2話 秘書ミリア
伯爵が「後継選抜試験」を宣言して明けた、翌朝。
フロート伯爵家は、早朝から慌ただしい気配に満ちていた。玄関では家臣が書類を抱えて走り、厨房では当日の昼食会の準備が始まり、兵士たちの鎧が点検される音が廊下に響く。
その喧騒の中心を、秘書ミリアは静かに、しかし確かな足取りで歩いていた。抱える書類束は辞書ほどの厚みがあるが、その歩みに乱れはない。ただ、胸の奥には鋭く張り詰めた緊張があった。
(明後日の一次試験は「経営判断」。両候補の自力が、残酷なまでにはっきりと出る場です。……手順に乱れが出ぬよう、慎重に進めなくては)
ミリアの表情はいつも通り、湖面のように穏やかだ。外側からその内心を読み取れる者は、この屋敷には一人もいない。
と――
「ミリア、あの……ちょっといいかな」
背後から、ひどく控えめな、それでいて緊張感のない声がかかった。振り返れば、そこには寝癖を強引に手で押さえながら、力なく笑うルーメルの姿があった。
「試験って、具体的には……一体、何をするのかな?」
「……そこからですか?」
ミリアは一瞬だけまばたきをした。その沈黙は、有能な秘書が抱いた一瞬の絶望だったが、彼女はすぐに営業用の完璧な微笑を貼り付ける。
「あはは……だよね。自分でも分かってるんだ。正直さ、兄上の方がずっと立派だし、僕が無理をするより、最初から兄上が継ぐのが一番丸く収まる気がするんだ。……ミリアも、本当は僕に付き合うのは大変でしょ?」
自嘲気味に笑うルーメルの言葉を、ミリアは静かに、しかし遮るように制した。彼女は一歩踏み込み、ルーメルの乱れた襟元を、母親が子供に言い聞かせるような慈しみを持って整え直す。
「ルーメル様。……貴方はご自身を過小評価しすぎです。確かにレオン様は眩い光を放つ方ですが、その光が強すぎて、足元の小さな影を見落としてしまうこともある。
その影に光を届けられるのは、きっと人の痛みがわかる貴方しかおられません」
整えられた襟元を軽く叩き、ミリアはルーメルの目を見つめて、柔らかく微笑んだ。
「貴方がお一人で歩むのが不安だと言うのなら、私がその杖となり、灯火となりましょう。……私という秘書が付いていながら、負けることなど許されませんよ?」
「ミリア…………うん、そうだね。君がそこまで言ってくれるなら」
「ええ。その意気です。では、さっそく始めましょうか。一次試験は経営判断です。領地の収支、人口の推移、施策の選択……そうした基礎資料を踏まえた問題が中心となります。こちらをご確認ください」
ミリアが「重し」のように差し出した分厚い資料に、ルーメルは言葉を失った。
「……これ、明後日までに? 嘘だよね?」
「大枠だけで結構です。重要部分を抜粋し、読みやすく加工した資料も別途ご用意いたします」
「助かる……えっと……うん、がんばるよ」
「ええ。ご一緒に整理いたしましょう。死なない程度に、ですが」
ミリアは軽く頭を下げ、そのまま資料の山を抱えて歩き出す。背後から、ルーメルが弱々しく「ひぇぇ」とため息をつく気配がしたが、彼女は決して振り返らなかった。甘やかすのは、準備が整ってからでいい。
◆
朝の空気が澄んだ中庭では、長兄レオンが木製の訓練人形を相手に、鋭い木剣を振るっていた。
凄まじい風切り音と共に、木人形の首が跳ね飛ぶ。庭の手入れ中だった侍女たちは、その迫力に自然と足を止め、感嘆と畏怖の混じった視線を送っていた。
廊下からその光景を見ていた筆頭執事のグラハムが、レオンの方へと歩み寄る。
「レオン様。……また破壊されましたか。人形も安くはございませんよ」
「人形のほうが弱いだけだ。……気に障ったなら詫びよう」
レオンは平静を装っているが、剣を握る指先にはかすかな力みが残っている。それを老練なグラハムが見逃すはずもなかった。
「一次試験は剣技ではございません。領地経営の基本が問われます」
「分かっている。……いらん世話だ」
レオンの背中に滲む、実直すぎるがゆえの焦燥。それを遠くの廊下から見守っていたミリアの瞳が、わずかに細められた。
(……レオン様は、あまりにお強い。ですが、どうしてこうも無理を重ねられるのか)
その不器用な誠実さに、ミリアの胸がかすかに痛む。だが、彼女は瞬時にその感情を殺し、秘書としての冷徹な計算を優先させた。
(とはいえ――この過剰な緊張は、査定官の目にも「余裕のなさ」として映るでしょう。……準備は、整いつつありますね)
◆
再びルーメルの部屋に戻ると、彼は案の定、机いっぱいに書類を広げたまま石像のように固まっていた。
「……ミリア。すでに心が三分割くらいに折れそうなんだけど」
「まずは収支の基礎からまいりましょう。私が引いた赤い線の箇所だけを読み解けば、負担は八割削減されます」
「そうなるといいんだけど……」
「なります。そうなるよう、私が昨晩のうちに数値を整理しておきましたから」
ミリアは椅子の横に立ち、流れるような手つきで書類を優先順位ごとに並べ替える。そのあまりの手際の良さに、ルーメルもようやく毒気を抜かれたように、椅子に座り直した。
「そういえば……王都の査定官って怖いのかな? 噂だと、すごく硬い人らしいけど」
「ええ。昨夜、挨拶に伺いましたが……『目の動きだけが笑っていないタイプ』の方でした」
「こわいよ!? 完全に僕、食べられちゃうよ!?」
「ですが、ご安心を。彼がレオン様をご覧になっていた時、評価を記すペンの運びが明らかに速まっていました。……あれは『型通りすぎて面白みがない』と感じている証拠。こちらに不利とは限りません」
「兄上をそんな風に……査定官って、本当に見てるんだね」
「ええ。いずれにせよルーメル様の評価は、これからの努力次第です」
ミリアはそう静かに告げ、次の書類を広げる。
「続いて、『魔獣討伐予算の推移』の資料を。ここは重要です。この数字の不自然な増え方に、気づけますか?」
「がんばる……まずは、数字と仲良くなるところからだね……」
◆
その日の深夜。
机に突っ伏して、開いた参考書を枕に眠るルーメルの姿を見つけ、ミリアは静かに息をついた。
「……今日はここまでのようですね。お疲れ様でした、ルーメル様」
彼女はそっと毛布をかける。その仕草に、秘書としての職務以上の感情は混ぜない。
……そのはずだった。
しかし、月明かりに照らされたルーメルの無防備な寝顔を見つめる時、彼女の胸の奥にはひとつだけ、揺るぎない確信が灯る。
(向き不向きで言えば、レオン様の方が領主らしいでしょう。……ですが、肝心な場面で、泥を被ってでも誰かを守り抜ける強さは、ルーメル様の方が勝っている)
言語化するにはまだ早い。だが、彼女はこの直感にすべてを賭けていた。家中はレオンを本命視し、王都の査定官もその実力に目を光らせている。だが。
(――勝機は必ずある。 評価されにくい資質を、正しく評価される場に引き上げる。そのための舞台を整えるのが、私の役目です)
ミリアは一度だけ眠るルーメルを振り返り、ほんの一瞬だけ、秘書としては不要な感情が揺らいだ。
秘書は音もなく扉を閉じ、深夜の廊下へと消えていった。
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