第1章 幻影の街で (1)
1 町角戦争
空気が柔らかくなってきているのがわかる。
3月初めの空は、冷たいけれども、何かが変わってきている。
昨日降った雪が足元を湿らせている。転ばないように、注意しながら、ゆるゆると歩く。
「はあ……」
深呼吸をする。
太陽は青い空に白く、穏やかな色を落としている。
私は、レインブーツをキュッと鳴らしながら、通勤路を歩いていた。
今日は、特に何もない日。のんびりだ。
背中に陽光を浴びながら、踊るように庁舎に入っていった。
「特別対策室」は、私の仕事場だ。
「おはようございまーす!」
声をかける。
「おう、おはよう、秋元くん」
いつものように、高槻室長がデスクを拭いている。
そして、
「お前さんも拭くか」と、台布巾を渡してくる。
それも日常だ。私のデスクを拭いて、ついでに他のデスクも拭き上げる。
「おはようございます」
アンドロイドのナナが、書類を抱えてくる。
ナナの席には、ファイルが10冊ほど、すでに山になっていた。
「私は今日、ファイルの整理をします」
彼女は腕まくり状態で──実際には、服は着ていないけれども──こちらに微笑む。
「凛子、今日は体調も良さそうですね」
「うん、元気」
私は、ナナのデスクも、ファイルを退けながら拭く。
「あ、そのファイルに挟まってる付箋、ゴミじゃないからね」
「凛子の作ったファイルは、ゴミとゴミじゃないものの区別が難しいです」
ナナは苦笑する。
「『主任』のファイルは整理の必要がないくらいきれいなんですが」
執務室の入り口を見やる。
そこには、コーヒーをドリップしてサーバーに入れてきた、田村智司さんがいた。
「ナナ」
私は、一応言いなおす。
「田村さんは、係長。もう主任じゃなくなったんだよ」
それでもナナは、首を縦に振らない。
「私にとっては『主任』は、彼の固有名詞みたいなものです」
まぁねぇ。
ナナは、田村さんが前職──ダイデンっていう大手家電メーカーにいた頃からの秘書アンドロイドだから、しょうがないか。
「おはよう、秋元さん」
コーヒーをカップに注いでくれながら、田村さんが挨拶してくれる。
「おはよう」
今日もいい香りがする。毎朝、彼は私より早く職場に来て、コーヒーを淹れてくれる。そして、部長と室長、私、それに自分の分をカップに入れて、出してくれるんだ。
しかし、今日はいつもと違った。
田村さんの後ろから、情報システム部の飯島充喬さんがついてくる。
「おはよう、秋元ちゃん」
ちゃん付けで私のことを呼ぶと、一瞬田村さんが嫌そうな顔をする。
「ホント、馴れ馴れしいよ、飯島くん」
「いいじゃないですか。自分も同期から『飯ちゃん』って呼ばれてるし」
しかし、なぜかふたりとも、いつもよりも距離が近い。
なんだろう?楽しそうだ。
「なんかあったの?」
「うん、実は」
田村さんが、頭を掻きながら言う。
「飯島くんに誘ってもらって、ゲーム始めたんだ」
「ゲーム?」
また、突然何だ?
「そう、この頃話題になってるARゲーム」
彼は、スマホの画面を見せてくれた。
そこには、ゲームのタイトル画面が表示されていた。
《MIRAGE by Ortholine Corporation》
オレンジと紫の光が、対峙するように輝いている画面だった。
「MIRAGE……?」
「うん、自分、学生の頃このゲームの開発インターンをやっててね」
飯島さんが前のめりに説明を始める。
「街中でやるサバゲーみたいなもんなんだけど、要塞を支配して陣地を広げるゲームなんだ」
「街中で、サバゲー?」
サバイバルゲームか。ああいうのは、人がいないところでやるもんじゃないかしら。
「BB弾とか撃つんじゃないから大丈夫だよ」
飯島さんは楽しそうに続ける。
「まぁ、昨日初めて係長とゲームしたリプレイ動画、見ます?お昼休みに持ってくる」
そうして飯島さんは自分の持ち場に戻って行った。
田村さんも機嫌が良さそうだ。
なに、ふたりとも、いつの間に仲良くなったの?
昼休み、飯島さんがコンビニ弁当とお茶を持って現れた。
「秋元ちゃんの隣の席、座ってもいい?」
もちろんいいけど──田村さんの目が厳しいんだけど。
田村さん、言いたいことがあったら言ってよ!まったく、何事もないようなフリをして。私と飯島さんが話すと、露骨に機嫌悪くなるの、分かってんのかな?
ご飯を食べ終わって、飯島さんはスマホをいじりだす。
「あのね、昨日のリプレイ動画。田村係長、見てください」
そして、田村さんの席の隣に椅子ごと移動する。私もそれについて、田村さんの背後に付く。
「こうやって、動画撮れるんです」
スマホの中では、二人の視線を映した画面、そして二人の姿を映した画面が交互に現れる。
ふたりは、ARゴーグルを付け、銃のように構えられる専用のコントローラーを握っていた。
『係長、これ、センサーです。光信号が出て、相手にあたればヒット判定されます』
最初は飯島さんが説明するシーン。
『当たると、死ぬの?』
『まともに当たれば、そういう判定になります。でも、係長は今日から始めた人なので、そこは免除になってます』
「これ、1ヶ月の免除期間が終わってからまともに当たると、3日間のログイン停止になります。わりとリアルに『死』が再現されるんですよ」
飯島さんが注釈を入れてくれる。
私は、なんだかよく分からないけど、頷く。
そして、動画は戦闘シーンになる。
『係長!建物の屋上、狙われてますよ!』
彼らのゴーグルは、紫色に光っている。
『避けて!』
飯島さんが叫ぶと、田村さんは少し慌てながらもその攻撃光を避け、撃ち返す。
それはわずかに外れる。
『よし!』
オレンジ色に光る敵がたじろいでいる間に、飯島さんはセンサーを相手に向け、撃った。
相手は、物陰に隠れて逃げてしまう。
『いいセンスしてんじゃないですか』
飯島さんが、田村さんに言い放つ。
『ちょっと遅いですけどね』
『これ、物理的に遅延無い?』
田村さんが文句を言う。それに対して飯島さんが、
『いや、それは、体の方が遅延してんじゃ──』
そこに敵が現れる。オレンジ色に光る。さっきの人みたいだ。
田村さんが、コントローラーを構える。
『おじさん舐めんな!』
そして、見事に命中させた。
やだぁ。
田村さんが「おじさん舐めんな」って言った!
絶対普段言わなさそうなこと、言った!
私が彼を眺めていると、彼は赤くなってオタオタする。
「え、動画ここで止めるの?なんか恥ずかしいんだけど!」
「いいじゃないですか、名台詞ですよ」
飯島さんがニヤリと笑う。
「係長、動きは遅いですが」
飯島さんが講評する。
「諦めないんです。何度撃たれても、根気強く相手に照準を合わせる」
なんだ、撃たれてんのか。
「──カッコいいですよ」
飯島さんの言葉に、私は、思わず田村さんを見る。
田村さんは赤くなったまま、私の方に振り返る。
「いや……カッコよさで言ったら、僕の一億倍、秋元さんの方がカッコいい……」
実戦でご一緒してるからね。
ゲームどころの騒ぎじゃない、命の現場を共にしたからね、この人とは──
飯島さんにはそんなことは分からない。
何故?という顔をする。
田村さんは、自分のことみたいに自慢し始める。
「秋元さんは、警視庁の拳銃射撃大会を2連覇した人だし」
わぁ、言うな!過去の栄光!
今度は私が赤くなる。
「え、じゃあ、秋元さんもこれ、遊びましょうよ」
飯島さんからの尊敬の眼差しがキツい。
ひー、そんなんじゃないって!
「いや、私は、遠慮しておく……」
まぁ……自信が無いわけじゃない。むしろ、下手したら無双しちゃう。
でも、だからこそ、私は遊びには興味が無い。
しかし、平和だなぁ。
戦争ごっこに、大人ふたりで楽しそうに。
男の子って大体、こういうの好きよね。
楽しげにリプレイ動画をチェックするふたりを、私は大人になったような目で見ていた。
──まさか、こんな日常が打ち破られるとは、夢にも思わずに。
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