第2話 不思議な青年の苦悩Ⅱ

「それで、相談とは?」


 そう問いかけると、彼は珈琲を一口、口に運んでから、静かに語り始めた。


「僕は、ある人に勝たないといけないんだ。……だけど、どうやっても勝てないんだ」


 聞きながら、想像する。

 珈琲を知らない世間知らずでおそらくお金持ちの彼。

 そんな彼が、何かで相手に勝とうとしている。

 彼は続けた。


「やれるだけのことはやってると思っている。仲間たちも全力を尽くしている。なのに、どうしても勝てないんだ」


 仲間と共に勝つ、というと何かのスポーツだろうか。

 どんなスポーツなのかあえて言わずに話を濁しているのは、詳細を伝えてしまうと素性がバレてしまうからだろうか。

 隠さなければいけないほどの素性。

 有名人とかだろうか。

 それでいてスポーツをしているとなると、スポーツ選手くらいしか思い浮かばない。


 ただ、僕はテレビをろくに見ないので、顔を見たところでどれだけ有名でも、多分分からないと思う。

 別に彼の素性を知りたいわけではないので、僕もわざわざ問いただす気はないのだが。

 彼のためにもなるべく詳細は聞かず、でも、できるだけ彼の相談事に沿ったアドバイスがしたい。

 そう思った僕は慎重に言葉を選びながら、彼に問いかけた。


「周りは貴方が勝たないと、何か言ってくるんですか?」


 テレビで中継されるようなスポーツならば、相手に負けたとき、観客からヤジが飛んでくる、そんな話を聞いたことがある。


「いいや、そんな事はないんだ。ただ、『次勝てばいい』、『また、挑めばいい』そう期待を込めて言うだけで」


 青年はそう言いながら、顔を俯ける。

 青年の気持ちも分からないでもない。

 素直にそう思った。


 期待される事はない僕だが、もし、何度挑戦しても上手くいかないことがあったとして。

 その度に周りからこう言われてしまうとなると、自分の努力が足りないのだと思ってしまうだろう。

 その過程でひたすら努力をしていても。

 彼もおそらく、一生懸命に努力をしている。

 だからこそ、期待に応えられない自分が嫌で苦しいのだろう。

 彼が言って欲しかったのは、そう言う言葉じゃなかったのだ。


「なるほど、『勝たなくてもいい』とは、言ってくれないのですね」

「——っ!」


 僕の言葉に青年が、俯いていた顔を上げた。

 その言葉を求めていた、とでも言いたげに。


「でも、貴方は勝たなくちゃいけないと思っているんですね?」

「……そう。勝たないといけない事は分かっているんだ。僕にしかできないということも」


 そう虚な瞳で空になったカップを見つめる青年。

 僕は静かにその空になったカップへと手を差し伸べた。

 彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、僕の意図を察したのか、手に持っていたカップを差し出した。

 これからもっと話は長くなる。

 そう思い、僕はカップに追加の珈琲を注ぎながら問いかけた。


「貴方以外では、だめなんですか?」


 彼はカップを受け取りながら、即座にミルクを混ぜて言った。


「あぁ、僕じゃないと、だめなんだ」


 何故彼だけが勝たないといけないのかは分からないが、彼が彼にしかできないというのだから仕方があるまい。

 勝つための努力。

 それを聞くのは、詳細を聞くのと同じになってしまうだろうか。

 どこまで聞いていいのか分からない僕は、自分の冷めた珈琲を一口啜りながら考えた。


 これは、現時点での僕の想像の範囲だが。

 彼は素性を隠さなければならない有名人。

 彼には勝たなければならない相手がいて、仲間たちと挑戦しているけれど、その相手には彼しか勝てない。

 スポーツ選手で団体競技——だとしたら、考えられる競技は野球か、テニスか、はたまたホッケーとかだろうか。

 なぜそう見立てたか。

 それは、カップを持つ彼の手のひらに、数えきれないほどの手豆ができていたからだ。

 彼のその手のひらからは、絶え間ぬ努力が浮き出ていた。

 それを見るまでは、顔の良さからアイドルなのかとも考えたが、アイドルで相手に勝つってどういう事かがいまいち分からなかった。


 手豆ができるスポーツとなると限定されてくる。おそらく他にもたくさんあるのだろうけれど、僕の知識ではその三つしか思い浮かばなかった。

 ここまでの推測が当たっているかは分からないが、そう考えて引き続き彼の話を聞いてみることにした。


「相手はどんな人なんですか?」


 僕の問いに彼は碧眼の瞳を見開き、パチクリとさせた。


「……いや、知らないんだ」


 そうあっけらかんと答える彼に、僕も同じように目をパチクリとさせた。


「し、知らない?」

「あぁ、どんなやつなのかも、何を思っているのかも、何も……」


 そんな見知らぬ人に勝とうとしているとはどういう事だろうか。

 ただ、確かに相手と仲良い間柄でなければ、僕もそう返答するだろう。

 それに、敵と仲良くするのは些か難しいことだ。


「では、相手も貴方のことを知らないのですね?」

「あぁ、ただ。これは、僕の推測だが、やつは僕のことを世界で一番煩わしいと思っているだろう」


 そう言った彼の頭にはおそらく、相手の姿が浮かんでいるのだろう。

 憎しみのような、悲しみのような、そんな感情が混ぜ込まれた顔をしていた。

 ただ、彼がそう思っているということは、それほどまでに相手を苦しめているということではないのか。

 それは、もうあと一歩で相手に勝てる領域まで来ているのではないか。


 そう思ったが、あえて口にはしなかった。

 今の彼が、その相手と決着をつけたいようにはどうしても見えなかったからだ。


「僕は、やつに勝たないといけない。……けれども、今思うと、そんな一方的に挑んでいいのかも分からなくなってきた……」


 彼はそう言った。

 やはり、今の彼は相手と決着をつけることを一番に考えてはいなかった。

 相手のことを知りたいという思いが滲み出ていた。

 僕にはそんな切磋琢磨するような、永遠のライバルのようなそんな存在はいない為、彼の気持ちの一部も分からないだろう。

 だけど、一つだけ思うことはあった。


「相手の方と話をしてみてはどうですか?」


 相手のことを知らないから、彼は自分のしている事に迷いを抱えているのだと。

 ならば、相手のことを知ればいい。

 それからもう一度考えればいい。

 そう思ったのだ。


「話を、できるのだろうか?」

「何事もやってみなければ分かりませんよ」


 相手が取り繕ってくれるかどうか、そればっかりは分からないけれど。

 目の前の彼ならば、誠意に相手と向き合う心を持っている彼ならば、きっと相手も向き合ってくれるだろう。


 この言葉は、僕の本心だった。


「貴方なら、きっと大丈夫です」

「……ありがとう。やってみるよ」


 彼は一番の笑顔を見せてくれた。

 空になったカップをカウンターの上に置くと、決意したように立ち上がった。

 そして、去り際に彼は被っていた帽子を外して言った。


「話を聞いてくれてありがとう。そういえば、名を名乗っていなかったね……。僕の名前はエインハルト。この国の勇者だ」


 透き通るような金髪と、決意を込めた碧眼の眼差しを向けて彼は言った。

 勇者だと。

 僕は何だか納得してしまった。

 それが例え冗談で言ったことだとしても。

 僕は、小さく微笑みながら言った。


「またお越しくださいませ、勇者様」

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