あるピアニストの秘密
ひとひら
あるピアニストの秘密
第一章 百合子
大正六年の秋、私は神田の小さなホールにいた。
女学校を出てから三年、父の給金は少なく、本格的な音楽教育を受ける余裕はなかった。それでも、私はピアノを諦められず、独学で練習を続けている。
こうして時間を見つけては、入場料の安い演奏会に足を運ぶ。
プログラムを開く。
『如月奏 ピアノリサイタル』
きさらぎ かなで。
プログラムには「氏」とある。
男性なのだろう。
照明が落ち、舞台に人影が現れた。
私は息を呑んだ。
黒いスーツに身を包んだ、細身の姿。
肩にはわずかに丸みがあり、顔立ちは——
儚げだった。
男性にしては華奢で、でも——
首を振った。
男性に決まっている。
ただ、中性的な美しさを持った人なのだろう。
如月奏はピアノの前に座った。
しばらく静寂。
やがて——
音が、流れ始めた。
ショパンの夜想曲。
最初の一音から、私は動けなくなった。
この音は——
何だろう。
柔らかく、しかし芯がある。
悲しく、しかし美しい。
まるで、月明かりのように——
涙が溢れそうになった。
こんな演奏、聴いたことがない。
技術的には完璧ではないかもしれない。
でも、この音には——
何かがある。
私はその人物を見つめた。
如月奏。
その指が鍵盤の上で静かに動く。
顔はわずかに伏せられ、長い睫毛が光を受けて揺れる。
孤独。祈り。諦め。
そして——
かすかな希望。
音が、全てを語っていた。
曲が終わり、静寂。
やがて拍手が起こった。
私も拍手をした。
手が、震えていた。
——会いたい。
その思いが、突然、胸に湧き上がった。
あの人に、会いたい。
話がしたい。
どうして、あんな音が出せるのか、聞きたい。
私は立ち上がり、楽屋口へ向かった。
数人の客が待っていた。
私は列の最後に並んだ。
やがて、扉が開いた。
如月奏が現れた。
近くで見ると、やはり不思議な人だった。
年齢は二十代前半ほどか。
白い肌、黒く柔らかな髪。
男性、のはずだ。
でも——
この人を見ていると、男性とも女性とも判断できない。
客たちが感想を述べる。
如月奏は一人一人に丁寧に頭を下げていた。
やがて、私の番が来た。
「あの——」
声が震えた。
如月奏が私を見た。
深く、静かな瞳。
言葉が出なくなった。
「どうぞ」
如月奏が優しく促した。
「あの、演奏……とても、美しかったです」
「ありがとうございます」
「私も、ピアノを少し、弾くんです。如月さんのような演奏、できるようになりたい」
如月奏は少し驚いたような顔をした。
「あなたも、ピアニストですか」
「いえ、ただの、素人です。でも、音楽が好きで。いつか、如月さんのように……」
如月奏は静かに微笑んだ。
その微笑みに——
私の胸がぎゅっとなった。
何、この感じ。
「お名前を、聞いてもいいですか」
如月奏が尋ねた。
「立花百合子と申します」
「立花さん」
如月奏が私の名前を呼んだ。
その声に——
心臓が跳ねた。
「もしよろしければ、また……」
如月奏が言いかけ、ためらった。
「いいえ!」
私は思わず声を上げた。
「また、お会いしたいです。演奏も、聴きたいです」
如月奏は少し驚き、そして微笑んだ。
「では、次の演奏会の時に。よろしければ」
「はい!」
家に帰る道すがら、私は——
ずっと考えていた。
如月奏。
あの人の演奏。
あの人の微笑み。
あの人の声。
全てが——
心に残っている。
私は、自分の胸に手を当てた。
心臓が、まだ速く打っている。
これは——
何?
家に着いて、父にどうだったか聞かれる。
「とても素晴らしかったです。如月奏という素敵なピアニストでした」
「男性かね」
父が尋ねた。
私は答えに詰まった。
男性、だろう。
スーツを着ていたし。
でも——
「はい、そうです」
私は、自分の部屋に入った。
窓を開けると、秋の風が入ってきた。
冷たいが心地よい。
窓辺に立って空を見上げた。
如月奏。
また、会える。
次の演奏会。
その夜、私は眠れなかった。
ベッドの中で、天井を見つめていた。
如月奏の演奏が、頭の中で繰り返される。
あの音。
どうして、あんな音が出せるのだろう。
そして——
あの人の顔。
美しい、というのとは違う。
儚い、というのとも違う。
ただ、忘れられない。
私は、枕に顔を埋めた。
どうして、こんなに心がざわついているのだろう。
如月奏。
男性。
私は、女性。
だから——
これは。
私は、その言葉をまだ心の中で言えなかった。
恋、なのだろうか。
でも、まだ一度会っただけ。
分からない。
何も、分からない。
ただ、また会いたい。
それだけが、確かだった。
翌朝、私は新聞の音楽欄を探した。
如月奏の次の演奏会。
——見つけた。
来月、また神田のホールで。
私は、その日付に印をつけた。
絶対に、行く。
もっと、話がしたい。
あの人のことを、知りたい。
窓の外を見た。
秋の空が、高く広がっていた。
心が軽かった。
久しぶりに、何かを楽しみに待つ気持ち。
如月奏。あなたは、いったいどんな人なのだろう。
男性なのに、あんなに繊細な音を出す。
男性なのに、あんなに——
私は、そこで思考を止めた。
何を考えているのか、自分でも分からなかった。
ただ——
次の演奏会が、待ち遠しい。
それだけが、確かだった。
第二章 恭一郎
大正七年の春、僕は神田の小さな演奏ホールにいた。
父には内緒だ。
堀川子爵家の跡取りが、平日の昼間に演奏会などに行くことを、父は許さない。
そんな暇があるなら、政治の勉強をしろと言われるだけだ。
でも、僕は音楽を諦められなかった。
母が生きていた頃、家にはピアノがあった。母は僕にショパンやシューマンを弾いて聴かせてくれた。
母が亡くなってから、ピアノは蓋を閉じられたままだった。
父は子爵家の男がピアノなどと言って、僕が触ることを許さなかった。
それでも、僕は音楽を求めていた。
こうして、密かに演奏会に足を運ぶことで。
今日の演奏会も、偶然見つけたものだ。
新聞の片隅に載っていた小さな広告。
『如月奏 ピアノリサイタル』
如月奏。
聞いたことのない名前だった。
でも、何か惹かれるものがあった。
どんな演奏をする人なのだろう。
照明が落ち、舞台に人影が現れた。
黒いスーツを着た、細身の人物。
肩のラインや立ち姿が女性的で、歩き方や指先の動きまで優雅に見える。
でもその距離でも、顔立ちは美しいと分かった。
中性的というより女性に見えた。
きっと、何か事情があって、男性として舞台に立っているのだろう。
女性ピアニストへの偏見はまだ根強い。
如月奏はピアノの前に座った。
しばらく静寂。
やがて音が流れ始めた。
リストの『愛の夢』。
最初の一音から、僕は心を奪われた。
力強くて、でも繊細。
情熱的で、でも抑制されている。
矛盾しているようで、調和している。
まるで僕自身のようだと思った。
表向きは子爵の跡取りとして生きている。
でも、心の奥では音楽を求めている。
この人も僕と同じだ。
舞台の人物を見つめる。
如月奏。
その指が鍵盤の上を駆ける。
激しく、でも美しく。
顔はわずかに伏せられ、長い睫毛が影を作る。その表情には何か、深い悲しみが見えた。
この人は、何を抱えているのだろう。
なぜ、こんな音が出せるのだろう。
曲が終わり、拍手がホールを満たした。
僕も拍手をした。
如月奏は立ち上がり、頭を下げる。
その姿を見て僕は確信した。
この人は女性だ。
でも、何か理由があって男性として生きている。
それは、僕と同じだ。
僕も——
本当の自分を隠して生きている。
この人に会いたいと思った。
話がしたい。
同じ苦しみを抱える者として。
演奏が終わり、客たちが帰り始めた。
僕は楽屋口へ向かった。
楽屋口の前には、誰もいなかった。
みな、もう帰ったのだろう。
僕は扉をノックした。
「はい」
中から、少し高く柔らかい声。
「失礼します」
扉を開けると、如月奏が椅子に座っていた。白いシャツに黒いズボン、少し乱れた髪。
「堀川さん」
如月奏が驚いたように顔を上げた。
「どうして」
「すみません、突然で。でも、どうしてもお話がしたくて」
如月奏は少し困ったように目を伏せ、それから——
「どうぞ、中へ」
応接間にはスタインウェイのピアノが置かれている。
「お茶を」
如月奏が紅茶を淹れてくれた。
僕たちは向かい合って座った。
「あの……」
言葉を探す。
「この前の演奏、本当に素晴らしかったです」
「ありがとうございます」
「僕も、ピアノが好きなんです。でも、弾くことは許されていません」
如月奏が僕を見た。
「家の事情で」
僕は苦笑した。
「子爵家の跡取りが、ピアノなどと」
如月奏は静かに頷いた。
「分かります」
小さく言う。
「……家の期待、重いですね」
僕は驚いた。
この人も——
「如月さんも、何か……」
如月奏は目を伏せる。
「私も家族の期待に、応えられない人間です」
その声が、悲しそうだった。
僕は手を伸ばしそうになった。
でも、止めた。
「如月さん」
真剣に言った。
「僕はあなたと、もっと話がしたい」
「音楽のこと。人生のこと」
続ける。
「あなたといると僕は、楽になれる気がするんです」
如月奏の目が揺れた。
僕は、息を吸ってふいに胸の奥の悩みがこぼれ落ちる。
「実は……父から、見合い話を持ちかけられていて」
言った瞬間、自分でも苦いと思うほどの笑みが漏れた。
「家のための結婚だそうです。跡取りとして当然だ、と。
でも……どうしても、頷けなくて」
奏が顔を上げた。
その瞳に、かすかな驚きと、同じ痛みが揺れていた。
「また、来てもいいですか」
尋ねた。
沈黙。
「……ええ」
如月奏が小さく頷いた。
「ありがとうございます」
僕は立ち上がった。
「では、また近いうちに」
帰り道、僕は胸が高鳴っていた。
また会える。
如月奏に。
あの人はやはり女性だ。
でも、何か理由があって——
僕はあの人を守りたい。
あの人が本当の自分で生きられるように。
そして、もし可能なら。
僕はあの人と、一緒に——
その先の言葉は、まだ言えなかった。
でも、心の中ではもう、決まっていた。
第三章 奏
大正七年の初夏、私は応接間のピアノの前に座っていた。
ドビュッシーの『月の光』を奏でる。
ここにいる時だけ私は、何者かを問われない。
ただ音を奏でる者。
でも、最近それだけでは、済まなくなってきた。
立花百合子。
堀川恭一郎。
二人の名前が、頭に浮かぶ。
百合子さんは——
私を、男性だと思っている。
恭一郎さんは——
私を、女性だと思っている。
どちらも誤解だ。
私は何者なのか。
子供の頃、医師に診せられた。
後で、父が言った。
「お前は、長男として届けた」
長男。男性。
でも私は、男性だという実感がない。
かといって、女性だとも思えない。
鏡を見る。そこに映る顔。
男性の顔? 女性の顔?
分からない。
ただ——
私の顔。
でも、世間はそうはいかない。
ある日、百合子さんが訪ねてきた。
「私も、ピアニストになりたい。でも女性には、難しいことが多くて。如月さんは、男性だからきっと、もっと自由に演奏できるんでしょうね」
男性。
その言葉が胸に刺さった。
その週の終わり、恭一郎さんが来た。
「あなたは本当に、強い人ですね。女性として生きることが難しいから、男装をして——」
女性。
その言葉がまた、胸に刺さった。
二人が帰った後、私は一人、ピアノの前に座った。
百合子さんは、私を男性だと思っている。
恭一郎さんは、私を女性だと思っている。
どちらも——
違う。
私は、鍵盤を叩いた。
激しく。
不協和音。
調和しない。
まとまらない。
男でも女でもない。
何者でもない。
夜、私は鏡の前に立った。
この顔は誰の顔か。
この身体は誰の身体か。
私は何者なのか。
答えは——
ない。
翌朝、百合子さんから手紙が来た。
『来月、大きな演奏会があるそうですね。私も行きます。演奏会の後、お時間をいただけませんか』
それから数日後、恭一郎さんが来た。
「来月の演奏会必ず行きます。その後、お話があります」
私は分かっていた。
二人とも何かを、伝えようとしている。
そして、私は答えられない。
なぜなら自分が、何者なのか。
分からないから。
夜、ふと胸の奥がざわつく。
『私は、誰なのか』
答えはわからないまま。
第四章 三人
大正七年の七月、麻布のサロンコンサートで、三人が出会った。
会場で、私は百合子さんを見つけた。
そして恭一郎さんも。
三人が、初めて同じ場所にいた。
百合子さんが、ショパンの『華麗なる大円舞曲』を弾いた。
情熱的で、生命力に溢れている。
この人は、音楽を愛している。
次に恭一郎さんが、ベートーヴェンの『悲愴』第二楽章を弾いた。
この音には、魂がある。
抑圧された、何か。
叫びたいのに、叫べない。
そういう、痛みが。
そして私の番が来た。
リストの『ため息』を弾いた。
百合子さんへの想い。
恭一郎さんへの想い。
そして自分自身への、問い。
全てを、音に込めた。
男でも、女でもない。
ただの、私。
曲が終わった。
百合子さんが涙ぐんでいた。
恭一郎さんもじっと、私を見つめていた。
演奏会が終わり、三人が顔を合わせた。
百合子さんと恭一郎さんの間に見えない火花が、散っている。
私はその中心にいた。
息が、詰まりそうだった。
「また、お会いしましょう」
そう言って私は、その場を離れた。
家に帰ると、私は玄関で座り込んでしまった。
百合子さんの目。
恭一郎さんの目。
どちらも私を見ている。
でも、見ているものは違う。
百合子さんは、「彼」を見ている。
恭一郎さんは、「彼女」を見ている。
でも、私はどちらでもない。
もう耐えられない。
この嘘を、続けることが。
来月の演奏会。
そこで全てを、終わらせよう。
真実を告げて二人に、別れを告げよう。
その夜、私は『月光ソナタ』を弾いた。
第三楽章。
嵐のような、激しい旋律。
涙が、こぼれた。
でも、音は止まらなかった。
来月の演奏会が最後だ。
第五章 求愛
八月に入り、演奏会まで、あと一ヶ月。
私は、毎日『月光ソナタ』を弾いていた。
ある午後、百合子さんが訪ねてきた。
「あの人如月さんのこと、どう思っているんですか」
百合子さんの目が、じっと私を見る。
「友人、だと思います」
「嘘。あの人の目見ました。友人を見る目じゃない」
百合子さんが、振り返った。
目が潤んでいた。
「如月さん、私あなたのことが好きです。初めて、あなたの演奏を聴いた時から。ずっとずっと、好きでした」
百合子さんの涙が、こぼれた。
「女性が、男性を好きになる。それは、自然なことでしょう」
男性。
その言葉が私の胸に刺さった。
百合子さんが、私の手を取った。
「答えて。私の気持ち受け入れてくれますか」
私は百合子さんの手を、そっと離した。
「今は、答えられません。演奏会が終わったらその時に」
百合子さんの顔が歪んだ。
「堀川さんがいるから? 演奏会……行きます。そこで、答えを聞かせて」
百合子さんはそのまま、出て行った。
数日後、恭一郎さんが訪ねてきた。
「父と、決別しました」
恭一郎さんが、私の前に来て膝をついた。
「如月さん。僕はあなたを、愛しています。あなたが、女性として生きることが難しいなら僕が守ります」
女性として。
その言葉が私の胸に刺さった。
「演奏会の後に答えます」
恭一郎さんの顔が曇った。
「立花さん、ですか。……僕はあなたなしでは、生きていけない」
その言葉が私の心を、貫いた。
恭一郎さんは去っていった。
二人とも愛していると、言った。
百合子さんは、「男性として」
恭一郎さんは、「女性として」
どちらも誤解だ。
でも、その愛は本物だ。
そして、私も
百合子さんを——
愛している。
恭一郎さんも——
愛している。
どちらも、本当だ。
でもどう愛しているのか。
分からない。
何も、分からない。
私は、ピアノの前に向かった。
『月光ソナタ』第三楽章。
指が、鍵盤を叩く。
激しく、激しく。
涙が、鍵盤に落ちた。
演奏会で。
あの二人の前で。
そしてさようならを、言う。
第六章 露呈
九月。演奏会の一週間前。
私は、朝から練習を続けていた。
昼を過ぎた頃突然、目眩がした。
私は、倒れた。
気がつくと、病院だった。
「如月さん、過労です」
医師の目が、ふと曇った。
「詳しく診察する必要があります。……前の病院から届いた紹介状、読ませていただきました」
「あなたの身体は、生まれつき……」
「結構です。もう、分かっています」
病院を出ると百合子さんが待っていた。
「如月さん! 大丈夫? ……病院で、何があったの」
「何も……」
「嘘。あなた、ずっと何か、隠してる」
「ねえ、教えて。あなたのこと、全部知りたい」
その時恭一郎さんが現れた。
二人の間に見えない火花が、散っている。
私は答えられなかった。
「演奏会で、お会いしましょう」
二人はそれぞれ、去っていった。
もう限界だった。
その夜、私は決めた。
もうすぐだ。
演奏会で、全てを終わらせる。
二人に、真実を告げる。
そして東京を、去る。
演奏会の前日。
楽屋に百合子さんと恭一郎さんが来ていた。
「如月さん。私、もう待てない。答えを」
「僕もです。あなたの気持ちを」
私は、二人を見た。
「二人とも、私は……」
声が震える。
「あなたたちが思っているような人間では、ありません。
……私は、男性でも女性でも、ありません」
沈黙。
「私の身体は生まれつき、男でも女でもない」
百合子さんの顔から、血の気が引いた。
「……何を、おっしゃっているの?」
「私の身体は、生まれつき……」
言葉を探す。
「男でも女でもない状態で、生まれました」
恭一郎さんが、一歩後ずさった。
「それは……」
「戸籍には便宜上『男』と記されています」
私は、二人を見た。
「でも、それは書類上のこと。私は、男でも女でもない」
長い、長い沈黙。
百合子さんが、震える声で言った。
「わたし……あなたを、男性だと思って——」
涙がこぼれる。
「恋をしていたのに。如月さん、私の気持ちは……」
言葉が続かない。
「全部……勘違いだったの?」
百合子さんは、両手で顔を覆った。
「分からない……私、何も理解してなかった」
恭一郎さんが、額を押さえた。
「僕は……あなたを女性だと思っていた。男装をしている女性だと」
恭一郎さんは、壁にもたれた。
「でも、違った。あなたは……」
言葉を探している。
「僕には……その事実を、どう受け止めればいいのか……」
恭一郎さんの目に、涙が浮かんでいた。
「愛しているのに。本当に、愛しているのに。でも、あなたが”どちらでもない”という事実を……どう扱えばいいのか……分からないんです」
「……二人とも」
私は言った。
私は、自分の胸に手を当てた。
「これが、私です。
男でも女でもない、ただの……
私です」
百合子さんが顔を上げた。
目が真っ赤だった。
「私……」
声が震える。
「私、女学校の時から、ずっと……男性と結婚して、家庭を持つことを、夢見てきました」
百合子さんは泣きながら続けた。
「如月さんを、その夢の中に入れていました。でも如月さんが男性じゃないなら……」
彼女は首を振った。
「ごめんなさい。私には、想像できない。如月さんと、どう一緒にいればいいのか。世間が、何と言うのか。父が、何と言うのか」
そして泣き崩れた。
「ごめんなさい、如月さん。私には無理。あなたのことは、好きです。今も、好きです。でも——理解できない」
百合子さんは去っていった。
恭一郎さんも、立ち尽くしていた。
「僕は……」
恭一郎さんの声が、かすれている。
「僕は、あなたを守りたかった。女性として生きることが難しいあなたを、支えたかった」
恭一郎さんは、拳を握りしめた。
「でも、それは僕の勝手な想像だった。あなたは、女性じゃない。男性でもない」
恭一郎さんは、私を見た。
その目には、苦しみがあった。
「僕には……その現実を、受け入れる準備ができていない。……すみません」
恭一郎さんも去っていった。
私は、一人楽屋に残された。
膝から、崩れ落ちた。
分かっていた。
こうなることは、分かっていた。
でもこんなに、苦しいとは。
二人とも去っていった。
私は、立ち上がった。
明日、演奏会がある。
二人はもう、来ないかもしれない。
でも、他の客は来る。
だから弾かなければ。
最後の演奏を。
二人が与えてくれた優しさを、本当に愛していた。
でも二人が愛したのは”私ではない誰か”だった。
だから、離れなければならない。
東京を去る。
そこでもう一度、始めよう。
ただの奏でる者として——
空を見上げた。
明日。
全てを、終わらせる。
そして新しく、始める。
一人で。
もう恐れるものは、ない。
ただ音楽だけが、残る。
それでいい。
最終章 月光
大正七年九月、銀座のサロンコンサート会場。
舞台袖で、私は自分の手を見つめていた。
この手で、今日全てを終わらせる。
客席のどこかに、百合子さんがいるかもしれない。恭一郎さんもいるかもしれない。
昨日、二人は去っていった。
今日の演奏は二人のためではない。
自分自身のため。
そしてこの人生への、さようなら。
照明が私を照らす。
客席に一礼するといた。
百合子さんが、目を赤くして座っている。
恭一郎さんも、後ろの方に。
二人とも来てくれた。
私は、ピアノの前に座った。
ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番「月光」。
第一楽章。
静かに流れ始める三連符。
第二楽章。
束の間の安らぎ。
そして第三楽章。
嵐。
指が、鍵盤を駆け巡る。
激しく、速く、容赦なく。
これが、自分だ。
男でも女でもない。
ただ音を奏でる者。
百合子さんへのさようなら。
恭一郎さんへのさようなら。
そして、この人生へのさようなら。
最後の和音。
静寂。
拍手が、波のように広がった。
スタンディングオベーション。
百合子さんが立ち上がって、涙でぐしゃぐしゃの顔で拍手している。
恭一郎さんも立ち上がり、じっと私を見つめている。
私は、深く頭を下げた。
そして、舞台袖へ戻った。
楽屋で、私はすぐに荷物をまとめた。
「アンコールを」と言う係員に、首を横に振る。
「これで、終わりです」
楽屋口から出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
後ろから、足音が聞こえた気がした。
「如月さん」
でも、私は立ち止まらなかった。
全ては、あの演奏の中にあった。
それで——
充分だった。
列車が、闇の中を走る。
行き先は、西へ。
山の方へ。
誰も自分を知らない場所へ。
窓の外に、月が出ていた。
冷たく、白い月。
でも美しかった。
二人を失った。
でも自分を、見つけた。
男でも女でもない。
ただの——
奏でる者。
それが、私だ。
一人で。
でも——
もう、恐れはなかった。
エピローグ
(百合子)
大正八年、四月。
私は本郷の女学校で音楽を教えている。
放課後、音楽室に残って如月さんがよく弾いていたショパンの楽譜を開いた。
一音を鳴らして、やめた。
弾けなかった。
あの演奏会から、七ヶ月。
追いかけたが、如月さんは振り返らなかった。
私は何も、理解していなかった。
如月さんを、男性だと思い込んでいた。
自分が見たいものだけを、見ていた。
でも、如月さんは男性ではなかった。
もう、探さない。
あの人は、自分の道を選んだのだ。
如月さん。
あなたが、どこかで——
幸せに生きていますように。
(恭一郎)
父と決別して、半年。
今は小さなアパートで、ピアノの教師をしている。
部屋の棚に、一枚のレコードがある。
如月奏『月光ソナタ』。
買ったがまだ、一度も聴いていない。
あの夜、僕も楽屋に向かった。
追いかけた。
でも止まった。
何を、言えばいいのか。
分からなかった。
僕が愛していたのは——
「女性としての如月さん」ではなかった。
今なら、分かる。
如月奏という、人だった。
男でも女でもない、
ただ、あの人。
でも、その理解に
僕は、遅すぎた。
ある日、神保町で立花百合子さんと偶然会った。
「如月さんのこと……時々、思い出します」
「僕も」
「私……何も、理解していなかった」
「僕もです」
「もし……どこかで如月さんに会えたら、今度はちゃんと、理解したい」
「僕も、そう思います」
桜の花びらが、風に舞っていた。
僕たちは微笑み合い、別れた。
(奏)
信州、浅間山の麓。
小さな温泉町の旅館で、夜ごとピアノを弾き、昼は近所の子供たちにピアノを教えている。
誰も、私の素性を知らない。
誰も、性別を問わない。
ここでは、私はただ「先生」と呼ばれていた。
ある日、旅館の娘が聞いてきた。
「先生は、お兄さん? それとも、お姉さん?」
私は少し笑って答えた。
「……さあ、どちらでしょうね」
女の子は首をかしげて、また聞いた。
「じゃあ、先生って呼んでいい?」
「うん、それが一番いいね」
そう言うと、女の子はぱっと笑って走っていった。
その小さな背中を見送りながら、胸の奥がじんわり温かくなった。
夜、客たちが寝静まった後——
一人でピアノの前に座る。
ドビュッシーの『月の光』。
優しく、柔らかく。
もう、嵐はない。
百合子さんは、今頃どうしているだろう。
恭一郎さんは、元気だろうか。
二人とも、
自分の人生を歩んでいるに違いない。
それでいい。
私も、今——
自分の人生を歩いている。
ここに、私はいる。
性別のない、ただの——
奏でる者として。
男でも女でもない。
でも——
それでいい。
それが、私だから。
生きている。
それだけで、充分だ。
私は、ここで——
音を奏で続ける。
【完】
あるピアニストの秘密 ひとひら @neirohakimi123
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