第4話 勇者の苦悩Ⅱ

「カランカラン」

「いらっしゃいませ」


 嗅いだことのある匂いに懐かしさを感じていると、さらに懐かしい言葉が聞こえてきた。


 中にいるのは、一人の店主らしき人物。

 この世界では今まで、一度も見たことがなかった、黒髪の青年だった。


(勇者って、バレてないよね……?)


 僕は恐る恐る青年の反応を確認するが、店主は何も知らない様子でカップを拭き始めた。

 そして、いつの間にか僕の服装も変わっていることに気づく。

 老紳士が着るような紳士服に、おしゃれなのかわからないハットを被っていた。

 こういう服もこの世界にあるのかと、何だか嬉しく思った。


 僕と同い年くらいように見えるその店主は、僕が目の前に腰掛けると無言でメニュー表を差し出した。

 この世界に来る前の僕なら、もっと端——あの窓際の席に腰掛けていただろう。

 僕も案外、この世界の住人らしくなってきたのかもしれない。

 そんなことを思いながら、メニュー表を見て思わず声が出た。


「コーヒー……?」


 この世界に来て、初めて、日本と同じ言葉を目にした。

 この世界は日本と似たようなものはあってもそれは、名前が違ったりした。

 最初は日本の名前とこの世界の名前がこんがらがって、物の名前がすぐには覚えられなかった。

 けれど、そのメニュー表にははっきりと『珈琲』と、そう書かれていた。


「分からなければ、オススメでお淹れします」


 店主はそう落ち着いた声で言った。


「じゃあ、その……オススメ、で」

「かしこまりました」


 慣れた手つきで、カップに珈琲を注ぎ始めた店主。

 その手つきを見ていると、珈琲の香ばしい匂いが鼻を掠めていった。


(懐かしい……)


 その懐かしい匂いに、張り詰めていた気持ちが和らいでいく。


「ミルク、砂糖はお好みでどうぞ」

「え、あ、はい……」


 ミルクと砂糖。

 それも日本と同じなのか。


 普段、ろくに街へ出ないでもっぱらモンスターを倒していたから知らなかっただけで、本当はもっとたくさん、日本と同じ名前のものがあるのかもしれない。

 僕は前の世界との共通点を見つけて、嬉しく思いながら出されたカップを見つめた。


 いや、だがまてよ、と。


 これは、本当に前の世界と同じ珈琲なのだろうか。

 見た目も匂いも同じだが、味は全く異なる可能性もある。

 そうやってこの異世界で何度騙されてきたことか。


 甘いお菓子に見えるものが、とんでもなく苦かったり。

 酸っぱいフルーツだと思っていたものがとんでもなく辛かったり。


 そう何度も見た目で騙されてきた。


(辛かったり……しないよな……?)


 僕はこの世界に来て、些か用心深くなった気がする。

 ジーッと念深く珈琲を見つめていると店主が不思議そうに声をかけて来た。


「何か、ございましたか……?」

「いや、えっと……初めて見たから……」


 そう、この世界に来て珈琲を初めて見たものだから、本当にこれが僕の知っている珈琲なのかと疑っていたのだ。

 不思議な客だと思ったのだろう。


「は?」


 そう、店主は気の抜けたように声を漏らした。

 珈琲を知らないものなどいるのかと言いたげに。

 けれども、店主はすぐさま珈琲の豆を見せながら言った。


「これは、珈琲といって、この豆を細かく砕いてお湯で濾した飲み物です。苦味があるので、お好みでこのミルクや砂糖を入れて飲んでください」


 おそらく、僕が『珈琲』を知らないと思って説明してくれた。

 けれど、その説明のおかげで僕はこれが間違いなく、前の世界と同じ珈琲だと確認できた。

 僕は手豆だらけの手でカップを握り、珈琲を口に運ぼうとした。

 そのとき、店主と目が合った。

 顔が見られた。そう思い、すぐに目を逸らした。


「あつっ……」


 剣を握りすぎて硬くなった手のひらでは熱さが感じ取りにくかったようだ。

 熱々の珈琲を口にし、舌がヒリヒリとする。

 そんな舌の痛みよりも、『勇者』だとバレていないかという不安と、思わず目を逸らしてしまったことへの後ろめたさが胸を占めていた。


「あ、大丈夫ですか?」

「すいません、思ってた以上に熱くて……」


 舌が火傷し、若干味が分からなくなっていたけれど。

 それでも懐かしさ感じるこの珈琲の味は、上手く言葉では言い表せないほど美味しかった。


「苦いけど、美味しい、です……」

「それは、良かったです」


 先ほどの目を逸らした行為など気にしていないかのように、店主は落ち着いた声でそう告げた。

 やはりこの世界の人は日本人とは違い、目を逸らされたことくらいじゃ、気にも留めないのだろう。

 先ほど僕は、この世界の住人らしくなてきたなと思っていたが、根本的な性格はなくならないらしい。


 それに、店主は僕が勇者だと全く分かっていないようだった。

 現に、店主は僕に何か問いただしてくるわけではなく、静かにカウンターに腰を下ろしたのだ。


(看板にもあった通り、悩みを聞いてくれるんだよな……?)


 僕の素性を知らないのならば、と僕は縋るように口にした。


「困っていることがあって、あ、ありまして……」


 普段敬語を使わずにいたせいで、いざという時に言葉が出なかった。


「はい?」


 突然放った僕の言葉に店主は少し驚いたようだった。けれども、すぐに話を聞く姿勢を見せてくれた。


「えっと……どうしたんですか?」


 僕は、念の為にも、勇者だということがバレないように慎重に言葉を選んで胸に秘めた思いを話し始めた。


「えっと……、その、みんなの期待を背負うのが苦しいんだ、あ、です……」

「そ、そうですか……、それはそれは……」

「どうすればいいのか、相談したくて」


 いきなり、こんなこと言われても反応に困るだろうな。

 そう思いながら店主の顔をチラリと見た。

 店主は案の定、困惑した表情をしていた。

 けれど彼は穏やかな声で言った。


「僕でよければ。あっ、あと、話しやすい口調で話してもらっていいですよ?」


 下手くそな敬語はバレていたらしい。

 けれど、そう言ってもらえたことで少し緊張も解れ、話しやすくなった気がした。


「あ、ありがとう。助かるよ」

「それで、相談とは?」


 僕が相談したいこと。

 それは、魔王との戦いのこと。

 だが、その名を直接言ってしまえば、僕が勇者だとすぐにバレてしまうだろう。

 だから、遠回しに口にした。


「僕は、ある人に勝たないといけないんだ。……だけど、どうやっても勝てないんだ」


 分かる人には分かるかもしれないけれど。

 今の僕にはこういう言い方しか見つからなかった。


「やれるだけのことはやったと思っていた。仲間たちも全力を尽くしていた。なのに、どうしても勝てないんだ」


 そう、僕は全力で挑んだ。仲間たちだって誰一人として手を抜いていなかった。


「周りは貴方が勝たないと、何か言ってくるんですか?」

「いいや、そんな事はないんだ。ただ、『次勝てばいい』、『また、挑めばいい』そう期待を込めて言うだけで」


 彼らは僕を責めることはない。むしろ、呆れたような視線を向けて、笑うんだ。

 口ではそう言うけれど、本心では多分こう思っている。

 ——「勇者のくせに、負けたのか」と。


 僕は直接聞いたわけではないが、おしゃべりな宰相の話によれば、歴代の勇者はみんな一度の戦いで魔王を倒しているらしい。

 僕だけが、勝てないのだと。


「なるほど、『勝たなくてもいい』とは、言ってくれないんですね」

「——っ!」


 店主の言葉に思わず顔を上げた。

 そう。

 僕はその言葉を密かに期待していたんだ。

 何度も、何度も戦っているうちに、僕は何故、やつと戦っているのか分からなくなってきていた。

 彼ら——人間側の言い分しか知らない僕は、本当に魔王にこの剣を向けていいのだろうかと。

 なんで、魔王を倒さなければいけないのかと。


「でも、貴方は勝たなくちゃいけないと思っているんですね?」

「……そう。勝たないといけない事は分かっているんだ。僕にしかできないということも」


 頭では分かっている。

 魔王は人類の敵。魔王がいるだけで、人間界は脅かされている。

 魔物が湧き出て、生活が困難になる。

 だから、魔王は倒さないといけない。


 店主が僕の言葉を聞きながら、そっと手を差し出した。

 空になったカップを見ながら差し出されたその手に、僕は彼の意図を読み、カップを差し出した。

 けれど、彼は僕の予想とは違い、新たにそこに珈琲を注いでくれた。

 言葉では言われなかったけれど、彼のその行動は、「いくらでも話に付き合いますよ」——そう言ってくれているような気がした。


「貴方以外では、だめなんですか?」


 魔王を倒せるのは勇者だけ。

 僕は受け取ったカップにミルクを入れて言った。


「あぁ、僕じゃないと、だめなんだ」


 そう言うと、店主は自身の手元にあった僕と同じミルク珈琲を一口啜って、何か考え込んだように言った。


「相手はどんな人なんですか?」


(……どんな人? 魔王が?)


 そんなこと考えたこともなかった僕は、その問いに思わず黙った。


 魔王は魔王だ。

 人類を脅かす敵だ。

 それ以外の何者でもない。

 そう思っていた。


「……いや、知らないんだ」

「し、知らない?」

「あぁ、どんなやつなのかも、何を思っているのかも、何も……」


 何を考えて、何のために殺戮を繰り返すのか。


「では、相手も貴方のことを知らないのですね?」


 当たり前だ。剣を交えるだけで会話など交わしたことがない。

 ただ——。


「あぁ、ただ。これは、僕の推測だが、やつは僕のことを世界で一番煩わしいと思っているだろう」


 何度も立ち向かってくる、相手からすれば僕の方が敵なのだ。

 魔王は、男か女かもわからない。

 性別があるのかさえもわからない。

 けれど——。


「僕は、やつに勝たないといけない。……けれども、今思うと、そんな一方的に挑んでいいのかも分からなくなってきた……」


 僕が悪だと思っていたものは、本当に悪なのだろうか。

 当たり前だと思っていたことは本当に当たり前なのだろうか。

 この正義は、果たして本当に正義なのだろうか。

 僕は分からなくなっていた。


「相手の方と、話をしてみてはどうですか?」


 そんなごく当たり前のことを、店主は言った。

 だけれど、それは僕の中では当たり前ではなかった。

 魔王と対話をする。

 そんなことを考えてもみなかったからだ。


「話を、できるのだろうか?」


 はたして、やつに心があったとして、何度も斬り掛かってきた僕なんかの話を聞いてくれるのだろうか。


「何事も、やってみなければ分かりませんよ」


 店主はカップを拭きながら、なんてことないように言った。


「貴方なら、きっと大丈夫です」


 そんな彼の言葉には、全てを支えてくれるような、まるで両親の言葉のような安心感があった。


「……ありがとう。やってみるよ」


 僕は空になったカップをカウンターに置きながら立ち上がった。

 また、この場所へ来れたとき。

 その時の僕は仮初の姿などではなく、僕のありのままの、本来の姿で彼の前に立ちたいと、そう思った。


「話を聞いてくれてありがとう……、そういえば、名を名乗っていなかったね……。僕はエインハルト。この国の勇者だ」


 そう名乗ると、彼は一瞬驚いたような顔をした。

 しかし、すぐにさっきまでの微笑みを向けて言った。

「またお越しくださいませ、勇者様」

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