【短編】K.a.o.T.i.k

鷹仁(たかひとし)

第1話 ゴミ捨て場のビスク・ドール

 霧雨の降るハロウィンの夜だった。路肩のゴミ捨て場に、着せ替え人形ビスク・ドールくまのぬいぐるみテディベアが並んでいる。


「ようやくお屋敷の外に出られたんだから、思いっきり冒険したいわ」

 着せ替え人形のカオは、人に聞こえない声でそう言った。自慢の金髪は顔に貼り付き、身体に雨が当たってタン、タタン、タン。と、リズムを刻む。まるで、心臓の代わりに鳴る陶磁器の鼓動に、カオは気づいていない。


「そうはいっても、アタシたちはおもちゃだから動けないけどね」

 くまのクロミは、濡れた頭を垂れたままぐったりしている。茶色い毛並みは雨で更に濃くなっていた。黒いビーズで出来た彼女の眼は、街頭の灯りを仄かに反射して、老婆のように優しく微笑んでいるように見える。


「うう……この身体が恨めしい……」

 五十年前に作られたカオの身体は、ひとたび風に撫でられると節々から軋む音がした。

 そもそも、観賞用として作られたビスク・ドールは、子どもが動かして遊ぶための球体関節人形と違って可動域も狭い。


「でもきっと……」

 それでも、カオはどこかで奇跡が起こる事を望んでいる。うんと長い間、自分たちを大切にしてくれた少女が読む御伽話のおもちゃたちは、その身をもって勇敢に自分たちの未来を切り開いていった。


「もし、人間になれたら、素敵なものをたくさん見れるのでしょうね」

 クロエがカオの夢の続きを口にする。

「見れるわよ。だって世界は素敵なもので溢れてるもの。だから、クロエにもたくさんお話ししてあげるわ」


 *


 二人の主人だった少女は身寄りのない子だった。

 老衰で亡くなるまで、親の遺したお屋敷と僅かな財産を食いつなぐように静かに生きていた。

 一人で暮らすには広すぎる部屋に、寂しさを紛らわせるための人形とぬいぐるみをぎっしり並べて。

 やがて少女は、子どものころから変わらなかった寝室で、静かに息を引き取った。


 *


 翌朝、使用人が彼女の亡骸を見つけ、小さな葬式が行われた。遺書に従い財産は寄付され、家具は使用人たちへ。

 余った人形やぬいぐるみは「処分」と書かれた市指定のポリ袋にまとめられ、ゴミとして回収を待っている。

 そして、他の子たちよりも一回り大きいカオとクロエは野ざらしだった。


 カオとクロエは、自分たちも他のおもちゃたちのように廃棄物ゴミとして生涯を終えるものだと諦めかけていた。

「きゃっ!」

 大きな雷が鳴って、雨がことさら強くなった。カオは、驚いて目を閉じようとした。

 彼女のまぶたは、閉じられた。


「クロエ! 何が起きたの?」

 カオは、自分の視界が暗くなったことと、心に初めて暗い感情がともったことに驚いた。そして、カオは今まで母のように慕っていたクロエを探した。すると、彼女の手は、ぬいぐるみのしっとりとした毛皮に触れる。

 カオは悟ってしまった。クロエの身体を撫でる指先に、かつて聞いた魂の色が、もうどこにも残っていないことを。


「クロエ?」

 クロエは何も言わなかった。

 カオの手が、クロエの身体をなぞる。

 カオはクロエを抱き上げ、自分の耳をクロエの口元に近づけた。

 やはり反応はなかった。お屋敷で隣同士、クロエの方が少しだけお姉さんで、主人の物語を聞きながら沢山おしゃべりしたクロエの声が聞こえない。

 泣きたい気持ちでカオは立ち上がってみる。電信柱を杖代わりに錆びた関節を伸ばし切ると、初めてクロエのつむじが見えた。

「これは神様の悪戯かしら!」

 カオは、自分の金髪を引っ張る。突っ張るような痛みがあった。自分の手を頬から首、胸へと添わせてみた。

 柔らかい。かつて、冷たい陶磁器だったカオの身体は、体温をもつ肉感を伴っていた。


「クロエ、私、人間になっちゃったのよ?」

 人間の身体だと気づいた瞬間、嬉しさより先に、得体の知れない罪悪感がカオの胸を満たした。

 クロエは、黒い二つのビーズでカオの目を見つめている。怖い物語を聞いた夜に、安らかに眠れるようにと優しく宥めてくれたクロエの話を、カオはもう聴くことができない。


「そうね。分かってるわ、クロエ!」

 それでもカオは信じた。クロエは自分の冒険を喜んでくれるはずだと。

「クロエ、私、行くね? 必ず、世界が素敵だってお話、してあげるから!」

 カオは、クロエを置いてなく走った。どこに行くでもない。彼女の思った方へ。雨の中を走り続けると、人の声がした。そうして街灯の灯りを辿っていくと、カオはいつの間にか街へ出ていた。


 *


 街は眩しく、雨粒すら光って見えた。

 ――ほらやっぱり、世界は素敵なのかもしれないわ。

 カオは、理由のわからない期待に胸を満たしながら、灯りの方へ駆けていった。


 街は、お化けや魔女の仮装をした人で賑わっていた。普段であれば周りから浮いてしまうであろうカオの時代遅れのフリルドレスでさえ、ハロウィンの狂気の中においては群衆を構成するワンポイントのワインレッドでしかない。しかも、ところどころ虫食いのできた生地は、より一層、仮初の非日常に溶けるのに都合が良かった。

 時々ぶつかりながら、大音量の音楽に怯えながら、光の強さに目を傷めながら。それでも、カオは少しずつ街の刺激に慣れていった。

 

 水たまりと人混みを避けながら、カオは街を跳ねるように駆ける。足取りは軽く、心は開けていた。右を見ても、左を見ても、お屋敷にいる時には物語の中でしか知らなかった煌びやかさがある。雨が光を反射してシャンパンイエローに輝いた。光の根本を探すと、腹に響くような重低音と、明滅する映像にカオの視線は釘付けになった。


 デジタルサイネージに映し出された女優が、マキアージュのリップグロウボムを掲げてカオに微笑みを向ける。通り過ぎる人にとっては風景の一つにしか過ぎない広告ですら、カオには超大作の映画に見えていた。


「SHISEIDOさま……」

 広告の脇に表示された会社のロゴを女優の名前と勘違いしながら、その美しさに、カオは思わず息をのむ。液晶の奥でキラキラと光る姿は、まるで物語に出てくるお姫様のようだった。

「ねえ、クロエ……私、初めてよ。こんなにも胸がドキドキしてどうしようもないの!」

 カオは早く伝えたかった。

 クロエに、そして、これから出会う“誰か”に。思わずカオは隣を見る。いつもの癖で。しかしそこには神経質な通行人がカオを押しのけるように通り抜けていくだけだった。


 そうだ、今の自分には何十年と隣に座っていたクロエがいないのだ。

 祭りの中心部にまで来てしまったカオは、そのことを思い出して少しだけ怖くなった。心細くなったのだ。これは、人間になって初めて感じる孤独だった。早く、クロエの元に戻らなければ、彼女に今見たすべての物語を伝えなければとカオは思った。そうしなければ、カオはこの孤独に押しつぶされてしまう。カオは振り返り、元来た道を歩いた。


 しかしその瞬間、一筋の稲光が、ビルの谷間を引き裂く――。


 カオの足の関節が“コキッ”と折れた。

 膝が人間の形から陶磁器へと戻り、背丈が縮み、関節が角ばった球体に変わっていく。仮装した人々が、どんどんと巨人になっていく。

 泥まみれのコンクリートに叩きつけられ、身体のどこかが欠ける音がした。

 それでも、帰らなければと思った。舌打ちが聞こえる。喧騒に酔う群衆はカオがこけたことを歯牙にもかけない。それが救いのカオは、這うようにしてクロエの元に急いだ。


 *


 街に背を向け、カオの目に映る光と彼女の服を少しずつ汚しながら、カオはクロエの手触りを求めて必死にもがいた。そして、ようやくカオたちが置かれていたゴミ捨て場が見えてきた。

 ここまでくれば。カオは、掠れた喉で深呼吸のフリをする。


「キャッ」

 しかし、安堵したカオの真横を、一台のトラックが泥水を弾き飛ばしながら通り過ぎた。カオの視線の先、クロエが置かれているゴミ捨て場でトラックが止まる。カオが不思議そうに見つめると、トラックからは、一人の男が降りて来た。それはゴミ処理業者の作業員だった。彼はゴミの袋を次々とトラックに投げ入れていき、最後に雨で土塊つちくれと見紛う姿になったクロエに手を伸ばす。


「クロエ、クロエをどうするの」

 作業員はクロエの耳を掴んで無造作に荷台へ放り投げ、車は走り去る。呆気に取られたカオは、次第に今目の前で何が起きたのか理解してしまう。

「クロエが、クロエが連れ去られてしまったのよ」

 雨が、カオの身体に冷たく叩きつける。カオの身体はすでに冷え切っていて、陶磁器の身体に戻っていた。カオはそのまま、地面に項垂うなだれて動けなくなった。屋敷の外に出たことがなかった人形が初めて理解した絶望だった。


 誰かがやって来た。人の足音が近づいてくる。

 道路の真ん中に寝そべる人形なんて、きっと蹴られてしまう……。

 見上げた視界は歪んで、ひどくブサイクに見えた。カオは最期に見た煌びやかな街並みを思い出しながら目を瞑ると、雨を遮るように彼女に傘が差し出された。


「ああ、綺麗な女の子だ」

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