後日談「ひよりのいない春で」

 ひよりがいなくなってから、

 霧灯町には静けさだけが残った。


 いや、それは嘘だ。

 ほんとうは──俺の中にだけ、静けさが残った。


 周囲の景色は何も変わらない。

 校舎の壁も、川沿いの桜も、

 あの日と同じ色をしているのに。


 どうしてだろう。

 全部、ひよりのいない“空白”の色に見える。




 ひよりが出発した日のホームに、

 俺は未だに立つことがある。


 電車が来なくても、用事がなくても、

 誰にも会わなくても。


 ただ──

 そこに立っていると、

 ひよりの声が消えない気がするから。


「蒼くん……またね」


 あのとき聞こえた声を、

 何度も何度も再生する。


 ほんとは、

 もう二度と“またね”なんて言えないって知りながら。




 ある日の帰り道。

 川沿いを歩いていたら、

 ふと、ひよりが指差した夜桜の枝を思い出した。


「ねぇ蒼くん、見て……

 花びらがね、明日を待てないんだって」


 そんなこと言っていた。

 涙を拭きながら、笑って。


 ひよりはいつだって

 “散るもの”が好きだった。


 散るものは、

 理由を持たずに消えていくから。


 誰にも責められないまま、

 春が終わる前に姿を消していくから。


 だからひよりは──

 きっと、自分のことを重ねていたんだと思う。




 季節がひとつ巡った。


 俺は、ひよりに会っていない。


 会いに行ける距離じゃない。

 行けたとしても、会う資格なんてない。


 ひよりがいま、

 俺の名前を聞いて怯えるかもしれない。

 笑うかもしれない。

 泣くかもしれない。


 どれでもいいはずなのに──

 耐えられる気がしなかった。


 あの日、ひよりが微笑みながら言った言葉が

 胸に貼り付いたまま、剥がれなかった。


「蒼くんは……私の最後の“普通”だよ。」


 たぶんあれは、

 ありがとうでも、さよならでもない。


 “もう会えないよ”

 その優しい断りの形だった。




 ひよりの家に続く坂道を、

 今でもつむぎと一緒に通ることがある。


「蒼。顔が死んでる」


「……そう見えるか」


「うん。 ひよりちゃんが見たら泣くよ。

 ……いや、ひよりちゃんはたぶん笑うかも」


 つむぎの言葉は冗談みたいで、

 でも胸の一番痛いところを突いた。


「蒼はさ、

 ひよりちゃんに“正しい涙”もらったじゃん」


「……ああ」


「だったらさ、

 泣きたいときは泣いていいんだよ。

 蒼まで壊れたら……ひよりちゃんが困る」


 その言葉が、

 ひよりの声みたいに聞こえた。




 部屋に戻ると、

 机の上に、ひよりが最後に笑った写真が置いてある。


 笑顔なのに、頬だけ濡れているやつ。


「……ひより」


 名前を呼ぶと、

 部屋の空気が少し揺れた気がした。


 会いたい。でも会えない。


 ひよりは生きてる。

 ちゃんと生きてる。

 でも、俺とは別の世界にいる。


 死んだわけでもないのに、 触れられない。


 絶対に会えない距離にいる“生者”ほど、

 残酷なものはない。


 その残酷さが、

 胸を押しつぶすように広がる。


 そして──涙がこぼれた。


 ひよりのためじゃない。

 自分のためでもない。


 ただ、“まだ泣ける自分が残っていた”ことが 少しだけ嬉しかった。




 窓を開けると、

 春の風が吹き込んだ。


 桜が散っていた。

 ひよりと同じペースで散ると思っていたのに、 今年は少し遅れていた。


 風の向こうで、聞こえた気がした。


「蒼くん……泣くときは……泣いていいんだよ?」


「……泣いてるよ。

 泣いてるよ、ひより……」


 誰もいない部屋で、

 春の終わりに泣きじゃくるなんて

 馬鹿みたいだと思った。


 でも──

 ひよりはきっと喜ぶ。


 泣けない少女が、

 俺に残していった唯一の“普通”。


 涙。


 もしひよりが遠くの空で笑っているなら、

 その笑顔が壊れずに済むように、

 この涙を、何度でも落としていこうと思った。


「……ひより。 君の最後の“普通”を……

 まだ手放さないよ。」


 桜が散りきるまで泣き続けた春は、

 ひよりがいないのに、やけに優しかった。

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鍵物語PROJECT 静かに涙が落ちる場所 nco @nco01230

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