和を以て貴しとなす-結

柿本さんの言葉は、冷たい氷のように私の耳に突き刺さりました。


「住人たちが…殺害した…?」 『あくまで仮説だよ。でも、状況証拠は揃いすぎてる』


私の頭は、一瞬、真っ白になりました。 「殺害」。その一言が、あまりにも現実味のない響きを持っていたからです。 私は、あの「コーポ和」の光景を必死に思い出していました。 清潔すぎる廊下。きっちりと刈り込まれた植え込み。塵一つ落ちていないエントランス。 そして、あの201号室の老人の、穏やかで、今の平穏に心から「感謝」しているように見えた、あの顔を。 103号室の主婦の、人の良さそうな、あの笑顔を。 あの人たちが? あの「和」を体現したような人たちが、手を汚した?


あの「感謝」は。 殺人に、対するものだというのでしょうか。 自分たちの「平穏」を取り戻すために、邪魔な人間を「排除」したことへの、歪んだ感謝だと?


柿本さんは、そんな私の混乱を意にも介さず、いつもの面倒くさそうな口調を完全に消し去り、淡々と、しかし異様な熱を帯びた声で続けます。


『時系列を整理しよう。五年前、アパートには「害悪」と呼ばれるほどの迷惑な住人がいた。部屋は204号室。奇しくも、裏庭を見下ろせる、あそこだ』 「はい…老人の話では、夜中に騒ぎ、ゴミを散らかし、共用部でタバコを…」 『そう。絵に描いたようなトラブルメーカーだ。住人たちは、彼を追い出そうと画策していた。201号室の老人が言った通り、「いつか追い出してやろうと、皆で話し合っとった」。これは、単なる愚痴じゃない。積極的な「排除」の意思だ』 「……」 『そして、ある日、その迷惑住人が『消えた』。ちょうど、近所で通り魔事件が起きた、その直後に』 「…夜逃げのように、と老人は言っていました」 『そう。ここがミソだ。世間の目、警察の目が、すべて「通り魔事件」に向いている、絶好のタイミングだ。そんな時に、アパート内で少々「大きな音」がしたところで、あるいは「不審な動き」があったところで、すべて通り魔の警戒のせいだと言い訳ができる。警察も、まさかそのアパートの中で、通り魔とは『別』の殺人事件が起きているなんて、夢にも思わない』


柿本さんの言葉が、私の頭の中で、おぞましい光景を組み立てていきます。 住人たちが、あの男の部屋に押しかける。 「いい加減にしろ」「出ていけ」 男が逆上する。「うるせえ」「家賃払ってんだろ」 もみ合いになる。 誰かが、突き飛ばす。あるいは、何かで、殴ってしまう。 打ち所が悪かった。 ……動かなくなった。 その場にいた住人たち。管理人。 彼らの間に、一瞬の沈黙が落ちる。 そして、誰かが言うのです。「…外は、通り魔で騒がしい」と。


『そして、その直後から、管理人によって異常な規則が作られ、住人たちは『感謝』してそれを受け入れた。なぜか。彼らの「地獄」が終わったからだ。そして、もう二度とあんな「害悪」を生まないために、そして…彼らの「秘密」を守るために』 「秘密…」 『ああ。さらに、血液や体液の除去に特化した、業務用の特殊洗剤が、清掃用具として導入された。紀淡くん、考えてもみてくれ。通り魔の返り血が廊下に垂れた? それを隠すため? そんな微々たるもののために、食肉処理場で使うようなオーバースペックな洗剤が必要か? 違う。あれは、もっと…もっと大量の「汚れ」を、それこそ、部屋の床や壁紙に染み付いた何かを、根こそぎ消し去るために必要だったんだよ』


私は、あの103号室の主婦の言葉を思い出していました。 「(犯人は)捕まりましたし」 あの動揺した「勘違い」。


「柿本さん。103号室の主婦が言った『犯人は捕まった』という失言…。あれ、もしかして、通り魔事件の犯人のことじゃなくて…」 『…ああ。その通りだ。僕もそこがずっと引っかかってた』柿本さんの声が、確信に変わっていきます。『彼女は、世間一般のニュース(通り魔事件)と、アパート内部の「ニュース」を混同したんだ。彼女たちにとっての、アパートの「平穏」を乱した「犯人」…つまり、あの迷惑な204号室の男。彼が『いなくなった』(=捕まった、あるいは処理された)と、そういう意味での『捕まった』だったとしたら?』 「…!」


だとしたら、彼女のあの尋常ではない動揺も、すべて理解できます。 住人たちの間でしか通じない「隠語」が、あるいは「共通認識」が、うっかり外部の人間(私)の前で出てしまったのです。 彼女にとって、「犯人」=「204号室の男」であり、彼は「捕まった」(=処理された)というのが、「事実」だったのです。


『そして、最大の謎。204号室だけが、その後、異常に入居者が入れ替わり続ける』 柿本さんは続けます。 その声は、まるで検事が起訴事実を読み上げるかのように、冷たく、正確でした。


『紀淡くん。君は、204号室の住人が「何かを見てしまった」から引っ越す、と考えていたよね。僕もだ。裏庭に埋められた死体か、凶器か。それを窓から見てしまった、と。でも、逆かもしれない』 「逆、ですか?」 『うん。もし君たちが、人を殺して、その死体を自分たちの敷地内に埋めたとする。そして、その現場が丸見えになる部屋が一つだけある。君なら、その部屋、どうする?』 「どうする、って…私なら、怖くてもう誰も住まわせません。空室に…いえ、窓を板で打ち付けて、物置部屋にします」 『だろ? でも、彼らはそうしなかった。それどころか、必死で次の入居者を探し続けた。五年間で八回も。まるで、あの部屋が「空室」になることを、極度に恐れているみたいだ』 「空室に、できない…?」 『ああ。あの部屋は、住人たちにとって「聖地」であると同時に、「呪われた場所」なんだ。彼らの「平穏」を取り戻すキッカケになった場所。そして、「罪」を犯した場所』


「…分かりません。どういうことです?」 『彼らは、あの部屋を「空室」にしておくわけにはいかないんだよ。なぜなら、彼らが隠した「痕跡」は、時間と共に「浮き出てくる」かもしれないからだ』 「浮き出てくる…?」 『そう。例えば、壁紙の下に染み込んだ血痕が、湿気で滲んでくるとか。床板の隙間から、あの特殊洗剤でも消しきれなかった臭いが、ふとした瞬間に蘇るとか。あるいは、裏庭の「墓場」。雨が降った後、土が沈んで、何かが見えてしまうとか』


私は、あの清潔すぎるアパートを思い出しました。 すべてが管理され、監視されている空間。


『だから、あの部屋には「信頼できる人間」を住まわせる必要があった。常に「見張り」を置くために。裏庭の「墓場」を見張るため。そして、定期的に部屋を「清掃」し、隠したはずの痕跡が、時間の経過と共に浮き出てこないかを、内部から確認するために』 「信頼できる人間…? でも、八回も入れ替わってるんですよ?」 『そう。そこが彼らの誤算だったんだろう。最初は、古くから住んでいる住人の親戚とか、管理人の知り合いとか、そういう「内輪の人間」、秘密を共有できる「仲間」を住まわせようとしたのかもしれない。あるいは、新しく入ってきた人を「仲間」に取り込もうとしたか。でも…』 「でも…?」 『普通の人間なら、耐えられないよ。自分が住んでいる部屋が、かつて殺人があった場所(かもしれない)で、しかも、その窓から見える裏庭には、自分が殺害に関わった(あるいは、見て見ぬふりをした)人間の死体が埋まっている(かもしれない)んだ。おまけに、他の住人からは「ちゃんと見張ってるか」「ちゃんと掃除してるか」「何か変わったことはないか」と、常に監視される』


それは、生き地獄です。 204号室の住人は、幽霊に怯えていたのではありません。 「仲間」であるはずの、他の住人たちの、冷たい「目」に怯えていたのです。 想像してみてください。 九人目の「仲間」として、あなたが204号室に入居する。 「よろしくお願いしますね。何かあったら、すぐに管理人さんに」 住人たちは、にこやかにそう言います。 しかし、その目には、「裏切るなよ」という圧力がこもっている。 夜、一人で部屋にいると、ふと、床のきしむ音がする。 (この床の下に、まだ何かが残っているんじゃないか?) 雨が降る。窓から裏庭を見る。 (土が、流れていないか? 何か、見えていないか?) 日曜日の清掃当番。あの特殊洗剤を手に、部屋を磨き上げる。 (これは、ただの掃除じゃない。証拠隠滅の、儀式だ) ゴミ出し場で会う103号室の主婦。 「204号室さん、変わりない? 部屋、ちゃんとお掃除してる?」 あの笑顔が、監視の目にしか見えなくなる。


「だから、誰も長くは居つけなかった…。罪の意識か、あるいは住人同士の監視の重圧に耐えられなくて…」 『そういうことだろうね。五年間で八回。彼らは必死で「仲間」をあの部屋に送り込み続けたけど、全員が精神を病むか、恐ろしくなるかして、逃げ出していった。清水さんが入居した時、あの部屋は九人目の入居者を待つ空室だったか、あるいは八人目の住人が精神をすり減らしていた頃か…』


これで、すべての伏線が、恐ろしい一本の線として繋がりました。


私は、あの「入居のしおり」をもう一度、頭の中で見返しました。 びっしりと並んだ、冷たい明朝体の文字が、今や、まったく別の意味を持って私に語りかけてきます。


・『特殊アルカリ性洗剤(品番XXX)』(伏線C) 殺害時、あるいはその後、204号室や共用部に残った大量の血痕を消すためのもの。そして、月一回の当番制清掃は、隠蔽工作の痕跡が浮き出てこないかを、住人全員でチェックする「儀式」でもあったのでしょう。「和」を守るための、共同作業。


・『アパート敷地内(特に裏庭)での立ち入り禁止』(伏線B) そこには、「害悪」だった迷惑住人の死体が埋まっているから。管理人が「雑草が生えると面倒」と言っていた、あの不自然に湿って見えた土の下に。あの湿り気は、もしかしたら…。


・『日曜午前九時の一斉換気』(伏線A) これは、当初推測したような、単なる安否確認ではない。あるいは、殺害直後、アパート全体に漂ったかもしれない「臭い消し」(死体の腐臭や、特殊洗剤の異臭など)の名残だったのかもしれません。そして今は、柿本さんが言ったように、住人同士の連帯感と相互監視を確認する儀式。「我々は皆、日曜九時に、同じ行動(換気扇を回す)を取る仲間だ」「我々は、この秘密を共有する共犯者だ」と。


・『来客届』『ゴミ袋のチェック』 警察や、私のような部外者が、アパートの「秘密」に近づくことを極度に恐れているから。ゴミに、何か証拠となるようなものが紛れていないか。来客が、何かを嗅ぎ回る人間ではないか。そのための、徹底的な監視。


・『204号室の頻繁な入れ替わり』(伏線D) 「見てしまった」からではなく、「見張る」ために仲間を住まわせようとしたが、誰もその「共犯者」としての重圧に耐えられなかったから。


・『住人の異常な態度』(伏線E) 彼らは「平穏」を手に入れたことに「感謝」している。その平穏を守るためなら、規則も、隠蔽も、喜んで受け入れている。自分たちは「害悪」を排除したのだ、という歪んだ「正義感」すら持っているのかもしれません。


私は、ぞっとしました。 彼らは、自分たちの「和」を守るために、人を殺した。 そして、その罪を、通り魔事件という「偶然」に乗じて隠蔽し、今もなお、アパート全体でその秘密を守り続けている。 あの清潔すぎる空間は、すべて、一つの死体を隠すためだけに磨き上げられていたのです。


「柿本さん。これ…警察に、言うべきですよね」 私の声は、自分でも驚くほど震えていました。


『…どうだろうね』 柿本さんの声は、意外にも煮え切らないものでした。 『五年前の殺人事件だ。証拠は? 君の推理と、僕の調査だけだ。あの特殊洗剤も、それだけじゃ証拠にならない。裏庭を掘り返す? それこそ、確たる証拠がなければ警察は動けないよ。不法侵入と器物損壊で君が捕まるだけだ』 「でも…!」 『それに、もしこれがすべて事実だとして、だ。今、あのアパートで「不幸」な人間はいるのかな?』 「え…」 『迷惑な住人はいなくなった。残った住人たちは、厳しい規則の下で、静かで「平穏」な暮らしを手に入れている。彼らは、今の状況に満足し、「感謝」さえしている。彼らの『天国』を、君が壊すのか?』


柿本さんの言う通りでした。 あの「害悪」だった男が消えたことで、アパートには完璧なまでの「調和」が訪れたのです。 法的には許されない、血塗られた調和が。


『もちろん、法的には許されないことだ。でも、「和を以て貴しとなす」という、あの国に古くからある「規範」を、彼らは究極の形で実践した、とも言えないか?「和」を乱す異物を、共同体(ムラ)全体で排除したんだ。昔から、この国で繰り返されてきたことだよ』


私は、何も言い返せませんでした。 私が暴こうとしていたのは、一人の殺人鬼ではなく、「共同体」そのものだったのです。


「清水さんには…何と?」 『さあね。清水さんは、もうあのアパートとは無関係だ。「異常なアパートでしたね。でも、理由は分かりませんでした」とでも言っておくのが、彼女のためでもあり、あるいは、紀淡くん、君自身のためでもあるんじゃないか』 「…私のため」 『そうさ。君がこの仮説を公にしたら、次に消されるのは君かもしれない。あの「和」を乱す、新しい「害悪」としてね』


柿本さんは、それだけ言うと、「ま、あとは君が判断しなよ。僕はもう寝る」と電話を切りました。


私は、結局、この件を警察に話すことはしませんでした。 柿本さんの言う通り、証拠がなさすぎた。 そして、もし私の推理が間違っていた場合、あの「平穏」に暮らす住人たちを、根拠なく傷つけることになると思ったからです。 …いいえ。 本当は、怖かったのです。 あの、アパート全体を覆う、冷たい「和」の空気に触れるのが。あの「輪」の内側にある、暗い秘密に、これ以上近づくのが。 彼らの「天国」を乱す「害悪」として、あの住人たちに、あの能面のような管理人に、認識されることが、恐ろしかったのです。


数日後、私は清水さんに電話をかけました。 「清水さん。紀淡です。あの後のことですが…」 『あ、紀淡さん! 何か分かりましたか?』 「…ええ。私なりに、住人の方何人かにお話を伺ってみたんです。やはり、清水さんが感じられた通り、独特の雰囲気がありました」 『ですよね!』 「どうやら、柿本さんの調査でも分かったのですが、五年ほど前に、非常にマナーの悪い住人の方がいたそうなんです。204号室の方らしいのですが」 『ああ…私の真上の…』 「ええ。その方のせいで、住人全員が大変な迷惑を被った、と。それがトラウマになって、あのような過剰な規則が生まれ、住人同士が、ある種の相互監視のような状態になっている…。それが、あの息苦しさの正体だと思います」 『そう、だったんですね…。じゃあ、何か事件とか、そういうのじゃなくて…』 「はい。事件性のようなものは、見当たりませんでした。ただ、行き過ぎた潔癖症と、過去のトラウマが生んだ、歪んだ共同体意識、とでも言うべきものでしょう。清水さんが引っ越されたのは、本当に正解だったと思います」 『…そうですか。理由が分かって、少しだけスッキリしました。でも、やっぱり気味が悪いですね…。紀淡さん、本当にありがとうございました』


私は、当たり障りのない嘘をつきました。 「事件性はない」という、真っ赤な嘘を。 清水さんは、「そうですか…まあ、スッキリはしないけど、引っ越して正解でした」と、納得したような、しないような顔で頷いていました。


私のブログにも、この話は書けませんでした。 PCを開き、ワードプロセッサを立ち上げ、「コーポ和の歪んだ調和」とタイトルを打ち込みます。 「和を以て貴しとなす。だが、その『和』が、もし血に塗れていたら?」 そこまで書いて、私は指を止めました。 画面の中の文字が、まるで私を告発しているかのように見えます。 「お前は、何を知った?」 「お前は、それを暴くのか?」 「お前は、我々の『平穏』を乱すのか?」 あの管理人の、201号室の老人の、103号室の主婦の顔が、次々と浮かんできます。 私は、書いた文字をすべて、デリートキーで消去しました。 そして、ファイルを保存せずに、PCを閉じました。 沈黙を選ぶことで、私もまた、彼らの「輪」の一部になってしまったのかもしれない、と思いながら。。 その輪の内外から、自身たちを守るためにものなのかもしれない。

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言葉の根 ことわざが導く物語 れおりお @reorio006853

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