第2話 陶磁器の姫は御伽話の王子様に恋をする

 カオに傘を差しだしたのは、部活帰りの男子高校生だった。

 ウルフショートに整えられた髪の隙間からは、まるで子猫を見つめるような優しい瞳が覗いている。はっきりとした顔立ちが際立つ快活な笑顔は、人形とは正反対で血が通っていた。まるで、雨なんか吹き飛ばしてしまう太陽のような。

 肩にはアディダスのスポーツバッグを背負っている。わずかに開いたバッグからは、鹿島アントラーズプロサッカーチームのタオルと蓋の色が本体と違う制汗剤が見えていた。

 男子高校生は学生服が濡れるのも構わず、しゃがみこんだ。そして、横たわるカオに手を伸ばす。


「誰が捨てたんだろう?」

 カオは彼の声を聞いて、無いはずの心臓が高鳴る気がした。――だっておとぎ話に出てきた王子様とそっくりなんだもの。雨の雑音を貫く透き通った声が、カオの身体を貫いていく。

 男子高校生は泥で汚れたカオを持ち上げると、顔の高さまで持ってきてしげしげと見つめた。カオの目には彼のワイシャツから覗く鎖骨と濡羽色の瞳が映っている。カオを持ち上げる焼けた腕は鍛えられ、青く血管が通っていた。カオは初めて見る男の素肌に、恥ずかしくなって目を逸らす。そして手持ち無沙汰になった視線をスポーツバッグに向けると、ネームタグが掛けられているのが見えた。


 ――タグには手書きの太文字で秦夜はたやと書かれている。どうやらこの男の子は秦夜くんというらしい。


「それとも、落とし物?」

 秦夜はカオを抱えると、タオルで頬についた汚れを拭ってやる。傷つけないようにそっと撫でるポリエステルの感触が、カオには堪らなく心地よかった。それは、王子様がお姫様の頬に手を添えるように。カオは思わずうっとりした。

 綺麗になったカオと秦夜は数秒間見つめあう。カオにはこの時間が永遠のように思われた。一方の秦夜は少しだけ悩んだ後、意を決して大きく頷く。


「きみ、うち来る?」

 秦夜くんに誘われた。それだけで、カオが失った家族の穴が埋まるような気がした。

 離れ離れになったクロエには悪いけど。それでも人間の感情を体験して、独りぼっちの痛みを覚えたカオにとって、誰かのものになれるのは幸福であった。そう、それはいなくなった主人を新しくするのと同じ。

 今日から私は秦夜くんのものになるのだ。カオは心の中で何度も何度も頷く。

 カオは秦夜の腕の中で夢見心地だった。そしてそのまま、カオは秦夜の家へと持ち帰られた。


 カオが秦夜家にお持ち帰りされて、秦夜が玄関で靴を脱いでた時だった。

「秦夜、お帰りなさい……って、何それ」

 二階から降りてきた姉に見つかった秦夜は、嫌な顔を悟られないように、彼女に背を向けて話す。

「ん、可哀そうだったから連れてきた」

「子猫拾う感覚で人形持ってくるやつがいるかね、まあ、今回は生き物じゃないから心配ないけどさ」

 秦夜の姉は、弟がまた変なものを拾って来たのかと呆れている。彼は幼稚園の頃から外に出るたびに、どんぐりや松ぼっくり、どこから拾った九谷焼の徳利、生き物でいえば翼の折れた燕やタヌキなんかを家に持って来ては姉が一緒に返しに行った。

 そんな姉も、十歳も歳の離れた弟が可愛くて、悪態をつきながらも律儀に彼の尻拭いをしてあげている。


「姉ちゃん、雑誌ちょっと借りてもいい?」

 秦夜は姉に、プレゼント用のコスメを探していると悟られないよう、それとなく聞いてみた。

 秦夜の姉は二十代後半にしては珍しく、美容雑誌を愛読している。かつて出版社で働いていた経緯もあり、スマホよりも手触りのある紙のレイアウトが好きだった。

 姉は秦夜が急に美容に興味を持ったのを不思議がったが、すぐに察した。

「なになに~、秦夜に彼女か~?」

「ち、違ぇーし! この人形を可愛くしてやんだよ!」

 秦夜の口答えも、姉にとっては可愛い言い訳でしかない。

 元ティーンエイジ担当編集の姉にかかれば、未来の妹候補のプレゼントをプロデュースすることなど造作もなかった。

「はいはい。ちなみに高校生に合いそうな大人向けコスメはこの辺で……」

 さっそく、姉は家用の眼鏡をかけ、吟味を始める。

 彼女は雑誌をパラパラとめくり、おすすめのコスメに付箋を貼っていった。

「違うって言ってんだろ!」

 秦夜はカオを小脇に挟み、顔を赤くして姉から雑誌を引ったくる。そして、階段を上って行った。

「なによ、秦夜~。どうせクリスマスのプレゼント――」

「違うからな!」

 階段下から厭に優しい顔で覗いてくる姉に、秦夜は、そう念押しした。


 秦夜の部屋は、整理されていて消臭剤のミントの香りがした。

 壁にはサッカーボールが掛けられ、

「今日からここが、お前の指定席な」

 秦夜はそう言って勉強机の隣の棚にカオを置くと、ベッドに横になった。そうしてスマホをいじりながら一時間ほどごろごろしていると、眠たくなったのかそのままうつ伏せで動かなくなった。


 *


 夜になった。

 月光が差し込んでくる。月明かりに照らされる秦夜の横顔を見ていると、カオは堪らなく愛おしくなるのだった。彼女は思わず、秦夜の寝顔に手を伸ばす。陶磁の身体は、軋むことなく真っすぐ秦夜の元へと向かった。

 カオはまた、人間の身体を手に入れた。

 一歩一歩、カオは秦夜のベッドに近づいていく。


 その時だった。月光に導かれるように姿見鏡を覗き込んだカオは愕然とした。

 日焼けして色が落ちた時代遅れのドレス。自慢だった金髪も、ところどころ抜けてボサボサに絡まっている。彼女の脳裏に、街で見た女優の姿がフラッシュバックする。今私は、自分の理想とはかけ離れた姿で秦夜くんに近づこうとしている……。

 カオの心に、初めて羞恥が芽生えた。

 カオは思わず後ずさる。そして、机の上に広げられた雑誌が目に映った。雑誌には、さっき見たSHISEIDOの女優が載っていた。 

「まあ大変。このままじゃ、秦夜君に嫌われちゃうわ!」

 そう思った瞬間、カオは決めた。

 街に行けば、手に入る――“可愛い”になれるはずだと。


 しかし、この姿では誰かに出会ったら驚かれるかもしれない。

 何か私でも着れそうな服は無いか。カオは祈るような気持ちでクローゼットを開けてみた。しかし、やはり中には男物の服しかない。しかも、扉の裏には水着で巨乳の女の子が、笑顔で投げキッスをしていた。秦夜が大好きなアイドルグループのポスターだった。

 カオは、思わず胸に手をあてて考えてみる。どうやってもあの膨らみには勝てそうもない……。眉間にしわを作り、色々考えた結果、カオは一つの結論に至った。

「そうだわ。私は、また別のところで頑張れるはずだわ」

 カオは、そう思うことにした。


 *


 家を抜け出したカオは、街のショーウインドウを駆け抜ける。そうして気に入った服を見つけると、立ち止まってまじまじ見てみる。冬服でコーディネートされたマネキンを自分に重ね合わせて、素敵だと思ったり、自分にはちょっと似合わないかもと思ったり。それが、カオにとっては純粋に楽しいことだった。

 車が通らない交差点をランウェイに雑誌のモデルと同じポーズを取ってみたり。電子広告の光を吸い込んでみたり。自分の姿を万華鏡のように反射する霧雨の中を両手を広げて踊ってみたり。

 世界に蔓延はびこる“可愛い”をなぞるたびに、カオの顔と服は可愛くなっていった。――実際には、人形の魂の色を辿り、ゴミ捨て場を巡って使えそうなパーツを集めたのだが。

 ショーウインドウに映る自分の姿を見て、カオは胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。よし、これならいける。


 *


 次の日の朝、寝ぼけ眼でこちらを見た秦夜が呟いた。

「あれ、なんか可愛くなってる?」

 秦夜の言葉に、カオは内心ガッツポーズする。

「姉ちゃんがいじったかな……」

 秦夜がカオを不思議そうに覗きこむ。秦夜の吐息の温かさが、二人の距離を少しだけ縮めたとカオに思わせた。

 この日から毎日、カオの自分磨きが始まった。

 一日目は、髪を電子公告のアイドルと同じ黒髪にしてみた。

 二日目は、目元に雑誌の女優と同じマスカラを塗ってみた。

 三日目は、ショーウインドウに飾られているマネキンと同じ服を着てみた。


 持っているパーツはどれも完璧だった。

 雑誌にあった“可愛い”を、彼女はすべて真似して集めたつもりだった。

 ただ一つ。

 声帯だけは見つからなかった。

 だから言葉は喉を通らない。

 夜になると、毎日秦夜の寝顔を見つめることだけが彼女にとっての癒しであり悩みだった。


 ――このまま、人間の姿で秦夜くんの目の前に現れたら……。


 カオは首を振る。

「きっと、怖がられちゃうわ。だって私……」


 ――人形ですもの。


 声が出ないのではない。出せない。

 伝えたい言葉があるのに、どんなに口を開いても風の音しかしない。

 カオは、寝ている秦夜の顔を覗き込んでみる。このまま自分の気持ちを伝えてしまったら、悲しくなって身体が砕けてしまうんじゃないかと怖かった。カオは、また一人ぼっちになるのが怖かった。折角手に入れた家族を失うことは、今の彼女にとってすべてを失うことだった。

 だから、どうか今だけは。カオは祈るような気持ちでいた。そうして目を覚まさずにいる秦夜に、カオは唇を近づける。

 初めてのキスは涙の味がした。


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