第3話 夜桜の下で、笑った理由
放課後の風が、まだ冬の気配をわずかに残していた。
四月の終わりなのに、霧灯町の桜は満開のまま枝を広げていた。
校庭から小川の方へ伸びる遊歩道は、
毎年、町のどこよりも遅い“最後の花見”ができる場所だ。
部活に入らない俺とひよりは、
自然とその道を並んで歩くようになっていた。
「……ねぇ、蒼くん」
「ん?」
「今日ね、私、ちゃんと笑えた瞬間があったの」
「ほんとに?」
「うん。蒼くんがプリント間違えて配って、 教室がちょっとざわっとしたとき……
なんか、“普通に”笑えたの」
ひよりは、手のひらで胸を押さえながら言った。
「胸が苦しくならなかったの。
涙も出なかったの。 ただ……笑えたんだよ」
ああ、そんなことで、と言うべきかもしれない。
でも、ひよりにとっては小さくて大きな奇跡だ。
「よかったじゃん」
「……うん。 私ね、蒼くんの声を聞くと… なんでかわからないけど、
“壊れたところ”が少しだけ元に戻るの」
その言葉は、花びらより軽く、
けれど胸の奥に深く落ちていった。
夜桜の下にたどりつくと、
川の水面に無数の花びらが流れていた。
夕暮れから夜へ変わる柔らかな色の中、
ひよりは立ち止まり、そっと枝に触れた。
「きれい……」
その声は、まるで子どもみたいな素直さだった。
俺は、その横顔から目が離せなくなった。
泣いていない。震えてもいない。
ただ、静かに、ちゃんと笑っている。
ひよりはしばらく花を見つめていたが、
突然、ぽつりと声を落とした。
「……蒼くんの“声”ってね」
「うん」
「私の壊れたところと、同じ形してるの」
意味は分からない。
でも、ひよりは続けた。
「蒼くんを見ると、安心するのに……
近づくと、少しだけ苦しくなる。
嬉しいと悲しいが、同じ場所に入ってきちゃうの。
だから……泣いちゃうんだよ」
ひよりは、泣きも笑いもせず、ただ言葉だけを落とした。
「蒼くん。
私ね……蒼くんのこと、“怖くない”の」
「……そりゃ、よかった」
「ううん……ちょっと違うの。
怖くないどころか……蒼くんだけ、すごく安心するの。
私の症状が、少しだけ弱くなるくらいに。」
ひよりは照れたように笑った。
その笑顔は、満開の桜より儚くて、綺麗だった。
次の日。
朝の教室で、ひよりは蒼を見るなり──
びくり、と身体を固くした。
そして、笑った。
泣きもせず、ただ笑顔だけが貼り付いたみたいに。
「……ひより?」
「……っ……あ……あ……」
ひよりは震えながら、椅子を引いた。
涙は出ない。
でも、どう見ても“怯えている”表情。
悲しみと恐怖の境界線が壊れた顔。
「ひより、大丈夫?」
「……蒼くん……ごめん……ごめん……
なんで……?
どうして……?」
声が震え、呼吸が乱れ、
ひよりは自分の胸を何度も押さえた。
昨日の“安心”が、一晩で“恐怖”に変わったのだ。
「大丈夫、落ち着け。ひより、俺は──」
「だめ……見ないで……
怖いのに……嬉しいのが混じって……
わけ、わかんなくなる……
助けて……」
ひよりは泣きそうに笑い、
笑いながら震え、
震えながら俺から離れようとしていた。
その姿が、胸を切り裂くように痛かった。
涙が止まらないのではなく、
涙さえ出ない恐怖。
蒼を見ると安心するはずだった。
なのに今は、安心と恐怖が同じ場所に流れこみ、
ひよりの心が処理しきれなくなっていた。
「……ひより」
手を伸ばした俺の指先の前で、
ひよりはそっと首を振った。
「ごめん……蒼くん……。
蒼くんのこと……好きだから……
だから……怖いの……」
その言葉は、泣きながら笑う少女の“初めての告白”のように響いた。
「……好きなのに……怖いなんて……
こんなの……いやだよ……」
ひよりはそのまま席に崩れ落ちた。
俺は、一歩も動けなかった。
胸が痛む場所が、どこなのか分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます