第2話 痛みの位置を探す日々

 ひよりが“泣く場所を間違える子”だという事実は、

 入学から数日で、ゆっくりと教室に広まっていった。


 誰かが笑うと、ひよりが泣く。

 誰かが怒られると、ひよりが微笑む。そのたびに、周囲の子たちは戸惑って立ち止まる。


 最初は気のせいだった。

 でも、それは確かに“症状”と呼ぶしかないほど鮮明になっていった。


 俺だけは、ただ静かに見守るしかなかった。




 文化祭の準備で班ごとに作業する日。

 美術室いっぱいに、色紙や段ボールが散らばっていた。


「この色、可愛い〜!」

「まって、それ逆じゃない?」

「おーい、テープ取ってくれ!」


 明るい笑い声。軽い冗談。

 普通なら、ひよりだって混ざれるはずだ。


 だけど──


「……っ、ふ……ぅ……」


 ひよりは、輪の中で肩を震わせていた。

 笑っている子たちの中心で、ひとりだけ泣いていた。


「ひより、大丈夫?」


「あ……っ、ごめんなさい……。 すごく嬉しいのに……胸が痛くて……苦しくて……」


 泣きながら、必死に笑おうとする顔。

 その矛盾は、見ているこっちの胸を締めつけた。


 ひよりは、みんなの笑顔を見ると泣いてしまう。


 それだけの事実が、彼女を少しずつ孤立させていった。




 次の日。 理科の実験中に、クラスで少ししたトラブルが起きた。


 ビーカーを割った男子が先生に怒られる。 誰でも気まずくなる場面だ。


 でもひよりは──笑った。


「……っふ……あは……ごめん……」


 誰も笑っていない。

 怒号とガラスの破片の音だけが響いている。


 ひよりは、謝りながら笑っていた。


「ごめん、ごめん……変なの……止まらない……」


 その顔を見て、男子のひとりがぽつりと言った。


「……あいつ、やっぱちょっと怖くね?」


 その空気は、ひよりの耳にも届いていた。


 ひよりは、手で口を押さえながら震えていた。


 俺はもう見ていられなかった。




 放課後、ひよりはひっそりと帰ろうとしていた。

 廊下の端。夕暮れの色に沈む影。


「ひより」


「あ……蒼くん……」


 振り返ったひよりの目は赤く腫れていた。

 泣きすぎて、声が少しかすれている。


「今日……みんな、困らせちゃった……よね。

 怒られたとき……なんで笑っちゃったんだろ……。

 自分でもわかんないの……」


 小さな肩が、弱々しく震えていた。


「ひよりのせいじゃない」


「でも……私、クラスの雰囲気を壊してるだけだよ……?」


「壊してない」


「……蒼くんは優しすぎるよ」


 ひよりは、涙の代わりに微笑んだ。

 その笑顔が痛くて、見ていられなかった。


「ねぇ、蒼くん。

 私って……重い?

 めんどう?」


「ひよりは……重くなんかないよ。

 むしろ……軽くしてあげられなくて、ごめん。」


 ひよりの涙が、ぽたぽた落ちた。

 悲しいか嬉しいか本人にも分からない涙。


「……蒼くんに言われると……余計に泣けちゃう……」


「泣いていいよ」


「うん……。 蒼くんは……ずるいくらい優しいんだよ……」


 ひよりは泣きながら笑った。

 春風が吹くたび、涙が陽にきらめいて散った。


 その涙の意味を、俺はまだ知らない。

 ただ──

 手を伸ばせば届く距離で、壊れていくひよりの心だけが、

 恐ろしくて仕方がなかった。




 帰り道、幼馴染のつむぎに会った。


「蒼。今日、ひよりちゃんのこと……見てたよ」


「……うん」


「蒼はさ……ひよりちゃんを守りたいんじゃなくて、 自分の後悔を守りたいだけじゃないの?」


「後悔……?」


「たぶん、蒼は“誰かの涙”に弱すぎるよ。

 無理しすぎると、ひよりちゃんも蒼も……潰れちゃう。」


 つむぎの声は、春の空気みたいに静かで、痛かった。


 でも、俺はひよりを放っておけなかった。


 たとえ、あれが“壊れた涙”でも──

 それでも、ひよりの涙をひとりにしたくなかった。

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