第4話 壊れていく心を抱きしめて

 ひよりが蒼を“怖い”と感じた日から、

 俺たちの距離は、ゆっくりと離れていった。


 避けるわけじゃない。

 拒絶するわけでもない。


 ただ──

 ひよりは俺を見ると、理由もなく怯え、

 俺はそれを見て胸が潰れそうになる。


 そのくり返しだった。




「……蒼」


 昼休み、つむぎが窓際に座る俺の隣にきた。


「今日も、ひよりちゃん……見てないの?」


「……見ないようにしてる」


 自分で言ったその言葉が、胸に刺さる。

 “ひよりを守るため”という理由を盾にして、

 本当は、ただ怖かっただけだ。


 ひよりが俺を見て怯える表情。あのときの笑顔のままの“恐怖”が脳裏に残って離れなかった。


「……蒼はさ」


 つむぎが静かに言った。


「優しいけど……時々、意地悪だよ」


「……意地悪?」


「ひよりちゃんに“距離を置く”って決めたくせに、 蒼自身はずっと苦しんだまんまでしょ。

 逃げてもいいのに、逃げないし、

 逃げないっていう言い訳に“ひよりのため”って使ってる」


「…………」


「守りたいって気持ちは……綺麗だけどね。

 綺麗だけじゃ、人は守れないよ」


 つむぎは俺の顔をまっすぐ見て言った。


「壊れるってことを、ちゃんと見てあげるのが“守る”なんだよ」


 その言葉が胸の奥の空白に落ちて、音を立てた。




 その日、ひよりは学校を早退した。


 次の日も、また次の日も。

 結局、しばらく登校できないまま、病院に行くことになった。


 俺のせいだ。

 ひよりが“怖い”と言ったのは、俺にとって致命的だった。


 ひよりが笑った場所も、

 泣いた場所も、

 壊れ始めた場所も──

 全部、俺がそばにいたときだったから。




 一週間ぶりに、ひよりからメッセージがきた。


 たった三行だった。


蒼くんごめんねあいたいよ


 その瞬間、俺は走っていた。




 病院の廊下は、やけに白く明るかった。

 でも、その光がひよりにはきっと眩しすぎる。


 病室の前まで来て、深呼吸する。

 心臓の音だけが耳に響く。


 ノックをすると、かすれた声が聞こえた。


「……どうぞ……」


 ひよりはベッドに座り、膝を抱えていた。

 薄い毛布の上に落ちる影が、今にも消えそうだった。


「……蒼くん」


 顔を上げたひよりは、

 泣き笑いのままで、

 でも涙の跡は乾いていた。


「来てくれたんだ……。

 ……よかった……」


 声は震えているのに、表情は笑っている。

 反対に、胸は苦しそうにひくついていた。


「ひより……大丈夫か」


「うん……大丈夫じゃないけど……大丈夫だよ」


「……どっち?」


「わかんない……。 ねぇ、蒼くん……。

 笑えるのに、泣けないときって……どうしたらいいの?」


 その問いは、悲鳴の形をしていた。


 ひよりは両手で胸を押さえて、

 呼吸を整えられずに震えていた。


「ねぇ……蒼くん……。

 私……怖いよ。

 蒼くんを見ると嬉しいのに、足が震えるの……。

 嬉しいと怖いが同じ場所にあって……

 どっちを出したらいいかわかんない……」


 ひよりは泣きたかったのに、涙が出ない。

 ただ、口元だけが微笑の形を維持していた。


 その顔がいちばん痛い。

 ひよりの“壊れている部分”が、いちばんよく見えるから。


「ひより」


 近づくと、ひよりは肩を跳ねさせた。

 胸に手を置き、呼吸が乱れ、

 怖いのに、でも嬉しそうに笑いながら震えていた。


「……蒼くん……。

 ごめんね……。 蒼くんのこと……好きなのに……

 今は……怖いの……」


「……ひより」


「嫌いじゃないよ……?

 好きだから、怖いんだよ……

 こんな自分で、蒼くんの前に立ちたくなくて……

 でも……会いたかったの……」


 ひよりは、涙の出ない泣き顔で俺を見た。


「蒼くん……。

 どうしたら、普通に戻れるの……?」


 俺には、ひよりを救う正しい言葉なんてなかった。


 でも──

 ひよりの震える手を包むことだけは、できた。


「……普通になんて、ならなくていいよ。

 ひよりは……ひよりのままでいい。 俺は……何があっても……ひよりから離れないから」


 その瞬間、ひよりは小さく声を漏らした。


 泣けないまま、泣きそうに笑って。


 そして、弱い力 俺の胸をぽんぽんと叩いた。


「……そんなの……言われたら……

 また……泣けなくなるよ……」


 泣けない涙を流すように、

 ひよりの指先が震えていた。

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