第5話「我が国の至宝」

 突然、目の前に現れた男の存在感に、ノアは息を呑んだ。


 日に焼けた肌、彫りの深い精悍な顔立ち。そして何より、視線を逸らせなくなるほど強く輝く瑠璃色の瞳。周囲の人間とは明らかに違う、王者の風格を纏っていた。


 彼が誰なのか、ノアにはわからなかった。だが、彼がただ者ではないことだけは、痛いほど伝わってきた。


「私がこの国の王、ジャファルだ」


 男が静かに告げた言葉に、周囲の人々が一斉にどよめき、その場に膝をついた。ノアも慌てて跪こうとしたが、その肩を力強い手がそっと掴んで止める。


「君はいい。顔を上げてくれ」


 促されるままに顔を上げると、王と名乗った男――ジャファルは、驚くほど優しい眼差しでノアを見つめていた。


「君の名を聞かせてくれるか」


「ノ、ノア……です」


 か細く答えると、ジャファルは「ノアか」と愛おしそうにその名を呟いた。


「ノア、君に頼みがある。どうか、私と共に王宮へ来てほしい」


「え……?」


 突然の申し出に、ノアは目を瞬かせる。王宮へ?なぜ僕が?


「君のその素晴らしい力について、詳しく話が聞きたい。君は、我が国が長年待ち望んでいた奇跡そのものだ」


 ジャファルの言葉には、一片の疑いも迷いもなかった。その真っ直ぐな視線と、熱のこもった言葉に、ノアはただ圧倒されるばかりだった。


 商隊のガシムさんたちが心配そうにこちらを見ていたが、ジャファル王が丁寧に事情を説明し、ノアを客として丁重に招くことを約束すると、彼らも安堵したように送り出してくれた。


 豪華な装飾が施された馬車に乗せられ、王宮へと向かう道中、ノアの心はずっと戸惑いでいっぱいだった。


(どうして、僕なんかが……)


 不吉な力だと言われ、忌み嫌われてきた人生。追放され、ただ生きるためだけに彷徨っていた自分が、一国の王に招かれるなど、夢にも思わなかった。


 王宮は、太陽の光をふんだんに取り入れた、白と金を基調とする壮麗な建物だった。案内された一室は、今まで暮らしていた屋根裏部屋とは比べ物にならないほど広く、豪華な調度品で満たされている。


 呆然と部屋の中を見回していると、ジャファルが一人で入ってきた。


「驚かせたか。だが、これでもまだ君を迎えるには足りないくらいだ」


 そう言って微笑むジャファルの瞳は、燃えるような熱を帯びていた。彼はノアの目の前に立つと、その両肩を掴む。


「ノア。君の力は、呪いなどでは決してない」


「え……」


「それは、我が国を、苦しむ民を、そして私を……この灼熱地獄から救うために天が遣わした、恵みの光だ」


 恵みの、光。


 その言葉は、雷のようにノアの心を撃ち抜いた。


 影である僕が、光?


「君が生まれてから、どれほど辛い思いをしてきたか、私には想像もつかない。だが、一つだけ言える。君を虐げた者たちは、皆、揃いも揃って見る目のない愚か者だ」


 ジャファルは、ノアの痩せた頬にそっと触れた。その手のひらは、日差しのように熱いのに、不思議と心地よかった。


「君は、君のその力は、何物にも代えがたい価値がある」


 生まれて初めてだった。


 自分の存在を、真正面から肯定されたのは。


 自分の力を、価値あるものだと、必要だと、はっきり告げられたのは。


 その瞬間、ノアの心の奥で、ずっと固く閉ざされていた何かが、音を立てて壊れた。青い瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。声を殺して泣きじゃくるノアを、ジャファルはたまらないといった表情で、その華奢な体を力強く抱きしめた。


「よく、ここまで生きてきてくれた。よく、私の前に現れてくれた」


 広い胸に抱かれ、力強い腕に包まれる。背中を優しく撫でる大きな手のひらから、温かい熱が伝わってくる。それは、ノアが生まれて初めて感じる、誰かからの無条件の肯定と庇護だった。


「ノア」


 耳元で囁かれる、低く甘い声。


「お前は今日から、この国の至宝だ。私が必ず、お前を守り抜くと誓う」


 その言葉は、追放の雨に凍えていたノアの心を、砂漠の太陽のように力強く、そして優しく溶かしていくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る