穴の向こうには、ただただ眩しいばかりの光の道が続いていた。床も壁も天井も、白い雲の様なもので出来ていて、もこもことした感触が足に心地よい。

 ただ、『あの世』という言葉からイメージしていた景色とは全く違う。綺麗は綺麗だが殺風景過ぎる。もっとお花畑の様なものを想像していた。道の先には美しい景色が待っているのだろうか?


「ここが、あの世?」


「いいえ。まだここからしばらく歩く必要があります」


 てっきりワープしたり空を飛んだりするものだと思っていたので、いささか拍子抜けである。


「ええと、このまま無言で歩いていては時間が勿体有りませんので、簡単にこの後の流れを説明させていただきます」


 俺の前をスタスタと歩きながら、男はこちらを振り向きもせずに言う。実に事務的な対応だ。


「まずこの道ですが、この光に包まれながら歩くことで、貴方はさらに記憶を失っていくことになります」


「えっ? 歩くだけで?」


「はい。全て消すことは出来ませんが、この光にはそういった効果があるのです。特に貴方は先程既にお名前を忘れられていたので、効果は充分にあるでしょう」


「名前を忘れていたことと、何の関係が?」


「名前や肩書きといったものは、己を表す明快にして重要なものですから。わかりやすく説明すると……スパイが身分を偽り過ぎて、本来の自分を忘れてしまう、という話も聞いたことが御座います」


 男の口から『スパイ』という単語が出たことが何となく可笑しくて、思わず口角が上がる。この光には記憶を消すだけで無く、気持ちを落ち着かせる作用もあるのかも知れない。


「ところで、ご自分のお勤め先は憶えてらっしゃいますか?」


「え? ええと……」


 さっきまで思い出していたはずなのに、また思い出せなくなっている。

 光の、効果なのか。


「試しに色々と思い出してみて下さい。特に最近のことから思い出せなくなっているはずです」


 男の言う通り、学生時代のことはぼんやりと思い出せるのに、就職してから後のことが抜け落ちたように思い出せない。かろうじて『社会人として働いていた』という漠然とした記憶があるだけだ。どんな仕事をしていたのか、同僚にはどんな人間がいたかは思い出すことが出来ない。

 私生活に関しても同様だ。何処に住んでいたかは思い出せても、具体的にどんな生活をしていたのかが思い出せない。ふと思い出しそうになっても、すぐに感じなくなってしまうのはこの光の力なのだろう。


「古い記憶の方が、思い出せないものでは?」


 男に尋ねてみる。


「魂の記憶というのはですね、本来、簡単には消えることがないのです。それこそ、死にでもしない限り。そして、記憶は古ければ古い程、魂に深く根付くものなのです」


 何となく「なるほど」と思った。

 今思い出せる一番新しい記憶は大学の卒業旅行の思い出だった。

 名前は思い出せないが、友人達の顔が鮮明に浮かぶ。

 特定のサークルには所属していなかったが、仲の良いメンツでいつも馬鹿なことばかりやっていた。卒業旅行では、場所は思い出せないが、男女五人で海へ行った。色々なことがあった気がするが、細部までは思い出せない。懐かしい、大切な思い出だが、これももう少ししたら忘れてしまうのか。そう思うと、突然怖くなってくる。悪あがきは無駄だとわかっていても、忘れないようにと、無駄な努力をしてしまう。


 しかし、例え忘れなかったとして、俺を待ち受けているのはどんな結果だろう。


 受け入れるのが一番なのだと、俺は何処かで悟っていた。

 もしかしたら、これも光の効果なのだろうか。

 それとも、あの粉の?

 自分でいうのも何だが、俺は物分かりの良い方ではない。何の影響も無ければ、こんなに素直に受け入れられるはずがない。


「この道を抜けると、何処に出るんだ?」


 気持ちが滅入ってきたので、話題を変えてみる。


「ええと、まずは受付ですね」


「受付? ずいぶん事務的なんだな」


「ええ、何せ数が、大変多いので……」


「一箇所で管理をしてるのか?」


「はい。仰るとおりで……」


 たった一箇所で世界中の魂の管理をしているのだとすれば、それは大変な仕事だろう。この男を見る限り、神の全能なる力でどうこうしているわけでは無さそうだし、システマティックになるのも仕方あるまい。


「受付を済ませたら、次は?」


「しばらくは待機していただきます。その間に記憶の『濃さ』『深さ』を調べさせていただいて、その結果を見て記憶を消す方法を決めさせていただきます」


「方法は幾つもあるのか?」


「はい。幾つかは……」


「乱暴な方法もあるのか?」


「あるにはありますが、魂が傷付きますので、滅多なことではやりません。極悪人や、性根の腐った人間など、所謂『業の深い者』に対してはやらざるを得ない場合も御座いますが」


「俺は大丈夫?」


 冗談のつもりで言った。

 しかし、男は真面目な顔で答えた。


「乱暴な方法が必要になることはないでしょう。しかし、貴方の記憶は相当色濃く残っているようですから……多少、辛いこともあるかも知れません」


「多少、ね」


「はい。全ては、良き来世の為で御座いますので」


「来世、か」


 そう言われてもピンと来るはずもない。

 そもそも死んだという実感だって、正直なところ無かった。


「来世で、幸せになれる?」


 しかし、男は俺の問いに答えずに道の先を指さす。


「あそこに見えますのが、受付で御座います」

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