弐
少しだけ言い淀んだ彼女は、スミとお呼びくださいと改まった顔で名乗った。整った顔立ちのせいか、あたたかみにかける印象を抱く。
手を握られたままの僕は周りに視線を走らせた。
楽しげに見ているキヨは当てにはできない。妬ましい腐れ縁を軽く睨んでも愉しげに目元を歪めるだけだ。
諦めて視線を戻すと。穴があくのではないかというほど見つめられていた。
「スミ、さん」
「呼び捨てで構いません」
はは、と力のない声が出た。出鼻をくじかれ、心が折れそうだ。
「あの」
「はい」
耳障りのいい声に、かえって居心地が悪いと伝えたらどうなるだろうか。伝えることも出来ないのに考えてしまって、空いた手を握りしめる彼女の手に重ねた。
「人目がありますので」
やんわりと指を剥がす前に、脱兎のごとく手は遠退く。
「了承を得ずに、先走ってしまいました。次はお伺いを立てますね」
伺われても困る。が、引きつった口が上手い具合に働いてくれるわけがない。外れた視線に人心地ついたので、白い頬に両手を当てる相手に断りを入れる。
「得体の知れない男を相手にするものではありません」
「人と人は他人同士です。知らないことがあって当然ですわ」
やんわりと言えば、きりりと答えられた。
嫌な汗を背中に感じながら、それらしいことを並べてみる。
「ろくでもない男なので考え直した方が――」
「ろくでもないとは、どういったものでしょうか? 賭博でしょうか、商いでしょうか。女性関係はわたしだけにしていただけると嬉しいです」
「いや、まず駆け落ちというのが」
「では女中として雇ってください。もちろん無償で構いません」
「そもそも、僕が妻帯してる場合は」
「それはありえませんわ。
どこをどう調べたのかわからないが、事実なので黙るしかなかった。
次の言葉を待つ姿が、恐ろしく凛々しい。
結ぶかもしれない許嫁がいると言っても彼女は引かないことが嫌でもわかった。
袖に隠した腕をかきながら、打開策を捻り出そうとするが名案は出てこない。
澄んだ空を眺めて途方にくれていると、胸にこてんと当たるものが合った。見下ろせば、きっちりと結われた頭が、目と鼻の先にある。
慌てて、倒れてきた彼女の肩を支えて顔を覗きこめば、寝ているだけだった。
声をかけても、ぴくりとも動かない。
「般若姫ではなく、眠り姫だったか」
腐れ縁の揶揄いは神経を逆撫でするものだが、相手をするだけ無駄だ。
代わりに聞き慣れない言葉を反芻する。
「眠り姫?」
「悪い女に呪いで眠らされた姫さんの話。お前んちなら、そういう童話あるだろう」
「興味がないからな」
起こしてやれよと面白がる男に、どうやってと胡乱げな目を向ければ、さらに笑みを歪める。
「姫の呪いは、
「どうしてまた」
「愛ってやつが何かを超えていくんだろう」
自身の言葉に、知ったこっちゃねぇけどとキヨは鼻で笑った。
なんだそれと半眼を向ければ、さあなと片手を振って去っていく。
ホラ吹きの言葉が信じられるわけがなく、胸に寄りかかる彼女をどう扱うべきか悩んだ。
暴れる心臓の音が聞こえないかと離しても彼女の頭は揺れるだけ。あどけない寝顔は憎らしいほどに健やかで、当分起きそうにはなかった。
◌ ◌ ◌
「やぁやぁ、薄情者のリンじゃあないか」
これ見よがしに声をかけられ、眉間にしわを寄せてしまった。指で十分にほぐしてから、キヨを睨む。
「日が沈むまでは待ったんだ。家に連れ帰るわけにもいかないから、座長に預けただけだろう」
俺の言い分を流したキヨは、どうすんだよと肩を組んだ。
白けた目で見てやっても、一向に効果がないので鬱陶しい腕を剥がす。
「どうもしない。家に返すだけだ」
「できるのか」
キヨはできるできないを聞きたいわけではない。ただ楽しんでいるだけだ。
そうわかっているのに、昨日、十分に寝れていなかったせいか、ふつりと腹の底が
おい、と今朝切ったばかりの髪を引かれた。
顎の下まで延びた横髪をかき揚げ、努めて気を落ち着かせる。目を閉じて、ゆっくり息をして耳を研ぎ澄ませた。
川の音を拾い、風が鳥の声を運ぶ。
目で詫びても、キヨは何事もなかったように振る舞う。
「襲うなよ」
「余計な心配だ、阿呆」
また延びてしまった髪を編んで後ろに流す。懲りないキヨに報告よろしくと見送られ、彼女の眠る小屋へと足を踏み入れた。
寝苦しいだろうと解かれた髪は冬の夜を切り取ったようにしっとりと広がり、さざ波を描く。
死んだように眠る彼女を起こせない僕は、傍らに腰を落ち着かせた。
気配に気付いたのか、濃い影を作る睫毛が震え、ゆっくりと瞼が上げられる。夢を見るような瞳を僕に向けた彼女は、眩しそうに目を細めた。
「本当は、昨日で最後にしようと決めていたんです……見納めだと」
「どうして、駆け落ちをしようなんて言ったんですか」
起き抜けで訊くことではないと分かっていて、あえて口にした言葉に彼女は全く動じなかった。天井を見上げ、夢見心地のような声で呟く。
「言われるままに生かされてきて、好いてもない男の所に行けと言われました……正直に言えば面白くなくて」
「衣食住を与えられて何が不満なんですか」
僕は理不尽だ。自分にも跳ね返ってくる言葉を彼女にぶつけていた。
小さく首を振った彼女は、堪えるように目頭に力を込める。
「わたしのことなんて、誰も必要としてませんから」
僕の決心を揺らがすには、十分すぎる言葉をだった。
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