第1話 不思議な青年の苦悩

 いつものように、大学の課題をしようと、教科書を開いた時だった。


 僕が今いる場所は、アルバイト先である喫茶店【縁(えにし)】。

 バイト先にいるにも関わらず、仕事もせずに課題をしようとしているのもおかしな話だろう。

 だが、それが許されているのがこの喫茶店だ。


 喫茶店【縁】は、お客さんなんて滅多に来ない、田舎の小さな喫茶店である。

 木製のカウンターに光が差し込み、コーヒーの匂いが香るだけの、静かで穏やかな喫茶店。

 僕のお気に入りの喫茶店だ。

 今はこの店にいるのは僕一人、だが僕はただのアルバイト。

 店長は別にいるのだが、彼女は滅多に店に顔を出さない。

 その分、アルバイトである僕の自由にしていいと言われている。


 その為、お客も来ないこの空間で、僕が課題をしようが、昼寝をしようが、何をしようが問題ないのである。

 まあ、お客が来たらそこは、きちんと対応しなければいけないが。

 なので、僕はいつも通り自由に過ごそうと思っていた。

 そんな時だった。


「カラン、カラン」

「いらっしゃいませ」


 まだ、開店して間もないというのに扉のベルが鳴った。

 その音に、反射的に接客業特有の挨拶を口にした。

 店長は、お客が来てもこの言葉を口にすることはないらしく、本来喫茶店では言う必要がない挨拶なのかもしれない。

 けれど、僕はただ黙っているのも気が引けるので、いつもそう口にするのだ。


 扉を開けて入ってきたのは、一人の男性だった。

 小綺麗な身なりの紳士服に、高級そうなハットを被っている。

 一言でいえば、老紳士のような見た目だった。

 僕がもし、お爺さんになったなら、こんな感じになりたいと憧れるような。

 そんな装いだった。


 ハットで顔はよく見えないが、背筋をピンとさせるその姿は良いところの出なのかと思わせる。


 男性は、静かに足を進めると、僕の目の前のカウンターに腰掛けた。

 この席を選ぶ人はあまりいない為、僕は一瞬驚いて、持っていたカップを落としそうになった。

 僕ならば、いや大抵の日本人は、店員から少し離れた席——この喫茶店でいうと窓際の席に腰掛けるだろう。

 店員である僕の目の前に腰掛けるとは、余程コミュ力が高いのだろうか。

 こんな日本人もいるのかと、不思議に思いながら、僕は目の前に座る男性にメニュー表を差し出した。


「コーヒー……?」


 男性はメニュー表を開いてそう呟いた。

 その声は、老紳士らしからぬ、若い青年の声に思えた。

 そして、声色には驚きの色が滲んでいた。


 まさかとは思うが、喫茶店に来て珈琲を知らぬものなどいるまい。

 おそらくだが、男性は別のことに驚いたのだ。

 メニュー表に書いてあるのが、“珈琲”しかないことに。

 僕も最初、この店でアルバイトをする時に驚いた。

 喫茶店というと、軽食やら、洋菓子やら、珈琲以外のメニューも置いてあるのが一般的だと思っていたからだ。

 前に店長にも聞いてみたが、一言「めんどくさい」とだけ返ってきた。

 気持ちは分からないでもない。

 それを聞いた僕からも当然何か意見するわけでもなく。

 なので、この店は『珈琲しかない』喫茶店なのだ。


「分からなければ、オススメでお淹れします」


 戸惑う男性に僕はそう告げた。

 オススメというものが特別あるわけではなく、単に僕がその方が楽だったから。

 色々注文を聞いてしまうと、挽き方や湯温なども変えなければならない。

 つまり、面倒くさい。


「じゃあ、その……オススメ、で」

「かしこまりました」


 僕はすでに出来上がっていた淹れたての珈琲をカップに注いだ。

 なぜもう出来上がっているのかというと、僕はお客がこの店に来る前から、『一番簡単に淹れられて、かつ美味しい珈琲』をすでに用意していたからだ。

 まあそれは、僕が自分で飲むために用意していた珈琲になるのだが。

 お客に出す珈琲を新たに作ることさえ横柄している僕は、ある意味店長よりも、めんどくさがり屋なのかもしれない。

 それに、僕にとっては美味しくても、この人の口に合うのかは分からない。

 でも、僕が美味しいと思っているという意味では、オススメという言葉は間違っていないのだろう。


 そんな僕好みの珈琲を注ぎながら、そういえばホットかアイスか聞いてないな、なんてことを思い出す。

 ただ、外は秋風感じられる肌寒い季節だ。

 暑がりな人からすれば、アイスを頼むだろうが、この男性の服装からしてホットで問題ないだろう。

 なんせ、まだそこまで寒くないはずの気温に、マフラーをつけているのだから。

 余程の寒がりでなければそんなもの、身につけまい。

 そう思いながら、僕は珈琲の注がれたカップを男性の前へと差し出した。


「ミルク、砂糖はお好みでどうぞ」

「え、あ、はい……」


 青年は曖昧な返事をすると、ジッとカップの中の珈琲を見つめ始めた。

 カップを手に取ることもなく、ただジッと。


 そんなに見られると、何か問題でもあったのだろうかと気が気でない。

 フィルターは今朝新しいものに変えたから、粉が浮いているわけではないだろうし。

 ましてや、色が薄すぎるわけでもない。

 それに、先に僕はこの珈琲を飲んでいるから自信があった。

 完璧な、いつもの珈琲だと。

 そう確信しているけれど、僕は不安でいても立ってもいられなくなり、結局、恐る恐る男性に問いかけたのだった。


「何かございましたか……?」

「いや、えっと……初めて見たから……」

「は?」


(珈琲を? 初めて?)


 この世に珈琲を知らない人がいるとは。

 そこらへんのスーパーでも、コンビニでも買えるようなものを。

 否、そんな人いるわけがない。

 そう思ったが、この男性の身なりを見て、もしかして本当に知らないのかもしれないと思い至る。

 高級感漂う、見るからにお金持ちそうな男性の身なりを見て。

 その姿に、富裕層たちは珈琲を嗜まないのかもしれないと。そう思ったのだ。

 僕は富裕層とは程遠い、一般家庭の出だからか、彼らのことなど全くもって分からない。

 『住む世界が違う』とはよくいったもので。

 彼がこの、一般的な飲み物である珈琲を知らなくても、それは仕方がないことなのかもしれない。

 メニュー表を見た時に戸惑っていたのも、珈琲を知らなかったからなのだろう。

 そう思うと、全て合点がいった。


(何事も決めつけは良くないな)


 僕が知っているから当たり前だということを相手に押し付けてはいけないのである。


 僕は、カウンターに並ばれた珈琲豆へ手を指し向けて言った。


「これは、珈琲といって、この豆を細かく砕いてお湯で濾した飲み物です。苦味があるので、お好みでこのミルクや砂糖を入れて飲んでください」


 丁寧にわかりやすく伝えてみる。これで伝わるのかは分からないが。

 男性は、僕の話を聞くと、恐る恐るゆっくりとカップを口に近づけた。

 すると、少しだけハットから顔が覗き見える。

 節目がちな瞳に被さる睫毛がとても長く、それは黒色ではなく薄い金色だった。


(海外の人か? 日本語、上手だな)


 僕が見ていたのを感じ取ったのか、綺麗な碧い瞳と目が合った。

 その瞬間、僕はすっと目を逸らした。

 流石にジッと見られながら飲むのは彼も嫌だろう。そう思っただけで、他意はない。

 だが、目が合って急に目を逸らされたら、失礼なのではないか。

 そう思い、僕は再度男性へ顔を向けた。


「あつっ……」

「あ、大丈夫ですか?」

「すいません、思ってた以上に熱くて……」


 男性はハハッと苦笑いを浮かべながら、もう一度カップに口をつけた。

 僕の先ほどの行為は、特段気にしていないようだ。


(気にしすぎだな)


 日本人特有の『気を遣いがち』が発動してしまったことで、僕は生粋の日本人なのだと思い知らされる。

 それは、悪いことではないのだけれど、その神経質さが自分の殻を破れないことにも繋がっているんじゃないかとも思う。

 何も考えず、本能のままに生きていたらどれほど楽だろうか。

 まあ、そこまでいったら人間とは言えないか。


 僕は相手が気にしていないことに安堵しながらも、ポットへ水を注いだ。


「苦いけど、美味しい、です……」

「それは、良かったです」


 微笑みかけるその顔は、やはり、日本人特有の顔立ちではない。

 だからと言ってどこの国の顔立ちかと言われると分からない。

 ただ、綺麗な顔をしていた。

 通りすがりの女性が見たら、思わず振り返ってしまうような、そんな綺麗な美青年だった。


 年は僕と同じくらいか、二、三個上か。

 年齢とチグハグな格好も、その顔立ちで似合って見える。

 顔が良いと何でも着こなせるというのは本当のようだ。


 青年は今度は一緒に出したミルクを手に取り、カップに注ぎ始めた。そして、一口飲むと続けざまに二口、三口と口にした。

 ミルク入りがお気に入りらしい。

 そんな青年のゆったりとした時間を邪魔しないよう、僕は当初の予定であった課題に取り組もうと、静かに教科書を開いた。


(さて、秋休みの課題でも終わらせようかな)


 そう思っていた時、「カチャン」と、向かいに座る青年のカップを置く音が聞こえた。

 そしてすぐさま青年が口を開いた。


「困っていることがあって、あ、ありまして……」

「はい?」


 突如始まった会話に、僕は思わず首を傾げた。

 この場には僕と彼しかいない。

 つまり、その言葉は僕に投げかけた言葉なのだろう。


「えっと……どうしたんですか?」


 そう問いかけると、彼は顔をパアッと明るくさせた。

 話を聞いてくれる。そう思ったようだ。

 そうではなく、いきなりどうしたのかと問いかけただけだったのだが。

 そんな僕の心情もつゆ知らず、彼は一口珈琲を啜ると、話の続きをし始めた。


「えっと……、その、みんなの期待を背負うのが苦しいんだ、あ、です……」

「そ、そうですか……、それはそれは……」


 あまり会話が得意ではない僕は、返答に困りながらも咄嗟にそう相槌を打った。

 いや、僕じゃなくたって多分返答に困るだろう。

 初対面にしていきなり悩みを打ち明けられるなんて、普段の生活では滅多にない事だ。

 むしろ、一瞬にして、親身に話を聞く姿勢を見せただけでも凄いと思う。

 まあ、こんな僕に悩みを話したいということは、それだけこの青年は困っているということだろうけど。

 出会って数分の、こんな無愛想に見える僕に、悩みを打ち明けようとしているのだから。

 むしろ、知らない誰かだからこそ言いやすいのかもしれないが。


 だが、青年の言う『悩み』は、僕にはなんら理解できない次元のようにも思えた。

 他人に期待されたことなど、平凡な僕には全くもってないからだ。

 そんな僕に、話したところで悩みが晴れるとは思えない。

 そもそも僕は誰かにアドバイスできるほど大それた人間でもない。

 けれど、そんな僕の心情など、まるでお構いなしとでもいうように、彼は縋るようにこう言った。


「どうすればいいのか、相談したくて」


 ジッと、綺麗な碧眼が、懇願するように僕を見つめている。

 いつもならば、お客とこんな風に話すことは滅多にない。

 そもそも、お客が来ること自体滅多にないのだけれど。


 けれども、その時の僕は何だか、目の前の青年の話を聞きたくなったのだ。

 少しでも助けになれれば、そう思い彼の悩みというのを聞くことにしたのだった。


「僕でよければ。あっ、あと、話しやすい口調で話してもらっていいですよ?」


 それと、彼は敬語で話し慣れていないように思えたので、少しでも彼が話しやすいように、そう彼に伝えてみた。


「あ、ありがとう。助かるよ」


 ホッと安心したように微笑んだ彼。

 僕が女だったならイチコロなんじゃないかと思うほど、狡いほどに眩しい笑顔だった。

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