第31話 頂上
「シュリン、シュリン」
強風が去ると、雲が吹き飛ばされ透き通った空にうっすらと朝陽が射してきた。
マイヤの声に凍り付いた長い睫毛がしばたたき、うっすらと開いた瞼から透き通った緑の瞳が現われた。すうっ、と一筋の熱い涙がシュリンの頬を流れ落ちる。
「助かるぞ、俺たち助かるぞっ」
ガチガチに凍った髪を朝陽に光らせながらミホスが叫んだ。太陽に照らされて、吹き飛ばされたと思っていた荷物がすぐ先にあることがわかり、ライカが取りに行く。
「まずお前が食べろ。そして炎を吐くんだ」
袋に残っていた薄い焼き菓子をライカから押しつけられたミホスは、凍ってガチガチの菓子を夢中でかみ砕く。
「ようし、力がわいてきたあ」
獅子の口から炎が走った。いつもよりはかなり火勢が弱いが、谷底で破れて荷物の底に入れていたヘリットの服に火が付いた。すかさず彼らは燃えそうなものを投入していった。
燃え始めた焚き火で熱い湯を沸かし、皆で残りの食べ物を分かち合う。
朦朧としてたシュリンも、温かい飲み物と食べ物で立ち上がることができるようになっていた。
「みなさん、み、見てくださいっ」
食べ物目当てで皆が担いできた袋を探し回っていた獏男が、転がるように斜面を駆け下りてきた。
「大声を出すな、雪崩がおこ――」
ライカの言葉が止まる。獏男の指さしたその先。雲一つ無い澄み渡った青空を背景にして、それはあった。
「あれが、ビアン・モーンの頂上……」
マイヤがつぶやく。
それは、手を伸ばせば届くような近さに見えた。切り立った岩肌の中にそそり立つ、先っちょがナイフで横に切り取ったように平坦になった、北の山脈の最高峰。
朝陽が上がってきて、岩肌を燃えるような赤色に染めた。全員その荘厳な風景にしばし言葉を失う。
だが、額に手を当ててしばらく見ていた獏男が首をかしげた。
「頂上に館らしきものはありませんねえ」
「影になっているのかもしれません。頂まで行ってみないと、本当に無いかどうかは行ってみなければわかりません」
マイヤはかき集めた装備をまとめて、シュリンを除けた5人に割り振っている。
「きっとあそこに到達することができる賢者しか、聖なる記憶の貯蔵庫はその扉を開けないのよ」
シュリンはもう一杯湯を飲み、身体を温めるように動かし始めた。最初はちょっとしたことでよろめいていたが、さすが鍛え方が違う、徐々にバランスが戻ってきている。
「王都を救うにはあそこで獏神の秘密を調べるしかない。もしかすると魔族の弱点についてもわかるかもしれない。今日は天気もいい、こんな機会を逃しては絶対に後悔する。なんとしてでも、頂上に達するんだ」
鼻息荒くミホスが荷物を担ぎ上げた。
「俺がまた先頭に行く。ここからはかなり急峻だ。ロープや、ペグを使って岩登りをしないといけないだろうな」
危険だとはわかっているが、恐怖を抑えつけられるほど頂上は眼前に見えた。
「さあ、行くわよ」
シュリンが大きく背伸びをして、ミホスに渡された杖を持った。しかし、彼女の手がしばしば頭に当てられるのをヘリットは見ていた。それはシュリンだけではなくマイヤも同じで、頭に手をやって青い顔をしかめている。
「いや……」
ヘリットは首を振る。
「引き返そう」
皆の視線がヘリットに集中する。獏男でさえ、何を言い出すのだとばかりキョトンと依り代を眺めている。
「シュリン、マイヤ、頭が痛いんだろう。もう、僕たちは体力の限界だ。装備もかなり吹き飛ばされてしまった。頂上は近く見えても、そのまわりの岩は切り立っていて、多分僕たちが今持っている装備や技術では登攀できない。みんな本当はわかっているんだろう」
「何を言い出すんだ、お前」
ミホスが震え声でヘリットに近づいてくる。
「あそこだ、あそこに見えてるんだぞ。俺たちの最後の希望が」
「死んでしまっては意味が無い」
ヘリットは一歩も動かないとばかり足を踏みしめる。
「状況の良いうちに降りよう。ここまでの道の事もわかった、次はもっと楽に来れるはずだ。頂上に向かう道筋も目に焼き付けておけば、下でゆっくり登る計画が立てられる。今回の登山は意味が無かったわけではない。だから、次回にしよう。山は焦ってはいけない、って宿の親父さんも言っていたじゃないか」
「今ですらこの寒さだ。次はいつ来れるかわかったもんじゃない。この意気地無しめ。やっぱりお前はヘロヘロ――」
胸ぐらを掴んでヘリットを持ち上げるミホス。中に浮いたヘリットの足がもがいてバタバタと揺れる。
「待って。ヘリットを下ろしてあげて」
シュリンはミホスの背にそっと手を当てる。ミホスは渋々ヘリットを解放し、苦しげに咳き込む彼をにらみつけた。シュリンはそんなミホスの目をじっと見て口を開く。
「あなただって、うすうすは思っていたんでしょう。無謀な賭けだって。私も自分をだまして登ろうとしていたわ、ヘリットの言葉を聞くまではね」
「うるさい、縄で縛ってもこいつを頂上に引っ張り上げ――」
ミホスの言葉が止まる。気がつけば、みなヘリットの側に立っていた。
「お前ら、王都が、王都がどうなってもいいのか、みんな家族が、王国が大切じゃないのか」
「大切だからこそ、自分たちの命を大切にするんです。王都を救えるのは私たちだけですから。生きていれば王都を守る別の手段を考えつくかもしれませんが、死んでしまっては何もできません」
マイヤはミホスを見ながらゆっくりと首を横に振った。
「私も頂上に行きたい。でも、ヘリットの言葉で目が覚めました。ここは降りた方がいい」
皆の言葉を聞いて、ミホスはがくりと膝を突く。したたる熱い涙が雪の上に丸い穴をあけた。
先頭のミホスが斜面を下り始めた。皆、無言で付いていく。彼らの頭の中にはまずは宿に生きて戻ることしかなかった。
登るのは体力を使うが、降りる方が足への負担が大きい。みな険しい顔で一歩一歩確認しながらそろそろと降りていく。
最後尾のライカは晴れ渡った青い空と純白の雪を見渡す。くっきりと境された鮮やかな二色の世界、美しい風景に刺激されて、頭の中にはビンビンと音が湧き上がってくる。雪崩の心配さえなければ、大声で歌っている所なのだが……。
ため息をついたライカは、目前の風景がなにかキラキラ光りながらぼんやりと揺れるのを見て眉をひそめた。思わず彼は歩みを止める。
「あ、おい、見ろっ」
ライカの声に足元ばかり見ていた皆が顔を上げる。
彼らの目の前には金色に煌めく門らしき影が現われていた。門は次第にはっきりとその輪郭を現わしていく。ついにその壮大な姿を現わした後に、扉がゆっくりと左右に分かれて開き始めた。
「もしかして……」
マイヤがつぶやく。
門の上に現われたアーチ状の飾りには、古語で『葬られた記憶の館』と彫りつけてあった。信じられないとばかりにマイヤは首を振る。
「その門は、賢者のみにその扉を開ける――登頂の誘惑に理性で打ち勝ったヘリットの選択が葬られた記憶の館を呼んだのか」
開いた扉の前で目を丸くしたミホスがゆっくりと皆を振り返る。
信じられないとばかりに言葉を失って立ちすくんでいた皆だが、突然堰を切ったかのように喜びが押し寄せてきた。
「うおおおおおっ、俺たち、見つけたぞ。見つけたぞ」
「やった、やったわよっ」
ミホスに抱き着いて跳ねるシュリン。目を丸くして固まるミホスに構わず、シュリンはこぶしを突き上げて叫んだ。
「やったわーーっ」
「やりましたね、やりましたね、シュリンちゃん」
シュリンの横で獏男が小躍りしている。
「マイヤ、ありがとう。君のおかげで生きてこの館を見ることができた」
マイヤに駆け寄るヘリットだが、マイヤはヘリットには目もくれず血相を変えてライカに飛びついた。
「グオオオオオッツ、ダダダダダーーむぐっ」
「やめてくださいライカ。やっとここまでたどり着いたのに、雄叫びで雪崩を起こす気ですか」
マイヤに口をふさがれて目を白黒するライカを見て、皆の笑い声が青い空に高らかに響いた。
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