肆
本心を自制して、止めていた足を進める。慌てて追いかけてくる後ろに気をやることができず、向けられた殺気に反応が遅れた。掠め取られる寸前に振り返り、彼女を体の後ろに隠す。やむなく手放した荷物など、構ってはいられなかった。
散らばった米を一瞥した男がうすら寒い笑みを浮かべる。
「あんた、そいつと恋仲というわけじゃないだろう。悪いことは言わない、私に返してくれ」
目だけで知り合いかと後ろに訊いても答えは返ってこなかった。血の気の引いた顔で、じりじりと後ずさっている。
感動の再会、というわけではなさそうだ。
追っ手が一人ならば答えはすぐに出る。
「逃げますよ」
片手に残っていた風呂敷を男の顔面に投げつけて、掴んだ手を引く。
男が追いかけてきた気配を感じて、残される選択肢が狭まる。叩き潰すか、置いて逃げるか。
「置いていってください!」
彼女の悲鳴にも似た言葉が己に突き刺さる。置いていってほしいなど、本心では思ってはいないはずだ。
覚悟を決めて、彼女を肩に担ぐ。どちらが人攫いかと言われそうな蛮行だが、逃げながら走るにはこうするしかなかった。
帽子が飛び、彼女の声が耳元でよく響く。
「やってしまわないのですか」
リン様なら、と続ける言葉を断ち切るように口調を強める。
「面倒ごとは苦手なんです」
舌を噛みますよ、と走る速さをさらにあげる。路地裏を何度と曲がり水路を飛び越え、人波を潜り抜け街中を駆け回った。散々追いかけ回されて、しつこい
「追っ手は巻けたようですね」
彼女の言葉を聞いて、やっと肩から降ろすことができた。額にへばりついた髪を掻き揚げ、顎に流れてきた汗を袖で拭き取る。
ふふと近くで聞こえた笑い声にさすがの僕も面白くなかった。
無言で睨まれた彼女は、懐かしそうに頬をゆるめる。
「人攫いにあったことを思い出しまして」
他人事のようにあっさりと言われたが、聞き流すには内容が重すぎた。どう答えるべきか考えあぐね、無難な言葉を選ぶ。
「よくあることなんですか」
いえ、一度っきりですよと彼女はなんてことはないように言いきった。夢心地のように掴み所のない表情を浮かべ、話し始める。
「どうしようもなく家から逃げ出したくなって、街で迷ったことがありました。いつものように眠り込んでいる間に悪い大人に捕まったようで、気付いたら奇天烈座にいたのです」
「うちは、そういう商売はしていません」
きっぱりと言い返せば、ふふと可笑しそうに弧を描いた口に人差し指が添えられる。
「今日はお帰り、今度こそ嫌になったらうちにおいで、て。そう微笑んで、夢うつつを見せてくださいました」
座長と同じように片目をつぶった彼女は、助けてもらったのだと暗に示した。
何人、囲うつもりだと文句を言いたくなったが、世話になっている身なので強くは言えない。
苦境を知らない彼女はいつになく上機嫌だ。両手で崩れる口元を覆い、秘め事を明かすように続ける。
「その頃から、力自慢のリン様はいの一番で、炎を艶やかに操り」
本当に夢のようでした、と彼女は言葉を切った。
僕は答えに窮した。礼を言うべきか、謙遜すべきか、はたまた言葉が上手いと冗談で流すか。どれも違うような気がして、言葉を探している内に、こてりと頭が胸に倒れてきた。
規則正しい寝息に既視感を覚える。
「夢ばかり見ているのは、貴女でしょう」
耳に言葉を落としても、返事はない。
深いため息を吐き、両腕に抱えなおした僕は目立たずに帰る方法を考える羽目になった。
「やぁ、ご両人。帰りが遅いと思ったら逢い引きだな」
「使いを押し付けてきたのはお前だろう」
いきなり現れるキヨに慣れている僕は、文句を叩きつける。
「調べはついているんだろ」
とっくのとうにと偉そうな二枚舌に注文を言いつけた僕は、彼女を抱えなおした。
ついでに粋な噂も流そうと調子に乗るキヨに釘を刺そうとして、少し考え直す。
「奇天烈座の鬼は赤髪だと広めてくれ」
無言で真意を問う友に、肩をすくめて見せた。
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