春を迎える前に、君と出会う
第1話 泣く場所を間違える少女
入学式のざわめきは、春の匂いといっしょに体育館の天井へと昇っていった。
名前を呼ばれるたびに、小さな拍手が波みたいに広がって、またすぐに消える。
けれど──その波の一角だけ、どうしてだか“濡れて”いた。
「……泣いてる?」
俺は思わず、列の前の方を見つめた。
ほとんど誰も注目していない場所で、一人の少女が、ぐしぐしと涙を拭っていた。
泣くような場面じゃない。
むしろ、みんな笑っている。 新しい制服が嬉しいとか、友達がそろったとか、そんな理由で。
でも、その子だけは、祝福の拍手の中で震えていた。
悲しんでいるようで、喜んでいるようで……
そのどちらにも見えない、変な泣き方だった。
俺は、その泣き方を、どこかで知っていた。
嬉しいのに苦しい涙。
笑いたいのに笑えない涙。
──妹が死んだあと、俺が流した涙に、とても似ていた。
自分でも気づかないうちに、俺はその少女の背中を追っていた。
「柳瀬蒼(やなせそう)くん」
名前を呼ばれて立ち上がるとき、俺はまだ前列の少女を見ていた。
式の途中なのに、胸の奥でずっとざわつくものがある。
入学式が終わり、クラスごとの教室に移動すると、その少女は俺の斜め前の席だった。
目が合うと、少し驚いたように涙を拭いた。
「あ……えっと……」
小さな声。細い指先。涙の跡。
「な、泣くとこ……じゃないよね、今日って」
気まずそうに笑うその表情は、どこか壊れたガラスみたいに脆かった。
「いや、泣きたくなるときは……泣くしかないだろ」
俺がそう答えると、少女は目をまるくした。
そして──また泣いた。
今度は、さっきよりも静かに。
「なんで泣くの?」
「わかんない……。でも……その言い方……なんか……あたたかい……」
ひょうひょうと言っているのに、涙がぽたぽた机に落ちていく。
周りの席のやつらがちらちら見る そりゃそうだ。入学初日に泣き続ける女子なんて目立つに決まってる。
「君、名前は?」
「……凪木(なぎき)ひより。
ひよりって呼んで。……泣いてるけど、怒ってるわけじゃないからね?」
「怒ってる風には……見えないよ」
「よかったぁ……」
ひよりは微笑んだ。
笑顔なのに、頬だけは濡れたまま。
その“矛盾した表情”が、何より胸に刺さった。
放課後、校庭の桜の下で、ひよりが突然言った。
「ねぇ、蒼くん。
……やっぱり、私って変だよね。」
「なんで?」
「嬉しいときがね……苦しくなるの。
胸の奥がぎゅってして、息がしづらくなる。
人の笑顔を見ると……涙が勝手に出てくるの。」
それは泣きながら笑う少女の告白だった。
けれど、言葉だけは淡々としていて、ひどく正直だった。
「変だよね……私」
「変じゃないよ」
俺がそう言うと、ひよりの涙は止まった。
ほんの少しだけ、表情の壊れた部分が元に戻った気がした。
「……蒼くん、すごいよ。
蒼くんの声だけ……なんか、落ち着くの。」
ひよりは自分の胸に手を当てて、ゆっくり息を吐いた。
「ほら……今だけ、ちゃんと笑える。」
その笑顔は、桜よりも儚くて、
風に溶けて消えてしまいそうだった。
気がつけば俺は、彼女の涙の理由をもっと知りたいと思っていた。
痛ましいとか、かわいそうとか、そんな安い感情じゃない。
ただ──
この子が泣く理由に、俺が少しでも触れられるなら。
それだけで、今日の春は十分だった。
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