第1章1話 伯爵の引退宣言

 朝の光はよく磨かれた大理石に反射し、広間に静かな白さを落としていた。


 いつもより明るいはずの空間なのに、どこかそわついた気配が漂っている。ざわめく声があちこちで小さく弾み、それが高い天井に跳ね返っては、重苦しく沈んでいった。


 フロート伯爵家の家臣たちが集まるのは珍しくない。だが、今日は呼び出しの意図が一切告げられていなかった。

「代替わりの話なのか?」

​「いや、まだ早いはずだ。伯爵様はまだお元気だぞ」

​「じゃあ……何の席だ? まさか、隣領との関係が悪化したとか……」

 そんな家臣たちの動揺を、ミリアは表情ひとつ変えずに真正面から受け止めていた。


 フロート伯爵家秘書、ミリア。十九歳。


 真っ直ぐな金髪ショートを整え、光を反射して凛とした輪郭を形づくる。落ち着いた藍の瞳は、場を見渡し、不測の事態に備えて冷徹なまでに澄んでいた。

 彼女が着ているのは、執事の礼装に似ているが、少し違う。燕尾の飾りを省いたからこそ、そのしなやかな身のこなしを優雅に引き立てていた。まさに「有能な秘書」を絵に描いたような佇まいである。


 だが――その裏側では、必死の祈りが捧げられていた。

(……どうか、本日だけは、ルーメル様が余計なことを口にしませんように)

 それは忠誠心ゆえか、あるいはもっと個人的な願いか。彼女は秘書としての仮面を保ったまま、斜め前に立つ主の背中を見つめた。

 最前列にはフロート家の兄弟が並び立っていた。その姿は、あまりにも対照的だ。


 長兄レオン、二十一歳。焦げ茶色の髪を厳格に整え、その立ち姿には一分の隙もない。規律を重んじる武人としての威厳を放ち、鋼のような眼差しはこの場の緊張を一身に背負っているかのようだった。


 対して次男ルーメル、十八歳。柔らかな明るい栗色の髪を肩に流し、どこか夢見がちな青の瞳を細めている。危機感という言葉が彼の辞書には存在しないのか、この重苦しい空気の中でも、彼は窓の外を飛ぶ鳥でも眺めるような気楽さで立っていた。

「兄上、なんか今日は人が多いね。お祭りでもあるのかな?」

「……」

 レオンは弟の呑気な問いかけを黙殺した。集中しているときの、いつもの無言だ。

 ミリアは音もなくルーメルに歩み寄り、その耳元で極めて低く囁いた。

「ルーメル様。本日は、特にお気をつけくださいませ。不用意な発言は万死に値します」

「え? ミリア、今日は僕たちが頑張ったから褒められる式じゃないの?」

(……その果てしなくポジティブな発想が、すでに最大の不安要素です)

 ミリアはわずかに瞳を伏せるが、唇の端ひとつ動かさない。


 彼女がルーメルを応援している理由は、彼が時折見せる「優しさ」にあるのだが、現状ではその優しさは単なる「天然」に上書きされてしまっていた。


​◆

 やがて、奥の席に座っていた伯爵が静かに立ち上がった。そのわずかな動作だけで広間のざわめきが氷結し、空気が一気に引き締まる。


 アドラント・フロート。

 灰金の髪に刻まれた歳月の色は重く、背筋の伸びた佇まいには、現役の領主としての圧倒的な威厳が宿っている。

「本年をもって、わしは領主を引退する」

 短い言葉が落とされた瞬間、広間の空気が爆発したように揺れた。家臣たちが顔を見合わせ、悲鳴に近い声を上げる。

「伯爵様が引退……!?」

​「そんな、まだお早い! 次期領主は、やはりレオン様が……?」

 レオン自身も、わずかに眉を動かした。それは、厳格な彼が見せる精一杯の驚愕だった。


 そして隣のルーメルはといえば。

「へぇ……。父上、お疲れ様でした。これからはお昼寝し放題だね」

 と、近所の老人が隠居したのを聞いた程度の、のどかな相づちを打った。

(……ルーメル様。今は、せめて、最低限でもいいので緊張のフリをしてください……!)

 ミリアは心の中で天を仰いだ。

 伯爵は周囲の混乱を一瞥し、重厚な声を響かせた。

「後継は、三日後より始める『選抜試験』にて決める」

「選抜試験……!? 父上、それは……!」

 レオンの声が震える。順当にいけば長男である自分が継ぐはずだと、彼も、そして周囲も疑っていなかったのだ。

「試験は三つ。経営判断、人心掌握、そして魔獣対応。審査には私のほか――グラハム」

 伯爵の呼びかけに応じ、一人の老紳士が静かに進み出た。


 白髪を後ろで美しく結んだ筆頭執事、グラハム。その穏やかで慈愛に満ちた目元が、一瞬だけミリアを捉えた。だが彼はすぐに、涼やかな声で告げる。

「はい。私と、それから王都よりお招きした査定官が厳正に審査を務めさせていただきます」

「査定官だと……! では、本当に正式な手続きを踏むというのか」

 ざわつきはさらに大きくなる。レオンがたまらず伯爵に向き直った。

「父上、査定官殿はいつ到着されるのですか? 接待の準備も――」

「すでに来ている。別の部屋で休んでおられる」

「……聞いておりません!」

「言っておらんからな」

(……お願いですので、そういう重要事項は事前に共有を……!)

 ミリアは内心で深いため息をついた。この伯爵にしてこの息子あり。フロート家の男たちの勝手気ままさには、有能な彼女であっても胃が痛む。


 そして、いまだに状況を「自分事」として捉えきれていない人物が一人。

「えっと、ミリア。これって……もしかして、僕も出る試験なの?」

「もちろんでございます。不参加は即、廃嫡の対象かと」

「……へぇ? 大変そうだねぇ」

 ルーメルの間の抜けた返答。だが、周囲の家臣たちはそれを別の意味に捉えたらしい。

「次男様……この衝撃的な状況で、顔色ひとつ変えないとは……!」

​「なんという胆力だ。レオン様でさえ動揺しておられるというのに……!」

​「さすがフロート家の血を引くお方。底が知れん……!」

(いいえ。ただ、理解が現状に追いついていないだけです。どうか買い被らないでください。あとで私の首が絞まります)

 ミリアは、喉元まで出かかった叫びを飲み込んだ。


 周囲の視線は、自然とレオンへ戻っていく。

「とはいえ、やはりレオン様が順当だろう」

​「私兵団長としての実績もある。実務ではレオン様が圧倒的だ」

 レオンは静かに、しかし強く拳を握りしめた。

「……必ず、私がフロートの名を継ぐに相応しいと証明してみせる」

 その横顔をミリアは一瞥する。


 誠実で、真っ直ぐで、努力を惜しまない兄。次期領主と呼ばれるのに、最も違和感のない人物だ。


 だが――ミリアは胸の深いところで、別の予感を抱いていた。

(ルーメル様には……理屈を超えて人の心をひらく力があります。それは、既存の物差しでは測れないものですが……)

 彼女は秘書としての無表情を保ったまま、そっと視線を伏せた。

「ミリア……僕、三日でどうにかなるかな? 本も読まなきゃいけない?」

「ご安心ください、ルーメル様。試験開始までに、最低限の技量は私の手で叩き込みます」

「叩き込むって……お肉とかを叩いて柔らかくするやつ? 僕は硬いままでも美味しいと思うんだけど……」

「痛くはございません。死なない程度で行いますので、どうぞお任せを」

「……え? 死なない……?」

 そのやり取りを聞いていた家臣たちが、一斉に青ざめる。

「し、死なない程度……? あのミリア嬢がそう言うなら、相当な特訓になるぞ……」

​「次男様、命懸けの修行に挑まれるおつもりか……! なんという御覚悟だ!」

 ミリアは小さく息を整え、いつもの凛とした声で広間に告げた。

「では皆さま。三日後より試験を開始いたします。各自、準備のほどよろしくお願いいたします」

 その瞬間、広間に静かな、それでいて鋭い緊張が走った。


 これまで影で積み重ねられてきた「得体の知れない動き」が、ついに表舞台へと姿を見せ始める。

 フロート家の未来を決める選抜試験。

 

 影で回っていた歯車が、ついに表舞台の扉を押し開き始めた。

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