高校時代②
「ジャニオタ」の私は、この頃からライブに出来るだけ行きまくった。田舎なので、自分の住んでいる県には中々来てくれない。県外遠征をする事が多かった。名古屋や、大阪だ。時には東京へ行った事もある。高校生だ。未成年だし、親の監督責任がある。それでも、両親は行かせてくれた。渋い顔をしていた時もあったが。当たり前だ。子を想えば、心配で仕方がない。ある程度の放任主義でいてくれて、感謝している。おかげでジャニオタ生活を楽しめた。
納得のいかない校則も多かったが、高校生活はとても楽しく充実していた。友人にも恵まれた。女子校という響きで、怖気付く者もいるだろう。「いじめ」があるのでは無いかと。私も入学するまでは、そう思っていた。私が思うに、目に付く「いじめ」は無かったと思う。異性がいない為か、皆良いも悪いも自由奔放だった。自分の趣味が合う者同士で、グループが出来ていた。
もしかすると、自分にとっては悪気のない言葉や行動で、誰かを傷付けた事はあったかも知れない。本人に届くことは無いだろうが、自分の行動をここで反省する。アルバイトがバレたのもバチが当たったのだろう。
初めて海外に行った経験も、高校時代だった。希望制でオーストラリアに、現地の小学校に通う生徒のお宅で「ホームステイ」の経験ができた。一緒に現地の小学校に通うというプランだった。現地で同じ授業を受ける訳では無く、オーストラリアの歴史や、文化を学ぶ特別授業を受けることができる内容だった。
高校三年生の頃だった。洋楽や洋画にもハマっていた私は、希望した。海外の文化に興味があったのだ。両親が貯めていてくれた「お年玉貯金」から費用を捻出した。希望する者は、三年生の選択授業の時間で、英語の科目が、他の同級生より一つ増えた。ホームステイに向けた準備期間だ。外国人の講師に、「Thank you」の発音を褒められた。嬉しかった。人生で初めての「パスポート」も手に入れた。兎に角、楽しかった。期待しかなかった。田舎道に、向日葵が咲き誇る時期のことだった。いざ日本を離れる日、バスや電車に揺られた後「中部国際空港」から離陸した。あまり飛行機に搭乗した経験が無かった私は、期待もあったが、この時ばかりは不安の方が大きかった。中学時代の修学旅行を含めて、人生で二回目くらいの経験だ。
タイでトランジットがあった。タイの空港は、スパイスの香りが充満していた。記憶が曖昧だが、乗り継ぎまで時間があった為、一時タイの空港を出てホテルで休息を取った。空港で買った「ドラゴンフルーツ」を人生で初めて食べた。あまり美味しく無かったように思う。「美味しいドラゴンフルーツを食べてみたい」その夢は、未だ叶えられていない。空港で再度チェックインする際に、問題が発生した。一緒に行っていた同級生含め、何故かチェックインが出来なかったのだ。引率の先生が、現地の空港職員と会話をし、無事チェックインする事ができた。この時「やっぱり、英語が喋れるって凄い、世界が広がるんだ」と思った。そんなトラブルもありつつ、タイを離陸した。そして無事に、オーストラリアに着陸した。正直、機内での過ごし方は覚えていない。緊張しながらCAさんに、英語で「どちらの食事の方がいい、この飲み物が欲しい」と言った記憶しかない。
私が行った地域は、ブリスベンより少し下の、バイロン•ベイと言われる地域だった。緑が溢れ、空気が美味しい地域だ。オーストラリアは親日家の人が多く、日本人と結婚している家庭も多い。基本的に、おおらかな性格の人が多い国だ。最初の頃は、日本とのカルチャーショックを受けた。時間に適当な人が多いのだ。と言うより、余り気にしていないの方が正しいかも知れないが。
自分がお世話になるホストファミリーと、初めて対面した。事前にEメールで連絡は取り合っていたが、緊張していた。ホストファミリーには恵まれた。ホストマザーは優しく明るい方で、ホストファザーは寡黙な方だった。女の子二人の姉妹が居る家庭だった。金色の髪と、翡翠の瞳が羨ましかった。休みの日には、ショッピングや食事に連れて行ってくれた。海外のスーパーに初めて行き、興奮したことを覚えている。海外仕様の「バービー人形」を買った。日本に帰り、自部屋に飾る為だ。現地の「ピザハット」にも連れて行ってくれた。日本では、持ち帰りかデリバリーのピザ屋が主流だが、現地ではブュッフェ形式で食事をいただけた。ピザだけでなく、パスタやサラダなんかもあったような気がする。
ある日、学校の授業関係で、普段より早めに学校に向かわなければならない日があった。私は当時、拙い英語で一生懸命ホストマザーに伝えた。
次の日、意図せず遅刻してしまった。バタついていたのだろう。朝は忙しい。ホストマザーは、学校まで車で送ってくれた。しかし私は、「どうしよう」という焦りから到着次第、思わず泣いてしまった。慣れない土地で不安もあったのだ。前日に一生懸命伝えたつもりだったが、「私の英語力では伝わっていなかったのか」と愕然とした。私の焦りとは反対に、引率の先生や現地の講師は慰めてくれた。「大丈夫だよ。国民性で皆余り気にしないから。」と。「No problem. Don’t worry.」が口癖なのだと。その言葉に私は安心したが、「ホストマザーに泣き顔を見せてしまい嫌な思いをさせたかも」と、今度は別の心配が出てきた。ホストマザーは、私に明るく接しながら「言っていたことは理解していたんだけど、朝バタついてしまって遅れちゃってごめんね。」と謝ってくれた。本当に優しい人だ。
特別授業は、とても楽しかった。現地の先住民族の話も聴くことができたし、マリンスポーツ体験や、野生動物公園の「カラビン•ワイルドライフ自然保護区」にも行くことができた。コアラを抱っこできるアクティビティがあったが、思ったより費用が高かったので断念した。
二週間程の滞在だったが、とても良い経験になった。オーストラリアという国が、とても好きになった。再度「行ってみたい」とも思っている。英語も日常会話程度は喋れるようになったと思う。しかし、二週間程の滞在で、体重が三キロ程増加した。恐らく食事内容だろう。「日本食はヘルシーなのだ」と思った。
ところで、私の英語力はどのくらいなのかと言うと、英検準二級を高校時代に取得できたレベルだ。一見凄いように思うかもしれないが、英検は海外では役には立たない。何故なら、日本の資格だからだ。受けるのなら「TOEIC」か「TOEFL」をお勧めする。
高校時代の話が異様に長くなったが、それ程充実していたということだ。校則は厳しかったが、校舎は綺麗だったし、化粧や携帯電話の使用は学校祭では認められていた。学校内に、生徒も使用可能なエレベーターもあった。トイレの掃除もしたことは無い。専任の掃除の人が居たからだ。私立だった為か、先生もノリが良く、個性的な人が多かった。総じて、高校時代はとても楽しかった。
中学校時代に、内申点に悩んだと記したが高校時代の受験期はどうしたのか。AO入試を選択した。早々に入試が終わり、無事に合格を貰えた。
内申点を上げる為に私は、二年生の終わり頃から「手芸部」に入部した。これまでは、晩年帰宅部の高校生アルバイターだったが。当時のジャニオタの間で流行っていた、「ミニドレス」を制作した。「裁縫が楽しい」と思えた出来事だった。ボランティア活動ができる委員会にも所属した。「愛の傘運動」とかそんな様な名称だったかと思う。無人駅や商業施設に、街行く人が誰でも使用することのできる傘の寄付を募り、提供した。そういった取り組みの成果が、入試結果に現れたのかもしれないと思っている。
大学進学組にとっては、当時の自分の存在が鬱陶しかっただろうと思う。あの頃は、自分さえ良ければいいと思う気持ちの方が大きかったので、周りへの配慮に欠けている人間だった。今は、切磋琢磨して受験勉強に取り組んでいた同級生に対して、申し訳なく思っている。そんな高校時代を過ごした私だが、中学の受験期間に戻るとしたなら、きっと同じ高校を再度選ぶだろう。
さて、私の性格はクソ真面目であると自負しているが、高校時代の話からも分かるように決して「優等生」だった訳ではない。成績は中の中だ。数学や物理、化学といった理数科目は大の苦手だ。赤点を取った事もある。スポーツも苦手だ。球技大会では、バレーのサーブが打てなくて同級生に笑われた。生徒会に所属したことは無いし、学級委員長も務めたことは無い。責任を伴う役は、得意では無いのだ。
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