高校時代①
話は高校生時代に移る。夢にまで見た「華の女子高生」である。それはそれはワクワクした。
進学した高校は、県内で唯一の女子高校だった為、不安もあったが期待の方が大きかった。
まず入学して驚いたことは、校則が厳しすぎた。男女交際禁止だったのだ。平成後期にだ。何故禁止されていたのかは理由があったのだが、この時代に男女交際禁止な事に驚愕した。女子校だった為、同年代の異性との出逢いもなく、別に問題はなかったのだが。だがしかし、憧れはある。少女漫画にも人並みに夢中になった為だ。「ヒロイン失格」と「今日、恋をはじめます」が特に好きだった。どちらも映像化されている作品だ。「ヒロイン失格」は今でも時々読む。作中に出てくる「弘光くん」が、とんでもなくいい男なのである。そんなことはどうでもいい。男女交際がバレるとどうなるか。停学だ。幾ら何でも厳しすぎるだろう。
男女交際禁止の他にも、厳しい校則があった。校内での携帯電話の使用は、認められていなかった。学校の敷地に入る前に、電源を切って鞄にいれておくことが規則だった。私が初めて携帯電話を持たせてもらえたのは、高校生になってからだ。憧れの携帯だ。使いたくて仕方がない。先生の目を盗んでは、校内でも使用していた。使用していたのは、私だけではない。同級生の大半は、休み時間や放課後に、SNSや写真を撮るなどしていた。ある日、同級生の一人が電源を切って鞄にしまうことを忘れており、授業中に着信音がなったことがあった。その子は必死でどうにかしようと、自分の鞄を足で蹴っていた。だが、そんな事をしたところで着信音が鳴り止むはずもなく、その場で没収された。不可抗力だ。「使用している最中に見つかった訳でもないのに、可哀想だ」と思った。そんな私はどうだったのか。二回没収された。没収された経緯までは覚えていないが、二回目に没収された時に、三日程度携帯が帰ってこなかった。暇で暇で、仕方がなかった。三回か四回没収されると、卒業するまで返却されない規則だったように思う。
校則は他にもある。私は「紺ソックス」を履きたかった。「ルーズソックス」は、ギャルの女子高生の定番アイテムだ。ルーズソックスも憧れがあったが、少し上の世代に流行った品だった。私の世代は、紺ソックスが当時の雑誌に載っている、洗練された女子高生スタイルだった。流行りに乗りたかった。だが、校則で決められていたスタイルは、「白ソックス」だった。嫌で嫌で仕方がなかった。少しの抵抗で、キャラクターのワンポイントが入った白ソックスを着用していた。ワンポイントは認められていたのだ。後に、制服が新しくなることを知った。しかも、私が憧れていた紺ソックスだった。新制服に身を包む、下の世代のことを羨ましく思った。スカートの長さは膝下、肩につく髪は結ぶことが規則だった。そんな規則守れる訳がない。校門でチェックされた後は皆、スカートは膝上に上げ、髪は解いていた子が殆どだった。私もそうだった。三年生の生物の授業の担当は、当時の生徒指導部長だった。その時だけは、クラス中規則通りのスタイルにしていた。滑稽である。その先生の授業は、普段に似つかずとても面白かった。正にギャップだ。
学校鞄は指定された品だった。これが、微妙にダサくて嫌だった。サブバックは指定の品がなかった為、皆個性を出していた様に思う。指定鞄でどう個性を出すか。それは鞄に付ける「キーホルダー」だ。多種多様なキーホルダーを、鞄にそれぞれ付けていた。入学した頃は、個数も種類も何でも認められていた。だが、在籍途中で「鞄に付けるキーホルダーは、拳に収まるサイズで一つまで」と決められた。生徒達の間で、「ふざけるな」と反感を買った。その校則だけは、今でも理解できかねる。
化粧も染髪も禁止されていた。華の女子高生だ。化粧も染髪もしたい。私は、裸眼に見える「カラコン」を着用していた。バレたら呼び出しなのだが。今思うと、裸眼に見えるカラコンなんて意味の無い様に思う。三年生の冬季休暇の間、私は髪を染めた。薬局で染髪剤を購入し、セルフで染めた。初めて髪を染めた時の衝動は、忘れられない。とてもワクワクして輝いた。あろうことか、休暇明け私は、そのまま学校に登校したのだ。「少し茶髪になったくらいだし、いけるだろう」と高を括っていた。甘い。担任に即バレした。だが、担任は緩かったので、その場で処罰はなかった。「卒業式前の頭髪検査までには直してこいよ〜」と笑いながら咎められた。助かった。黒染めして卒業式に挑んだ。だが、黒染めだけはお勧めしない。黒染めすると、次に染髪する時に上手く色が入らないのだ。美容師泣かせになる。
当然、「アルバイト」は許可制だった。私は自宅から学校が離れていた為、バス通学だった。田舎のバス代は高い。電車の駅は、隣の学区まで行かなければない。それに本数も少ない。バス代を稼ごうと「アルバイトをしよう」と思った。無論、許可申請もした。だが却下された。それならばと、「自転車通学を認めてくれ」と懇願した。自転車通学が認められるか、認められないかギリギリの範囲に自宅があった為だ。結果、自転車通学になった。冬季期間以外は。十キロ程度あった。農道を走っていると、小さい虫が目や口に入る。とても不快だ。十キロ程度ある距離を、当時は涼しい顔で漕いでいたが、今では考えられない。十代の体力は化け物だ。
しかし、私は学校には黙ってアルバイトを始めた。両親からお小遣いも貰えていたが、衣服代や化粧品代、趣味に使うお金の事を考えれば足らなかったのだ。人生で初めてのアルバイトは、ファミレスのキッチンだった。当時の時給は、七百五十円。三ヶ月程度で辞めた。凄く忙しい店舗だったのだ。皿洗いから始まり、パスタや前菜などを担当するポジションを任された。ひっきりなしに入る注文に、私は焦りまくった。それに、パートのおばさんに、料理が出るまで何分掛かったか嫌味たらしく言われた。「マルチタスクは向いていない」と悟った。店長に「学校にバレた」と言って辞めることにした。店長は私を引き留めた。「バレたのならお客様入り口からでは無く、裏から入ればいい」と。しかし私は、早く辞めたかった。結局、父の篤史に間に入ってもらい辞めた。電話で店長に、小言を言われた様に思う。
次に私は、個人経営のお蕎麦屋さんでアルバイトを始めた。とても楽しかった。此方も人気店で、忙しくはあったが充実していた。店主や奥さんも人柄が良かった。それに、賄いが食べられた。基本的に品切れの商品以外は、何でもよかった。私は茄子が苦手だったのだが、賄いで頂いた茄子の天麩羅を食べて、茄子嫌いを克服した。本当に美味しかった。卒業するまで続けたかった。
しかし、ある日私は先生に呼び出されたのだ。高校二年生の終わり頃だったかと思う。「カラコンかアルバイトがバレたのだ」と思った。アルバイトだった。当時の担任と生徒指導の先生含め、三人程に理由を聞かれた。私は「何て誤魔化そう」と思った。事前に許可申請をしていた経緯もあり、冬季のバス代を稼ぐ為と、弟の柊哉も私立の高校へ進学が決定していたので、それを理由に再度、許可を求めた。尋問中は泣いていた。勿論、バレたことの恐怖もあったが、カラコンがズレて痛かったのだ。何故バレたのか。それは未だに不明だ。お蕎麦屋さんで、学校関係者を接客した記憶はない。恐らく、私のことを良く思っていなかった同級生が、告げ口したのではないかと思う。そんな経緯を経て、私は無事許可を貰えた。
許可があれば、表立って出来る。私はドーナツショップでの、アルバイトを始めた。ここの店舗も忙しかった。当時は「百円セール」なるものがあった。大学生の人が来るまで、社員と私の二名体制だった日もある。地獄だった。お会計してもしても、列が途切れない。トレーやトングも、洗い場にどんどん溜まっていく。隙を見ては、洗い場に入ったが、トレーやトングの拭きが甘く、半乾き状態のまま売場に戻した。お客様に怒られた。「トレーとトング濡れているんだけど」と。私は「この状況が分からないのか」とイラッとした。そんな事もあったが、ドーナツショップでのアルバイトも楽しかった。卒業まで続けた。
お金を稼ぐ事の厳しさと、達成感を味わった。バス代も支払ってはいたが、稼いだお金は殆ど趣味に費やした。
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