で動くことの出来ないまま、体の形が勝手に歪み、変化し、分裂する状況を想像して下さい」
いきなり物凄いお願いだ。
そんな狂ったような状況を、簡単に想像出来るはずがない。
「それにより、貴方の自我は徐々に消えていくことになります」
「ああ……そうだな、そんな気がするよ」
「ご理解いただけましたでしょうか」
淡々とした口調は、ぶれることもない。
喋っているのは機械なのだろうか。そんな風にも感じる。
「最後に、もう一つ」
「はい」
「苦しいのか? 影に、成ることは」
声が、一瞬黙り込む。
質問の答えとしては、これ以上のものはないだろう。
「良い、わかった。わかったよ」
「ご理解いただけましたでしょうか」
「ああ」
俺はどさっとソファに腰を下ろすと、一人頭を抱えた。
影に成る。
しかも、どうやら苦しい思いをするようだ。
何故こんなことをしなくてはならない?
記憶をまっさらにし、
しかし、誰にそんな説明を受け、どうやってここまで来たのか。
どうして、さっきのことが思い出せないのか。
必要なこと以外は、忘れてしまうのか。
「それではこのまましばらくお待ち下さい。準備が出来次第、お声をかけます」
ああ、俺は、これから影に成るのか。
何の為に?
来世の、為に?
「良き来世を」
耳元で、声が聞こえる。
聞き覚えはあるが……誰の声だっただろう。
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