3
穴の向こうには、ただただ眩しいばかりの光の道が続いていた。床も壁も天井も、白い雲の様なもので出来ていて、もこもことした感触が足に心地よい。
ただ、『あの世』という言葉からイメージしていた景色とは全く違う。綺麗は綺麗だが殺風景過ぎる。もっとお花畑の様なものを想像していた。道の先には美しい景色が待っているのだろうか?
「ここが、あの世?」
「いいえ。まだここからしばらく歩く必要があります」
てっきりワープしたり空を飛んだりするものだと思っていたので、いささか拍子抜けである。
「ええと、このまま無言で歩いていては時間が勿体有りませんので、簡単にこの後の流れを説明させていただきます」
俺の前をスタスタと歩きながら、男はこちらを振り向きもせずに言う。実に事務的な対応だ。
「まずこの道ですが、この光に包まれながら歩くことで、貴方はさらに記憶を失っていくことになります」
「えっ? 歩くだけで?」
「はい。全て消すことは出来ませんが、この光にはそういった効果があるのです。特に貴方は先程既にお名前を忘れられていたので、効果は充分にあるでしょう」
「名前を忘れていたことと、何の関係が?」
「名前や肩書きといったものは、己を表す明快にして重要なものですから。わかりやすく説明すると……スパイが身分を偽り過ぎて、本来の自分を忘れてしまう、という話も聞いたことが御座います」
男の口から『スパイ』という単語が出たことが何となく可笑しくて、思わず口角が上がる。この光には記憶を消すだけで無く、気持ちを落ち着かせる作用もあるのかも知れない。
「ところで、ご自分のお勤め先は憶えてらっしゃいますか?」
「え? ええと……」
さっきまで思い出していたはずなのに、また思い出せなくなっている。
光の、効果なのか。
「試しに色々と思い出してみて下さい。特に最近のことから思い出せなくなっているはずです」
男の言う通り、学生時代のことはぼんやりと思い出せるのに、就職してから後のことが抜け落ちたように思い出せない。かろうじて『社会人として働いていた』という漠然とした記憶があるだけだ。どんな仕事をしていたのか、同僚にはどんな人間がいたかは思い出すことが出来ない。
私生活に関しても同様だ。何処に住んでいたかは思い出せても、具体的にどんな生活をしていたのかが思い出せない。ふと思い出しそうになっても、すぐに感じなくなってしまうのはこの光の力なのだろう。
「古い記憶の方が、思い出せないものでは?」
男に尋ねてみる。
「魂の記憶というのはですね、本来、簡単には消えることがないのです。それこそ、死にでもしない限り。そして、記憶は古ければ古い程、魂に深く根付くものなのです」
何となく「なるほど」と思った。
今思い出せる一番新しい記憶は大学の卒業旅行の思い出だった。
名前は思い出せないが、友人達の顔が鮮明に浮かぶ。
特定のサークルには所属していなかったが、仲の良いメンツでいつも馬鹿なことばかりやっていた。卒業旅行では、場所は思い出せないが、男女五人で海へ行った。色々なことがあった気がするが、細部までは思い出せない。懐かしい、大切な思い出だが、これももう少ししたら忘れてしまうのか。そう思うと、突然怖くなってくる。悪あがきは無駄だとわかっていても、忘れないようにと、無駄な努力をしてしまう。
しかし、例え忘れなかったとして、俺を待ち受けているのはどんな結果だろう。
受け入れるのが一番なのだと、俺は何処かで悟っていた。
もしかしたら、これも光の効果なのだろうか。
それとも、あの粉の?
自分でいうのも何だが、俺は物分かりの良い方ではない。何の影響も無ければ、こんなに素直に受け入れられるはずがない。
「この道を抜けると、何処に出るんだ?」
気持ちが滅入ってきたので、話題を変えてみる。
「ええと、まずは受付ですね」
「受付? ずいぶん事務的なんだな」
「ええ、何せ数が、大変多いので……」
「一箇所で管理をしてるのか?」
「はい。仰るとおりで……」
たった一箇所で世界中の魂の管理をしているのだとすれば、それは大変な仕事だろう。この男を見る限り、神の全能なる力でどうこうしているわけでは無さそうだし、システマティックになるのも仕方あるまい。
「受付を済ませたら、次は?」
「しばらくは待機していただきます。その間に記憶の『濃さ』『深さ』を調べさせていただいて、その結果を見て記憶を消す方法を決めさせていただきます」
「方法は幾つもあるのか?」
「はい。幾つかは……」
「乱暴な方法もあるのか?」
「あるにはありますが、魂が傷付きますので、滅多なことではやりません。極悪人や、性根の腐った人間など、所謂『業の深い者』に対してはやらざるを得ない場合も御座いますが」
「俺は大丈夫?」
冗談のつもりで言った。
しかし、男は真面目な顔で答えた。
「乱暴な方法が必要になることはないでしょう。しかし、貴方の記憶は相当色濃く残っているようですから……多少、辛いこともあるかも知れません」
「多少、ね」
「はい。全ては、良き来世の為で御座いますので」
「来世、か」
そう言われてもピンと来るはずもない。
そもそも死んだという実感だって、正直なところ無かった。
「来世で、幸せになれる?」
しかし、男は俺の問いに答えずに道の先を指さす。
「あそこに見えますのが、受付で御座います」
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