第肆話『Tear』─「刷り込み」と「疑い」を持つことはどういうこと?
A「本当に面白いとはなんだろうか?いい加減ネタにされつつある「全米が泣いた」とかはまだ、自覚的にネタにできる分いいかもしれない。しかし厄介なのは外的動機付けをはじめ、他者や権威あるクリエイターの推薦帯、絶対に同じ視点で読解できるはずもないのに、偉大なものを作った人が言うのだから、間違いないのだろう、という身勝手で尚且つ思考放棄な人は多いと思う。もっといえば、広告といったものに、に委ねている。つい一日、あるいは数秒前日前まで興味のなかったことでもそうした媒体に触れた瞬間に「何か」が働き、火がつく。もちろん自身の「好み」と「流行り」が一致することは逃れられないので、そこは仕方がないと思うべきなのであろうが、しかし、世の中物はたくさんある。漫画といっても日本だけではなくアメリカ、フランス、イタリア等はそもそも日本とは違う文化をもっているし、今の日本漫画とも縁は深い。ロドルフ・テプフェールから、ヴァージル・フィンレイからスティーブ・ディッコそしてジャン・ジローとフランク・フラゼッタ等から切り込むことができる。そもそも十九世紀末の挿絵文化を振り返ってみて欲しい。あの時代にはジャポニスムがあった上で、アルフォンス・ミュシャやオーブリー・ビアズリー、ハリー・クラークそしてカイ・ニールセンがいて、それぞれの画風が絵となり、いわゆる今の絵と本の融合することで世界観を一体化させたという、メディアミックスの原点であり、それがアーツアンドクラフツ運動においてウィリアム・モリスをはじめ活躍していったことは自明であり、そこからアール・デコ、デ・ステイルなどが生まれやがてその様式は周りめぐって、今でいうところのエルゴノミクスに繋がる。今この文脈を通さずとも、人はアーロンチェアを買っているはずだ。こうしてあらゆる現象を点として羅列し、線として結ぶことで初めて生まれる体感というものがある。しかし「これが面白い」と言われたものしか摂取しないとなるとそう言ったものを見えなくなる。あまりにも勿体無い。ということを賢人はよく考えたもので、オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』にて、大衆=平均的な人とそうではない、「選ばれた少数者」と区別したうえで、現代における「みんな」は、かつてあった「大衆と、彼らと意見を異にする特別な少数者との複合的であった」という本当の意味での囲いではなく、ただ単に「大衆」を指すものとして定義している。つまりは広告に操作される側はここにおける「大衆」=「平均的な人たち」なのではないか?特段、自身が「選ばれた少数」と思うことはないし、それはラスコーリニコフ的な二つの論理をもたないと自身を保てないような鬱屈した青年像でもあるがゆえに、一概に肯定するわけではない。しかしここにおける「大衆」という部分には共通するものがあると考える。また、コミックといえば秋山深一が原作で神崎直に「人は疑うべきである。信頼というのは裏返せば思考の放棄である。つまり疑うことこそが、信用を確立するための一歩」であると説いていた。これも援用として使える。つまり「これがいい」と宣伝されるものに対して一度疑うことくらいはしてもいいのではないかと。根深いところまでいけば「私はこれが面白い」と思っている感性すらも、実は刷り込みによってできた空洞なセンスかもわからないし、恐らくそうしたものに気づいている人はいないだろう。無意識による創れられた、ではなく造られた美的感覚、面白さ、というものは一種の人間性の欠如すら発生しているように思える。それこそ、現代版フォークトカンプトテストを導入した場合、あの映画でレプリカントが非人間性を表す以上に、面白いほど造られた感性にしか反応せず、思慮深いものに対しては、まさしく共感できないという理由で拒絶する様が出てくるのは想像に難くないだろう。それこそ、ウォレス社のホログラムとしてのヴァーチャル彼女JOYをあそこまで演出できる世界にもなればそれはより決定的となるであろう。事実Kは心の拠り所としてあれを作中大切にしてきた。結局それすらも一度広告をみれば溢れかえっている商品にしかすぎない。というのがあの作品の痛烈なところでもある。なぜなら今でさえVTuberにハマる人が多数なのだから。日本人的にはKは笑えない存在である。まぁそれはフィリップ・K・ディック的であり、また石ノ森章太郎的でもあるのだが。『人造人間キカイダー』のハカイダーはキカイダーを壊すこと自体が存在理由となっている以上、ではその「対象」がいなくなった場合存在証明はどこにあるのだろうかというテーマが内在されている。ハカイダー=「破壊するために創られた機械」=壊す対象がいないとき、ハカイダーは無になる。であればこの進化系は『ロボット刑事K』に相当する。「破壊」から「守護」へ、「対立」から「共存」へと方向性を変えた進化=深化として現れるテーマこそ、Kは、制度内のロボットでありながら、その制度からも排除される。それでも「守る」という行為を選び続けることで、自我を自分自身の選択として獲得していく。ハカイダーが「自由を破壊によって定義した」のに対し、Kは「自由を忠誠と献身の中で再定義する」。まぁこれらのテーマは全て『ファウンデーション』のデマーゼル帝相というペルソナを被ることにしたR・ダーニール・オリヴォーに行き着く。つまりはあらゆるものが全て帝国を裏からコントロールしながら、ハリ・セルダンを心理歴史学の完成へと導き、ガイアへと至る。そんなロボットシリーズと、ファウンデーションシリーズにおける中間立律としての存在がロボットであり、だからこそ三原則がありそれでもカバーしきれない第零法則があり、という流れに至る。
咄嗟、Bはいう「カルペンティエールの『方法異説』、あるいは、マルケスでも読んだら?どっちにしてもアメリカ・ラテン文学なのだけれど。」
Music By. Jóhann Gunnar Jóhannsson.『Good Morning, Midnight』
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