しばらく歩くと、突き当たりに扉が見えた。小走りで近付く。

 隅々まで磨かれた黒曜石の様な色をしたその扉は、触れると想像通りにひんやりとしている。

 ゆっくりと、黒光りしたノブを回す。軋む音ひとつたてずに扉は開いた。


 そこにあったのは、広さ十畳程の部屋だった。もっと広い部屋を想像していたので、意外である。中には家具は何もないが、壁の一部がソファの様に突き出している。

 ここで、一人で待てというのだろうか。

 どれくらいの時間待たされるのかわからないが、あまりにも退屈だ。


 ひとまず、ソファに腰を下ろす。雲のふわふわとした感触が心地よい。思わず、眠ってしまいそうだ。

 眠ってしまったら、どうなるだろうか。

 目覚めたら何も思い出せないなんてこともあり得る。

 或いは、夢は記憶の整理を行う為のものと聞いたこともある。忘れてしまうことへのブレーキとなる可能性も考えられるだろう。

 しかし、眠ってしまうのはやはり怖い。

 眠気覚ましの為に、頬を軽くつねってみる。

 痛く、ない。

 俺は胸がざわつくのを感じた。

 死ぬと、痛みも感じなくなるのか。尻の下にソファの柔らかな感触はある。触感はあるのに痛みはないのか。死に対する危機感を覚える必要性がないから、痛みだけは感じないのか。

 視覚と聴覚は、どうやらまだ生きている。

 味覚と嗅覚はどうか。

 両の手の平を鼻に近付けてみる。何も匂わない。試しに腋や服も嗅いでみるが、やはり匂いは感じない。次に、手を舐めてみる。何の味も感じない。これも、危機感の喪失によるものなのか。

 そもそも、もう死んでいるのだから食べたり飲んだりする必要はない。だから、感じないのかも知れない。

 愕然とした気持ちで、俺は自分の手の平を見つめた。

 透き通っているわけでもない、ゾンビの様に腐敗し傷付いているわけでもない。

 生きているようにしか見えない、見慣れた自分の体だ。

 本当に俺は死んでいるのか?

 少し前に、何か『自分は死んだのだ』と納得出来るようなことがあった気がする。

 思い出せない。

 俺はどうやってここに来たんだ?

 この後、俺はどうなる?

 誰かに説明を受けた気がする。

 思い出せない。

 思い出せない……。


「検査結果が出ました」


 突然、耳元で声がした。

 驚いて立ち上がる。

 しかし、部屋の中には俺一人しかいない。


「近い記憶に関しての消去は順調に進んでいるようですが、古い記憶に関しましては、標準と比べてかなり深く魂に刻まれているようです」


 誰もいないのに、すぐそばから声が聞こえる。

 落ち着かない。


「よって、この後の処理方法は『影』と決定致しました」


「か、げ?」


 俺は目の前の虚空へと質問を投げかける。


「はい。この後、準備が済みましたら貴方には『影』として現世に戻っていただきます」


「影として、現世に?」


 阿呆の様に繰り返し尋ねる。


「はい。記憶の根深さと前世の行いとを考慮致しまして、貴方には新生児の影と成っていただきます」


「新生児って……赤ん坊ってことか?」


「はい」


「……幾つか、質問をして良いか?」


「手短に」


 あくまでも事務的な声に、少しだけ苛立つ。


「影、っていうのは『光と影』の影か?」


「はい」


「それに、俺は『成る』と?」


「はい」


「影の中に入るってことか?」


「いいえ」


 声は初めて否定した。


「影そのものに成るということです」


「影そのものに?」


「はい」


「それで、どうなる」


「影は、光の加減などで形を様々に変化させます」


「……それで?」


「自分の意思で動くことの出来ないまま、体の形が勝手に歪み、変化し、分裂する状況を想像して下さい」


 いきなり物凄いお願いだ。

 そんな狂ったような状況を、簡単に想像出来るはずがない。


「それにより、貴方の自我は徐々に消えていくことになります」


「ああ……そうだな、そんな気がするよ」


「ご理解いただけましたでしょうか」


 淡々とした口調は、ぶれることもない。

 喋っているのは機械なのだろうか。そんな風にも感じる。


「最後に、もう一つ」


「はい」


「苦しいのか? 影に、成ることは」


 声が、一瞬黙り込む。

 質問の答えとしては、これ以上のものはないだろう。


「良い、わかった。わかったよ」


「ご理解いただけましたでしょうか」


「ああ」


 俺はどさっとソファに腰を下ろすと、一人頭を抱えた。

 影に成る。

 にわかには信じることが出来ないような話じゃないか。

 しかも、どうやら苦しい思いをするようだ。

 何故こんなことをしなくてはならない?

 記憶をまっさらにし、きたる輪廻に備えるのだということだけはわかっている。

 しかし、誰にそんな説明を受け、どうやってここまで来たのか。

 どうして、さっきのことが思い出せないのか。

 必要なこと以外は、忘れてしまうのか。


「それではこのまましばらくお待ち下さい。準備が出来次第、お声をかけます」


 ああ、俺は、これから影に成るのか。

 何の為に?

 来世の、為に?


「良き来世を」


 耳元で、声が聞こえる。

 聞き覚えはあるが……誰の声だっただろう。

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