第弐話『美と色と視と市』─認識と視認、その境目と境界

日曜日。駅を歩いていると、当然のことながらブランドものの服装の広告が並ぶ。しかし思うのだ。服装なんて、トップモデルが着て宣伝をしている=何を着ても輝ける人という認識以外の何者でもないと思う。実際「ファッション」と人はいうが、その実、それを具象化できるほどこだわっている人はそこまでいない。自分に言わせればこういうのは様式、とりわけ色のカラーリングで決まるものだ。例えば千葉県舞浜にあるでっかい遊戯世界を例にとってみよう。あれはなんで美しいのか、といえば色調が整っているからといえるだろう。実際問題として暖色と寒色の違いを意識していなければあれらの施設が輝くことはないであろう。逆説。つまり色の段階で失敗すれば、いくら痩躯で似合う体型であっても「色調不調」の時点でぶれてしまうことは自明だろう。例えば上が緑で下が黄色なんて組み合わせはどう考えても一般的な視覚野の視認性には欠ける。ここまでいくと絵画もそうだが、ようするキュビズムがようわからんというのは脳の認識機能としてそもそも、主張意図というのが認識しないという脳の認識における作用が働いているとでもいうべきか。一定以上の形式が整っていなければそもそも「脳」として理解できないという領域になるということだ。パブロ・ピカソは絵画史ではなく近代の美術史において自己確立を戦略的に成立させた。ピカソの絵はせいぜい『泣く女』までが脳内として視認できる。つまり、最後に人間の共感と美をギリギリつなぎ止めていた作品と言える。


それ以後は、視覚芸術の「知覚可能性」という前提が失われる。言い換えるなら視覚的記号が破壊されすぎて、認知が追いつかない。だからこれは絵であるという前提が崩れる。例えば、ブラックとの共作『ヴァイオリン』をみて、これを楽器のヴァイオリンとして視認できる人はいないであろう。それはマグリットが「これはパイプではない」と題したパイプの作品以上にそもそも可読性が損なわれている。だからこそ、自分は後期ピカソのキュビズムは「脳」自体が意味を読めないという意味で、認知できない状態である。故に本質的に芸術表現として失敗ではないかと思う。刺激に脳が反応するなんてことは犬やゴキブリにすら起こる。つまり反応そのものは芸術の証拠ではない。しかし見方はN色。後期ピカソは、こういう問いを仕掛けをしているとしたらどうだろうか。見るとは何か?or見ることはわかることなのかという視座。ピカソはあえて視覚と意味の関係を破壊し、その破壊の中で、意味を構築しようとする脳の動きそのものを暴いた。そしてこれは鑑賞者の脳の反応に任せたというよりむしろ認識の条件を破壊しても、なお意味を生み出せるか?という言い方ができる。結局既存の在り方からの脱却であり、芸術形式そのものへの暴力と問い直しであり、形式の再発明という視座を持てばそれは芸術と言えることができる。そうなると次にこういう反証が可能になる。芸術は本質的に感じられるものであるはずであり、もしそれを超えて「感じられなさ」を提示するのだとしたら、それは最早感性に訴える芸術ではなく、知的実験やコンセプトでしかないはずであると。そしてそれを二十世紀開口一番に突破したのがマルセル・デュシャンの『泉』。これが需要されたことで、彼は芸術は見るものなのか?という問いを作品化した。つまり芸術は「見るもの」から「考えるもの」へと移行した。このときすでに、感じられなさ」「拒絶される視覚」が芸術の領域に入ってしまったのだと。それを踏まえるのであれば、ピカソ後期のキュビズムも、実はその系譜であり、やっぱり「芸術」である。という返しが可能になる。しかしここで、最初の問い、つまりは「近代美術」としての戦略的な勝ち方が規定にあると補助線を入れると、どうだろうか?写真・印刷技術の発達により、絵が写実である必要がなくなる。だからこそもはや上手いだけでは淘汰される。ならば新しさとは何か?という生き残るための必然性を作る必要性がある。それが「キュビズム」であったのだと。絵が美しくある必要がなくなった時代に、「上手い」以外の価値を打ち立てねばならなかった。だからこそピカソの表現は、感性というより戦略の産物だと捉えることもできる。そしてそれ故にピカソの絵はルーヴル美術館に展示されていない。なぜなら、あの場所は普遍的古典の殿堂であり、現代芸術の文脈である以上、展示される理由がない。つまり、ピカソの作品は最初から、絵画の普遍ではなく時代性の尖端としてしか評価されていないという読みが可能にある。


このようにして展開していけばそれこそヨハネス・イッテンの色彩論がいかに重要かという話にもなるのだが、それを話すにはまずバウハウス形態をと思索しながら駅を歩いていると、Bがいた。そして完全に決まっている、いや決めてきている服装だった。呆れ顔で語り始めた。B「どうせ、その様子だと世の服装における認識がAからすればまるで『They Live』のように映っているんでしょうね。私の服装には何て書いている? 「CONSUMU」「BUY」「WATCH TV」あたりかしら?」こちらの考えはお見通しというわけだ。


A「開口一番でそのネタを引用するあたり、どう考えても周りからすれば同レベルだとは思うのだが、実際はBuyなんじゃないか?市場の原理原則を考えれば筋は通る。あれはそういう意図を持った作品でもあるはずだ。なにも喧嘩しないと仲良くなれないハリウッド形式美映画としての差分しか見られないのは悲しい。」


B「そんなことは一言も言ってないけれどね。相変わらず、いらん枝葉を使って文脈を広げることだけはお得意様ね。まるで映画評論家の解説動画のテンプレを聴いているようで、虫唾が走るわ。で、この服どう思う?」答えは簡単。沈黙。実際に体感五秒が過ぎたあたりでBは察し語り始めた。「そうやって理屈で答えようするからクラピカのような思考回路に陥るわけ。もうこの際だから、全部汲んで話す。例えば明らかにエンカウントしようとするという状態で、初めましてなら絶対整える。両者とも。でも、それだけじゃ無い。対外的に周囲対環境という意味での整えもあるはず。多分前者には納得も理解も回っているが、後者に気づけていないだけ。「対人」って一対一の関係だけじゃなくて、対外的、つまり環境に対する構えでもあるの。だからこそ、たとえ知人と会う予定がなくても、例えばそうね、街に出る、そのために電車に乗車する、そして駅内という公共空間に入る。これら全てに係る不特定多数との可能的エンカウントに備える、それ自体が「整え」を要請する。「明らかに会います」な状況なら、双方ともに整えるのは当然の儀礼であると同時に、でもそれとは別に、「環境」や「場」に対して自分をどう置くかって感覚があって、それが服装、髪型、メイク、身だしなみ全般に滲み出てくる。もっと簡易に形容するのであれば、「何も予定ないけど喫茶店に行くから化粧はしとく」というのも、「対人」じゃなくて、都市環境というステージに立つ自分を整えるという身体性の再構築なの。

それは、誰かに見られるためではなく、都市という劇場にふさわしい照明と音響を、自らの

皮膚に施すようなものなの。それは「見る目」を意識しているってより、むしろ見る側としての自分への「誠実さ」なの。つまり「整える」とは形式ではなく「適応」なわけね。暑い日に無理してジャケットを着ることが正解なわけじゃない。というのと同じよ。

その場にふさわしく、かつ自分の美学や快適性を保った服装=整えているということになる。形式主義的な「TPO」ではなく、空気感や文脈の読解能力として、環境に対する「感応性」が問われているわけで、それが高い人ほど、フォーマル・カジュアル問わず浮かないし、自分がその場にいる理由を服で語れている。反転、逆に言えば「暑くてもスーツを着る」のが礼儀ではなく、「スーツを着ることが場にフィットする」なら意味がある、っていう論理転換。以上。」

衝動、青天の霹靂。思わず漏れた一言

「流石です。」

Music By. 中野領太.『チョコデート・サンデー』

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