水没

 アンジェラ・ヂェミヤノヴナ・バリーシェヴァは、万年筆をカバンに収納した。

 ふむ、我ながら上出来だ、長らく文字を書いていない私にしては。焼かれる前に、一人は読んでくれたら嬉しいな、と、その本をパタリと閉じ、懐にしまい、伸びをする。


 窓の外に黎明が灯る。ともに、最後の駅に停車したようで、彼女は名残惜しそうに、それを下車した。



 楽しかったこと───ああ、晩年、酒を飲むようになってからは、何でも楽しい時期だった。アルコールが切れるまでは───今だって、彼女は車内で飲んだくれて、今でも酔いが回っているくらいだ。だから今は、楽しい気分だ。

 酒がなかった時期はどうだろう?イザリクが勉強を教えてくれていたときは、良い時代だった。あとは───学生時代に、周りから囃し立てられていた時代は、悪くなかったね、とか。


 駅を出て真っ先に向かったのが、少し暗い場所。ファルツォフカ闇市商人ジェレズニカかけごと屋、売春婦、プルクムシク乞食の子、外国人、そんなところだ。

 彼女は、今まで口にしたことのない───たくさんのものを試した。お金は無尽蔵にあったから、それも、彼女が研究者だったからである。確かに特権もあったが、その時は試す気にはならなかった。だが、今となっては、なんだってできる気がしていた。

 四、六時間並べば買える。ソーセージにビール、コーヒーとやらを試飲し、チキン、チーズ、シトラスを紙袋に詰め、食べ歩く───この時間は、彼女にとって、人生で最も幸せだった。 

 また、少し個性的な服もあったし、ベリョースカ外貨引換店の商品───彼女がカード(博士身分を証明するための)を提示して、特別に買わせてもらったそれら。

 そうして、帰る際には、誰よりもぜいたくな服を着た彼女がいた。当局は見逃すだろうか?───当時となっては、国内の貧富の格差は、広がりに広がり、もはや手を付けられなかった。だから、これがこの国の普通であり、失敗だった。


 そうして、彼女が次に向かったのは、ドルヴァ河の河口である。


 彼女はそこに座り、脚だけを投げ出したまま、そこを航行するボートを眺めていた。

 潮風と凍った香り。ポートブルクは海に面した都市だ。

 なんだかぼうっとした様子で、遠くの空を眺める。このころには酔いが覚めてきて───彼女は、ひどく倦怠であった。

 

「楽しい一日だったね。」

 

 本当に、楽しい一日だった。

 今はそうでもないが、きっと、水の下は、もっと楽しいのだろうか?


「ピークを過ぎた人生が、こんなにも、つまらないとは思わなかった。」


 得すぎたのだろうか。欲張りだったのだろうか。だが、欲しいものは───元来より無欲だった彼女には、知識の好奇心しかなかった。

 心残りがあるとすれば、マリュークには謝らないといけない。あれは、流石に酷いことだった。彼のおかげで、たしかに私は、大事なこと、誇っていいことを思い出せた。

 だが、彼には愛想を尽かされてしまったから、きっと手紙は返ってこない。





 そんなことを考えながら、私は水面に落ちた。

 




 ざぶん。



 深く、沈んでゆく。



 ───そうして、あるところから、浮かんでくる。



 浮上して、ぷは、と、大きく息を吸い、

 濡れた髪を目からどかして、上を向くと、曇った灰の空が見える。



 感覚の鈍い中、そこに大の字になって広がって、海の上を漂う。


 カモメ。ぼやけた太陽に───塩の味。



 だが、この時間は、頭を冷やすには十分だったようである。


 

 頭が冷えて、私は、死にたくなくなってきて、近くの船着き場の、桟橋のはしごを登り、陸に上がる───こちらのほうが寒いことに気づいて、面白くなってくる。そうして、笑いが止まらなくなった。



「まだ、決断できないんだって。」



 重たくなったコートを着たまま、そこによろめきながら立ち上がると───世界は、澄んでいて、はるかに綺麗だった。


 ペンを置くのは今日じゃない。明日なのだ。

 いや、明日でもなく、明後日でもないかもしれない。


 彼女は、ずっと水に飛び込んで、その度に気づくのだ。


 「私はまだまだ、泳げない」


 と。

 それでいい。





 Это как сама моя жизнь

 それこそ、私の人生だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

“無題” Lutharia @Lutharia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画