夜半、細い月が頂きに登ろうとする頃合いに影が動いた。

 予想通りの展開に自嘲の笑みが溢れる。


「できれば、何事もない方がよかったんだが」


 一人ごちても誰も聞くものはいない。ため息を飲み込んで後を追う。

 物陰に隠れもしない侵入者は、脇はおろか背中もがら空きだ。それでまた、予想通りの行動をするものだから鼻で笑いそうになった。

 夜でも見通しの変わらない目を細め、些細な音を研ぎ澄ました耳で拾う。

 女子供の寝ている小屋に忍び込んだ影に引きづられてきたのはスミだ。襟と髪を一緒くたに捕まれ、逃れようともがいている。


「お前が出ていったせいで、金が入ってこないんだ。今まで育ててきてやった分、ちゃんと返せ!」


 抵抗を続ける彼女にとうとう痺れを切らした男が怒鳴った。

 そっと息をついた僕は重い足をひきずるように影を抜け、二人の前に姿を現す。


「人攫いは看過できませんね」


 今さら僕の存在に気付いた男は明らかに狼狽えた。懐から小刀を出し、挙動不審な手で構える。

 曇りひとつない短い刃で向けられても、敗ける気はしなかった。

 残虐な男も知恵は働くらしい。夜でも浮き出て見える白い首筋に切先が当てられた。

 形勢逆転したと思い込んだらしい男が声高々に反論する。


「私はコレに用事があるだけだ。部外者は引っ込んでいろ」

「家族だからといって、女性に手を上げて恥ずかしくないのですか」

「紳士面して――」


 小うるさい口が全てを言い切る前に駆け出すと、予想外なことに彼女も動いた。刃が当たるのも構わずに身を翻し、男の手は乱暴に振り上げられる。

 紅い鮮血が散り、遅れた髪が刃に切り捨てられた。


「リン様の手を煩わさないでください」


 彼女が何かを言ったが、全く耳に入ってこなかった。

 息苦しくなった胸をかきむしり、鳴り止めと目を閉じる。いくら深い息を繰り返しても、髪が伸び、鋭さを増した爪が己の肉を裂くことを止められなかった。甘い血の匂いで頭の中が溶けそうだ。

 心配そうな顔をする彼女が目に入れば、己の欲に抗いようがない。

 勝手に伸びる腕に、白刃が振り落とされようとする様はひどく遅く見えた。瞬きする時も与えずに男の首を捻り上げる。

 声に鳴らない呻き声が、滑稽で耳障りだった。少し力を加えただけで折れる軟弱者が、に切りかかるとは馬鹿げたことを。

 空いた腕にふわりと触れたのは何だったのか。肌と肌が触れあい、華奢な手に捕まったことを思い出した。

 細腕を引き剥がすのは簡単なこと。わかってはいるが、黒水晶モリオンの瞳に捕らえられ動きが取れない。


「リン様が手を汚す必要はありません。言っていたでしょう、面倒ごとは苦手だって」


 耳に届くのは高くもなく低くもなく、胸に響く声。口を動かす度に、動く首筋の傷から目が離せなくなる。

 僕から一歩も離れず、ざんばらになった髪を翻した彼女は男を見据える。


「お兄様。どうかお引き取りください」


 仕方がないので、彼女の言うように男を離してやった。


 男が逃げた後、彼女はとつとつと話始めた。

 死んだ娘の代わりに買われたこと。寝てばかりで放っておかれたこと、食べ過ぎて怒鳴られたこと。ままならない自分は、金と引き換えに捨てられるのだと。

 涙ひとつなく語り終えると彼女は深く礼を取った。よく響くはずの声はひどく聞き取りづらい。


「……帰ります。これ以上、迷惑をかけるわけにはいきませんので」

「それは本心ですか」


 目を伏せる彼女に、意固地ですねと呆れた声が出た。ぎゅっと結ばれる口を同じもので塞ぎたくなる――のを皮一枚分で耐えた。

 主人の命令に従う犬のように、彼女は微動だにしない。

 高ぶった本能が女を求めていたが、己の意思で抗う。溶け合うような距離を離すように親指を滑り込ませ、下唇をなぞった。


「いいですか? あなたがあなたのままで生きたいと言うのなら、協力は惜しみません」


 気付けば、親指が人差し指の爪に変わっていた。薄皮の下にある血を欲する体を諌め、紅い唇を端から端を撫でるだけで済ませる。

 自分のものか、彼女のものか分からない息が熱く、甘い。

 爪の先が口端に触れ、離れることの出来ない手で頬を包んだ。

 彼女はいつだって突然に、当然のように頬に触れる熱に、冷えた手を重ね、自由になった唇から吐息をこぼす。


「どうぞ、ひと思いに」


 彼女の考えはさっぱりわからないが、瞳いっぱいに映る姿は人からかけ離れた異形だ。

 簡単に裂くことのできる長い爪でやわらかい唇に影を作る。人差し指を一本、彼女の唇にのせて、だめですよと誰に言うともなく強がって見せた。

 不思議そうな顔をする彼女は、無垢な子供そのもので赤黒く染めるわけにはいかないと己を戒めた。

 これは僕の意思ではなく、忌むべき本能だ。

 だけど、包み込んでくれる手を引き剥がす強さはまだ持っていなかった。


◌ ◌ ◌


 明朝、夜が明けきらぬうちに彼女は姿を消した。天晴れな突っ走りぶりに感心すら覚える。

 髪を切る暇もないので、濡れた髪のまま編んで後ろに流した。自動車で行き着く頃には乾くから、問題ないことにする。

 重厚な門の中にあるとは思えない、はりたて小屋の扉を蹴り破るまでは、何も考えていなかった。少々、手荒だが薄い扉に不釣り合いな鍵がついていたのだから仕方がない。

 暗い場所でもなお輝く黒瑪瑙モリオンの双眸が呆気に取られている。リン、さま、と落ちた音にもならないような声は掠れていた。

 赤く腫れた目に高さを合わせるよう膝を折り、出来うる限りの心を込めて笑顔を作る。


「申し遅れました。僕の名は、保村ほむら凛太郎りんたろう。お好きなように読んでくださって構いません」


 騒がしくやってきた家長の耳によく届くよう声を大きくする。


「婚約者殿――いや、飯山いいやま真澄かすみ殿。婚約の申し出、謹んでお受けいたしましょう」


 声が震えたのは澄んだ空のせいにしておこう。

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キテレツ座の眠り姫 ―まやかし乙女ともののけ紳士― かこ @kac0

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