第参話『マクガフィンを追い求めて』─偏見は逆照射で了見が変わる
現代において、街並みをあるいていると必ずいるのが「映え」を意識した層だ。超情報化社会の今、撮影から投稿、共有までのフローが簡易的になっている。そしてそういう環境目下必ず存在するのが「映え」に全てを注ぎ込むあたり己の倫理(エチカ)が周囲の道徳(モラル)を阻害しているという現象。
今も、ほら目の前に。「あいつ、SNS映えばかり気にしていて痛い」と言ってしまった。すると並んで歩いていたBが間髪入れずに「なぜ映えることが痛いになる? それを馬鹿にする視線こそ、他人の自己表現を抑圧してないか?SNSに載せるために撮っているとしたら、なぜそれ、いつどこで、悪いに還元されるの?それが撮っている人たちなりの文化的かもしれないだろ。映えを動機に文化に触れることを否定する方が浅くない?例えば神社で写真を撮っている人を見て「あの人たち本当は参拝なんてどうでもよくて、撮っている私が可愛いという自己満足に至っていない?」と考えるのとあまり変わりない。」
なるほど、そのレトリック。いつにも増してBは饒舌だ。であればと思いこう返す。
「あまり変わりない。つまりこの場合の解釈はその場にいたという事実すら、すでに文化行為なのかもしれないからこそ、悪いと断定される、あるいは類似した思考で解釈するのは御門違いである。言い換えればこれは、SNSに載せるために撮っている=悪いと、思うのと同じでそれが彼・彼女たちなりの参拝なのかもしれない。そうしたシフトした考え方をしないと今時辛くない?形式的動機が時として結果的に文化に接続していることの価値を考慮すべきということだね。」
Bはただ笑った。なるほどとなれば、と思い、別の話を振ってみる。
A「スマホとご飯はどう考えるべきか?」
B「これもすごく単純。せっかくのご飯なのに、スマホばかりを見ていたら台無し、という一般的に悪印象を抱かれやすい行動も、裏を返せば誰かとご飯を食べながらスマホをいじるという行為は全員にはできない、いやなし得ない。少なくとも、原初的に考えれば、初対面の人と「会食」するとき、絶対にやらない行為。裏を返すと、それってつまり、相手に油断していいって体が判断していることなのよ。だから、スマホをいじれる程度には「関係」自体がある意味信頼関係の証明よ。
A「じゃあ「推し活」というものについてはどう考えるべきか、という点にこの視点を持ち込んでみると、あれは目的のない、いや目的はあるのかもしれないが、実際に還元されるかもわからない世界という意味で側から見れば、というか一定以上の年代が見れば誠に不思議な世界に映るにちがいない。しかし、それは一面的な見方でしかなく実際には言葉にされないが効果効能としては、「推しを応援する」=供物と考える。推し活って、物語的には何かを追い求めること自体が目的になってる。ある意味、現代型のマクガフィンなのかもな。」
B「へぇ……以前のあなたなら、もっと形式論で逃げてた気がするけど。」
A「君に言われすぎて少しは学んだつもり。」
B「そう、誰かに与えている。つまりは感情の循環装置と考えたほうが早い。つまり誰かに与えるから自分が保てるのよ。そしてこれはSNSにおける言語にも蔓延している言葉にできなさと同じで、例えば「エモい」という言葉は日常的に目にする。しかしあれを語彙の逃げ道だと思う奴もいる。そんな奴に限って長文で誰も読まない文章を書いていたりする。私もそういうブログは読んではいるけれど、会話のキャチボールにはまず使えない。でもただ一言「エモい」というだけで、それで感情を共有したフリができるなら意味がある。と考えるほうが健全でしょうね。─で、それを痛いって言ったのは誰だったっけ?」
どうやら、装置としてのマクガフィンはヒッチコック映画でしか機能しないらしい。
Music By. 菊地成孔 & ペペ・トルメント・アスカラール.『Le Rita』
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