第9話「故郷からの使者」

 穏やかな日々は、長くは続かなかった。


 ノアが砂漠の国バシラで「聖なる天蓋」として崇められ、王の寵愛を一身に受けているという噂は、海を越え、ノアを追放した故郷の国にまで届いていた。


 ***


 リヒトハイム侯爵家。


 その名は、かつて国中の尊敬を集めていた。代々、強力な「光」の力を持つ聖職者を輩出し、国の安寧に貢献してきたからだ。


 だが、その栄光にも陰りが見え始めていた。


 現当主、つまりノアの父親の力が先代に比べて弱く、そして次期当主と目されるユリウスの光の力も、なぜか不安定で、期待されていたほどの輝きを見せていなかったのだ。


 リヒトハイム家の権威は、その「光」の力にこそ支えられている。力の衰退は、一族の失墜に直結する。


 焦燥に駆られたノアの父親は、そんな時にもたらされた噂に飛びついた。


 忌み子として追放した長男、ノア。その「影」の力が、遠い異国で奇跡の力として讃えられている。


 父親は、かつて自分が唾棄したその力を、今度は一族の権威を取り戻すために利用しようと考えたのだ。


「ユリウス。お前に、バシラへ行ってもらう」


 書斎に呼び出されたユリウスは、父親の言葉に息を呑んだ。


「バシラへ……?兄さんの、いる国へですか?」


「そうだ。あの忌み……いや、ノアを連れ戻してこい。奴の力は、衰えた我が家の光を補うのに使えるかもしれん。影と光、対なる力が合わされば、あるいは……」


 父親の目に宿るのは、息子への情ではなく、ただ己の権威を守らんとする醜い欲望だけだった。


 ユリウスは唇を噛んだ。


(また、兄さんを利用するのか)


 幼い頃から、何もできなかった。不吉な力を持つというだけで、家族から虐げられる兄を、ただ見ていることしかできなかった。臆病で、父に逆らうこともできず、兄が雨の中に追放される日も、引き留めることすら叶わなかった。


 その後悔は、ずっとユリウスの胸に澱のように溜まっていた。


 兄が、遠い国で幸せに暮らしている。その噂を聞いた時、どれほど安堵したことか。それを、またこの身勝手な父親たちが壊そうとしている。


(今度こそ、僕が兄さんを守らなければ)


「……わかりました、父上。使者として、バシラへ向かいます」


 ユリウスは、父親の前で恭順に頭を下げた。だが、その心の中では、固い決意が炎のように燃え上がっていた。


 兄を連れ戻すためではない。


 この目で、兄が本当に幸せなのかを確かめるために。そして、もしこの家の魔の手が兄に再び伸びるのなら、今度こそ、自分が盾となって兄を守るために。


 弟は、兄への贖罪の思いを胸に、砂漠の国へと旅立った。


 ***


 その頃、ノアはジャファルと共に、新しくできたオアシスのほとりで穏やかな時間を過ごしていた。ジャファルの尽力と、ノアの影の力がもたらす涼やかさによって、少しずつ砂漠の緑化が進んでいたのだ。


 そこに、王宮からの急使が駆けつけた。


「申し上げます!リヒトハイム侯爵家より、使者がお見えになりました!ノア様との面会を求めております!」


「リヒトハイム……?」


 ジャファルが訝しげに眉をひそめる。だが、ノアは、その名を聞いた瞬間に血の気が引いていくのを感じた。


 忘れることなどできるはずもない。自分を蔑み、傷つけ、追放した家族の名前。


(どうして、今さら……?)


 背筋を、冷たい汗が伝った。やっと見つけた安らぎの日々が、音を立てて崩れ去っていくような、不吉な予感に襲われていた。

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