専門時代
高校を出た後は、専門学校に進学した。特に専攻したい学問が決まっていた訳では無いし、大学には進学しなかった。四年間大学で学ぶより、早く社会に出た方がお金も稼げるし有意義だろうと思ったのだ。
私は生まれ育った福井を離れて、名古屋で一人暮らしを始めた。当時は、ネット通販が現代より盛んでは無く、SNSや雑誌に掲載されているような衣服や小物、雑貨が簡単には手に入らなかったのだ。それに、ジャニオタをするにも何かと都合が良い。どうしても都市部に出たかった。その思い一心で進学先を決めた節もある。
専門学校は観光系の職種を学べる所に進学した。「ホテル科」専攻だ。CAやグランドスタッフを目指せる「航空科」と迷ったが、「私の英語力では厳しいだろう」と半ば諦めたのだ。それにCAになるなら国際線が良かった為、「身長が足りないかもしれない」と思った。それでも、英語を使える職には就きたいと思っていたので「ホテリエ」を目指した。
専門学校で学ぶ内容はとても有意義だった。英語や中国語といった語学は勿論だが、ホテル経営の基礎知識や料飲知識、テーブルマナー、婚礼知識なども学べた。サービス接遇準一級や、秘書技能検定二級も取得した。サービス介助士といった、高齢者や障害のある方など、「おもてなしの心」と「安全な介助技術」を身に付けた人材を指す民間資格も取得した。この資格は、介護職だけでなく、観光業や小売業、運輸業などで重宝される資格である。
「帝国ホテル」や「リッツカールトン」といった、四つ星・五つ星ホテルに宿泊できる研修もあった。リッツカールトン内にある、カフェでケーキと紅茶を頂いた。リッツカールトン特製のオペラを食べた記憶があるが、ケーキ一切れで二千円程した気がする。学生の自分にとっては、少々痛い出費だったが、経験にお金を払ったと思えば安いものだ。一流のサービスと、ホスピタリティを学んだ。
二年生の夏季休暇の一部リゾートホテルでの研修があった。約一ヶ月程度だ。給料も発生した。私は、当時仲の良かったグループの友人同士で長野県の蓼科にあるホテルで研修した。山の中だ。避暑地でリゾートには持ってこいの場所である。
私は一人だけ、仲の良いグループから離れた部署に配属された。ホテル内にある朝食ブッフェも行っているイタリアンレストランだ。
ホテルのレストランは特殊な勤務体制だ。所謂「中抜け」と呼ばれる時間がある。準備合わせた朝食ブッフェの時間勤務したら、夕食の準備開始時間まで休憩時間があるという様な勤務体制だ。この休憩時間は基本的には何をしてても良い。間が短ければ、ホテル内の従業員休憩所で休んだ。長時間空けば、寮に帰り仮眠を取った。
この研修が結構しんどかった。山の中で約一ヶ月缶詰状態だ。閉塞感は果てしない。蚊にも刺されまくった。体質上、蚊に刺されやすくはあるが、蓼科の蚊は強い。刺された箇所が、熱を持ちパンパンに膨れ上がり、発熱した事もある。救急病院にも通った。当時は蚊に刺されたと思っていたが、今思うと、あれは蚊では無かったかもしれない。
親しい友人と休みが被った日は、レンタカーを借りて牧場へ行った。動物と触れ合い、生乳ソフトクリームを食べた。癒しのひと時だった。友人と交代で、車を運転したが緊張した。何故なら、私はペーパードライバーだからである。無事に、友人達の命を守ることが出来て良かった。
休みの日には、山を降りて一人で松本市内まで遊びに行った事もある。「松本城」を観に行った。帰りに近くに「PARCO」があったので、寄って帰ろうと思ったが「臨時休館」だった。そんなことがあるのか。何故か、行く先々で臨時休業や年中無休を謳っている施設の休館日を引き当てることが多い。運が良いのか悪いのか分からない。事前に調べていても、休業日を引き当てることが多いので、事前に営業時間を調べるのは辞めることにした。
そんな研修期間を経て、勤務体制が過酷だった為「私はホテルで働くのは向いていないかもしれない」とこの時思った。だが、給料は二十万近く貰えた。初めてこんな大金を稼いだ。頑張りが認められた気がした。
専門学校時代に、名古屋市内のホテルでアルバイトした事もある。有名ホテルだ。「ベルスタッフ」と言う、職種だ。
業務内容は、お客様への館内案内や、荷物の一時預かり、部屋までの荷物運搬、お客様からフロントへ要望があった備品の調達•お届けなどだ。大変だったが楽しかった。
館内フロアを暗記することに一番苦労した。間違いなく、正確に案内しなくてはいけない為だ。メモ帳に各フロアの宴会場の位置や、クローク、お手洗いの場所、喫煙所など書き起こした。
ある程度の価格帯のホテルだった為か、利用者の客層は良かった。同僚はチップを貰うこともあったと言う。日本ではチップ文化がないが、外国の利用者も多かったホテルだった為、上司から「建前上、一度は断りを入れるが、それでも渡そうとしてくる方の拒否はしなくても良い」と事前説明があった。そのチップはどうするのか。自分のお小遣いだ。私もチップを貰えないか期待し業務に励んだが、期待も虚しくチップは貰えなかった。掛け持ちでアルバイトしていた為、勤務日数が少なかったからだと思っている。
就活では専門学校だった為か、周りが内定を貰うのが早く焦っていた。
勿論、ホテルも受けた。第一希望は、市内の一番有名なホテルだった。一次選考を受けた後で、「御祈りメール」がきた。御祈りメールというのは、選考結果で良くない結果だった時に企業側から送られてくるメールのことである。文末の最後に、「貴殿の益々のご健勝をお祈りしております」という様な言葉を添えられるので、巷でそう呼ばれている。甚だ、図々しいと私は思う。御祈りされても、知らんがなと。
美容関係も並行して受けた。確か、三次選考か最終選考までは進んだ。結局、一番最初に内定を貰った企業に就職することにした。小売業界だ。
両親の思いも虚しく、私は学んでいた専攻とは関係のない業界に就職することを決めた。
だが、学んだことが全く活かせなかった訳ではない。専門学校で学んだことは現在も活かせている。特にホスピタリティの精神やマナーだ。
専門学校は高校時代同様に充実していた。今でも時々連絡を取り合ったり、遊んだりする友人にも恵まれた。ネイルやマツエクといったようなお洒落も楽しんだ。初めて彼氏という存在が出来たのも専門学校時代だ。
卒業旅行は、仲の良い友人達とフィリピンのセブ島へ行った。治安を心配していたが、セブの人達は、皆、温かくフレンドリーだった。現地のマックで、セットを頼んだが、確か当時の物価はセットひとつ、日本円で百九十円程だった。安すぎる。それから、日本には無いパイナップルジュースもあった。これが、本当に美味しかった。日本のマックにも、導入してくれないかと密かに願っている。友人達は、クレジットカードも利用するとのことだったが、私は全て現金で補うことにした。合計で11,500ペソ換金した。が、当時フィリピンに持っていける現金は、10,000ペソまでだった。どうしようかと考えたが、友人達に過剰な分を託すことにした。無事に入国することができたので良かった。10,000ペソは日本円で幾らぐらいなのかと言うと、当時のレートで二一〇〇〇円くらいだ。
一人暮らしも、当然人生で初めてのことだった。生活するのは楽ではない。両親は学費と携帯代は出してくれた。だが、「生活費までは補えない」と言われていた。当然だ。弟もいる。
私は奨学金を借りつつ、アルバイト代と合わせて生活費と娯楽費を賄った。正直、奨学金を借りずに通学している同級生達を羨んだ。だが、「地元を離れて名古屋に行く」と決めたのは自分だ。羨んでも仕方ない。一人暮らしを始めた時の家電は、リサイクルショップで揃えることにした。住まいは、学生マンションだ。家賃は一ヶ月、三万五千円。1Kの間取りだった。バストイレは別れていなく、ユニットバスだった。洗濯機置場は備え付けられていなかった。住人で共有の洗濯機があった為、そこで洗濯をして二年間やり過ごした。
佳織に言われたことがある。「エスカレーターで短大に進んでいたら奨学金借りずに済んだかもしれないね」と。そう、私が通っていた高校は付属の短大と大学があったのだ。愕然とした。受験期間は地元を離れたい気持ちの方が強かったが、「その手もあった」と。しかし、後悔はしていない。親の目を離れて、ある程度好き勝手出来たからだ。友人と深夜近くまでカラオケや女子会を楽しんだこともある。一人暮らしの経験は両親のありがたみがより分かった経験だった。
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