第2話  影と猫

 黒い異形が路地に立ちはだかり、大和の背筋が凍った。


 現実離れした怪物。

 映画なら笑えるのに、目の前だと呼吸の仕方さえ忘れそうになる。


 黒猫は無言で前に出る。

 その瞬間、空気が重く沈んだ。


 イレギュラーが影のように跳ねる。

 黒猫は重力を傾け、自身も大きく身体をひねって避けた。


 直後、地面が砕け、コンクリ破片が散る。


(……なんだこれ……映画かよ……)


 大和には強さの基準がまったく分からない。

 ただ、黒猫の動きは“落ち着いているように見えた”。


 余裕があるようにも……見えてしまう。


 黒猫が手を軽く振ると、周囲のパイプや瓦礫が浮き上がる。

 次の瞬間、それらが重力の弾丸になってイレギュラーへ降り注いだ。


 ガンッ! ガガンッ!


 直撃しているはずなのに、イレギュラーは一歩も退かない。

 まるでただの砂粒を受けているかのようだ。


(……効いて、ない?)


 理解が追いつかない。


 イレギュラーが喉を鳴らし、再び突進する。

 黒猫は地を蹴り、重力を滑らせて大きく飛ぶように避ける。


 空気が爆ぜる。

 避けなければ即死だと、見ているだけでわかる。


 黒猫の足が滑り、砂利を踏む音がした。

 ほんのわずかの乱れ。

 それでも無傷。


 その時、大和の腕の中で少女が小さく震えた。


「……ひか……り……」


 意識のない声に、大和はハッとする。

 抱えた子供の体温はまだ弱々しい。このままここにいるのは危険だ。


 黒猫が叫んだ。


「そこの子供を抱えた——お前。早く行け!」


 強い声。命令ではないが、迷いを許さない声音。


「え、いや……でも……!」


 黒猫は一瞬だけ振り返った。


 猫のマスク越しでも分かる鋭い視線。

 そして、言い捨てる。


「邪魔。——守れない」


 その一言が胸に突き刺さった。


 大和は息を呑む。

 その“守れない”が、黒猫の余裕のなさを物語っていた。

 大和には余裕に見えても、実際は違う。


 イレギュラーが咆哮した。

 黒猫が振り向きざま重力を捻り、衝撃波のような空気が散る。


「走れ!」


 大和の身体は、思考より先に動いていた。


 少女を抱えたまま路地の出口に向かって駆け出す。

 背後で空気が弾け、アスファルトが砕ける音が響いた。


(やばい……やばいやばいやばい……!)


 心臓が耳の奥でドクドク鳴る。

 振り返りたい気持ちを必死で抑え、ただ走った。


 ——そして、曲がり角を抜けた瞬間。


 後ろで轟音が響き、赤い光が一瞬路地を照らした。


 だが大和は振り返らなかった。

 振り返る余裕などなかった。


 少女の命を守ることだけで精一杯だった。


 

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