第1章第8話 やさしい人間

森から帰ってくると、

つばきは戸口に座り、膝を抱えたまま外をじっと見つめていた。


蓮が庭で草をむしりながら、

ふとつばきのほうを見る。


「ねえ、これ、知ってる?」


手の中には、小さな白い花。

雨上がりの匂いがふわりと広がった。


つばきの耳が、ぴくんと揺れる。


蓮はつばきに近づきすぎないよう気をつけながら、

花をそっと地面に置いた。


「これ、“しろつめ草”。

冠にして遊んだりするんだよ」


つばきは花をじっと見た。

香りをひくひくと嗅ぐ。


(……毒の匂い……じゃない……)


蓮が次の花を持ってくる。


「こっちは“ねこのひげ”。へんな名前でしょ!」


つばきの耳がぴこっと跳ねた。


蓮はその動きに、ぱあっと目を輝かせる。


「いま、お耳動いた! かわいい!」


驚きで体はびくっと震えたが、

逃げ出すほどではない。


蓮は嬉しさのあまり、

どんどん花を増やしていく。


白、黄、薄紫。

色と香りが増え、

つばきの前に小さな花畑のような場所が広がった。


つばきはその彩りをじっと見つめ、

胸の奥がじんわり温まるのを感じた。


(……にんげん、ぜんぶ……こわいわけじゃ……ない?)


そんな言葉が、心の奥にそっと浮かぶ。



しばらくして、蓮華が薬箱と水の桶を抱えて戻ってきた。


つばきが腕の傷を見ていたのに気づき、

蓮華は道具を持ったままそっと近づく。


「……傷、まだ痛む?」


つばきは小さく首を振る。

痛みは引いてきているが、赤く残った傷跡が不安で目が離せなかったのだ。


蓮華は正面ではなく、

つばきの斜め横に静かに膝をつく。


「怖かったら言ってね。

すぐにやめるから」


つばきの耳が、すこしだけ前へ倒れた。


蓮華の手は驚くほど優しい。

傷を洗う指先も、包帯を巻く手つきも、

痛みを生むどころか消してしまうようだった。


(……あったかい……)


ふと目が合うと、

蓮華は声を出さずに“怖くないよ”と微笑む。


つばきは布団の端をぎゅっと握りながら、

ほんの少し息をゆるめた。


包帯が巻き終わる頃には、

つばきの胸にあった硬い緊張がひとつ溶けていた。


(この人は……あの人たちとはちがう……)


言葉にならない小さな信頼が、

つばきの中で芽を出した。



その夜。

つばきは布団の上で丸くなっていた。


台所から、蓮華と蓮の声が聞こえてくる。


「今日、少し笑ったよね」


「うん! お花見て、耳ぴこってした!」


「……そう。少しずつ、ね」


つばきの耳がそっと動く。


――自分のことだ。


胸の奥が、くすぐったくなる。


(……わたし……笑えたの……?)


布団に鼻先を埋めて照れ隠しをした、その瞬間。


ふっ……と、

喉の奥から小さな息の音が漏れた。


笑ったのだ。


自分でも驚き、

耳がぺたんと伏せる。


けれど、笑みは止まらなかった。

布団に顔を埋めたまま、

しばらく、くす……くす……と静かに笑い続ける。


不安でもない、恐怖でもない。

胸の真ん中に、あたたかい泉が湧くようだった。


“人間って、全部怖いんじゃないのかもしれない”


そんな思いが、

つばきのなかに静かに広がっていく。


胸元の鈴が

ころん……と澄んだ音を鳴らした。


それは、

つばきの世界がまた少し広がった証だった。

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