和を以て貴しとなす-転
「血液や、体液のシミを落とす洗剤…」
私は、柿本さんの言葉をオウム返しに繰り返していました。受話器を握る手に、じっとりと汗が滲みます。食肉加工場。手術台。そのイメージが、あの清潔すぎる薄ベージュ色のアパートの外壁に、べったりと重なりました。
電話の向こうで、柿本さんは「そういうこと」と短く答えます。
「それって…。あの、通り魔事件の被害者は、一命を取り留めたんですよね? 現場は路上ですし、アパートの敷地内で大量に出血があったとは考えにくい…」 『うん。だから、被害者の血、じゃない。もしアパートの敷地内に血痕が残っていたとしても、それは犯人が返り血を浴びて、逃走中に滴らせたもの、とか…?』 「でも、それなら警察の鑑識がとっくに見つけているはずじゃ…」 『そうなんだよ。そこが分からなかった』柿本さんの声にも、苛立ちが混じります。『だから、警察の捜査が終わった『後』に、住人たちが血痕を見つけて、それを隠蔽するために、わざわざ業務用の特殊洗剤を取り寄せて、当番制で掃除してる…? いや、意味が分からない。通り魔の犯人を、アパート全体で庇う義理がどこにある?』
柿本さんも混乱しているようでした。 通り魔事件と204号室の謎、そして特殊な洗剤。 これら三つの要素が、どうにもうまく噛み合わないのです。バラバラのピースが、お互いに反発しあっているような、奇妙な感覚でした。
『…紀淡くん。もしかしたら、僕らは前提を間違えているのかもしれない』 「前提、ですか?」 『うん。「コーポ和」で起きた「何か」は、あの通り魔事件『だけ』だ、という前提だ』 「…え?」
ぞわり、と。首筋に冷たいものが走りました。
『もし、あの「五年前」に、通り魔事件とは『別』の…アパート内部の人間が関わる『血生臭い事件』が起きていたとしたら?』
私は、あの「コーポ和」の、塵一つない清潔すぎる廊下と、感情の読めない管理人の冷たい目を思い出していました。
「アパート内部での、別の事件…」 『例えば、だけど。例の通り魔事件が起きた。警察の目や、世間の関心が、その「外部の事件」に向いている。…それに便乗して、アパート内で誰かが殺されたとしたら。そして、その血痕を消すために、あの洗剤が必要だったとしたら』 「……!」 『そして、その犯行現場、あるいは死体を隠した場所が、204C号室、いや204号室からだけ見えるとしたら…』
だとしたら、全てが繋がります。 パズルのピースが、カチリ、カチリと音を立てて嵌っていくような、恐ろしい納得感がありました。
204号室の住人は、見てしまった。通り魔事件の証拠ではなく、このアパート内部で行われた、別の殺人事件の証拠を。 だから、脅されて(あるいは、あの「和」の圧力によって自主的に)引っ越す。 住人たちは、その「秘密」を守るために、「和」の名の下に異常な規則で結束し、外部の目を遮断している。あの規則は、すべて「隠蔽」のため。
「…柿本さん。それ、あまりにも飛躍しすぎじゃありませんか。何の証拠も…」 『かもしれない。でも、あの洗剤の用途は、それくらい「ヤバい」ものなんだよ。単なる通り魔の返り血を隠すためだけにしては、大袈裟すぎる。オーバースペックなんだ。動機と手段が、釣り合っていない』
私は、もう一度、あの「コーポ和」に行く必要がある、と感じました。 今度は、ただの「住環境について調べているライター」としてではありません。 このアパートに隠された、血の匂いがする「秘密」に、もっと踏み込む覚悟で。
「柿本さん。ありがとうございます。…私、もう一度、あのコーポ和の住人たちに、直接話を聞いてみようと思います」 『…おいおい、大丈夫かよ。もし本当に殺人事件が絡んでるんだとしたら、紀淡くん、あんた、消されるぞ。次の『特殊アルカリ性洗剤』の出番は、君のシミを消すためかもしれない』 「大丈夫ですよ。私はただのブロガーです。いざとなったら、清水さんの時のように『寝坊してすみません』って言って逃げますから。それに、まだ仮説の段階です」 『…まあ、無理はしないことだね。何かあったら、すぐに警察に駆け込むんだよ。僕じゃなくて、警察にね。僕に電話しても、ゲームの攻略法しか教えられないから』
柿本さんは、いつもの軽口とは違う、本気で心配するトーンでそう言ってくれました。
翌日。私は再び「コーポ和」の前に立っていました。 時刻は、平日の午後二時。主婦や、在宅で仕事をしている人がいそうな時間帯です。 空はどんよりと曇り、アパートの薄ベージュ色の外壁が、いつもよりさらに無機質に、冷たく見えました。 エントランスに掲げられた、あの額入りの「入居のしおり」。そのびっしりと並んだ明朝体の文字が、まるで墓標に刻まれた戒律のように見えてきます。
まずは、例の204号室。 二階に上がり、角部屋のドアの前に立ちます。ドアホンを押してみますが、やはり応答はありません。柿本さんの情報では、八人目の入居者も、すでにごく最近、退去した後だということでした。今は空室のはずです。 この部屋のドアだけが、他の部屋のドアと比べて、心なしか色褪せているように見えるのは、気のせいでしょうか。
私は、隣の203号室のドアホンを押しました。 数回のコールの後、「…はい」という、若い女性の声がしました。チェーンのかかる音も聞こえます。
「こんにちは。私、先日、管理人さんにもご挨拶させていただいた者ですが。近隣のことで少しお話を伺っておりまして…」 ドアが、チェーンをかけたまま、わずかに(5センチほどでしょうか)開きました。隙間から、二十代後半ほどの女性が、警戒した目で私を見ています。化粧気のない、少し疲れたような顔です。
「…なんですか。この前も来ましたよね。うちは、何も」 「いえ、大したことではないんですが。こちらのアパート、とても静かで住みやすそうですね、と管理人さんとお話ししていたんです。ただ、お隣の204号室は、よくお引越しされているようですが…何かご存知ですか?」
その瞬間、女性の目の警戒心が、「苛立ち」と、そして「恐怖」に近いものに変わりました。
「…さあ。存じません」 「そうですか。例えば、音がうるさいとか、何か…」 「別に。普通ですよ。隣のことは、知りません」 女性は、ドアの隙間から、私の背後、つまり共用廊下の奥を一瞬だけ、素早く見ました。まるで、誰か(管理人でしょうか)が聞いていないか、確認するように。
「私、忙しいので」
女性は、それだけ言うと、ピシャリとドアを閉めてしまいました。 予想通りの反応、とはいえ、あからさまな拒絶でした。彼女は、明らかに「204号室」という言葉をタブー視しています。
次に、その下の階、103号室を訪ねてみました。 出てきたのは、人の良さそうな、四十代くらいの主婦でした。小奇麗なエプロンをつけています。
「こんにちは。少しだけ、よろしいですか?」 「あら、はい。なんでしょう?」 203号室の女性とは違い、この主婦はにこやかに応対してくれます。ドアチェーンも外して、ドアを半分ほど開けてくれました。
「こちらのアパート、規則がしっかりしていて、管理が行き届いていると伺いました。住み心地はいかがですか?」 「ええ、本当に! 管理人さんには感謝してるんですよ。おかげさまで、夜も静かですし、共用部もいつもピカピカで。前に住んでたアパートがひどかったものですから。ここは天国みたいですわ」 「天国、ですか」 「ええ。本当に、管理人さんや、他の住人の皆さんが、ちゃんと『和』を大切にしてくださる方ばかりで。安心して暮らせますわ」 彼女の口から、アパートの名前でもある「和」という言葉が、ごく自然に出てきました。
「それは良かったですね。ただ、二階の204号室は、入居者がすぐに変わってしまうと聞いたのですが…何か理由があるんでしょうか」
私の言葉に、主婦の顔から、すっと笑顔が消えました。 そして、一瞬、視線を泳がせ、品定めするような目で私を上下に見た後、作り直したような、ぎこちない笑顔で答えました。
「さあ…? たまたまじゃありませんこと? 二階のことは、よく存じ上げませんし…。皆さん、それぞれご事情がおありなんでしょう。ねえ?」 その口調は、先ほどの203号室の女性とは違う種類の、もっとねっとりとした「それ以上聞くな」という拒絶を含んでいました。
しかし、私は食い下がってみることにしました。この「天国」の住人は、何を知っているのか。
「実は、五年前、この近くで通り魔事件があったかと思うんですが。あの時、アパートの皆さんも、警察の聴取などで大変だったんじゃないですか?」
主婦の顔が、今度は明らかに強張りました。笑顔が、まるで石膏のように固まります。
「…ええ。まあ、そうでしたけど。物騒でしたわね。でも、幸い犯人は捕まりましたし、もう昔のことですわ」 「え?」
私は耳を疑いました。 「犯人は捕まった?」 柿本さんの情報では、あの事件は未解決のはずです。
「あ…」主婦は、しまった、という顔をしました。血の気が引いたように、唇が白くなります。「い、いえ、ごめんなさい。私、勘違いしてました。そう、捕まってませんでしたわね。怖い、怖い。最近、物忘れがひどくて…。そうそう、捕まってないんでしたわ」 「……」 「と、とにかく! 昔のことですし、私どもには関係のないことですから! ね? アパートは関係ないんですから! それじゃあ、私、夕飯の支度がありますので、これで…」
主婦は、慌てたように、ほとんど私を突き飛ばすような勢いでドアを閉めました。 今のは、何だったのでしょうか。 単なる「勘違い」? それにしては、あまりにも動揺していました。
まるで、「犯人は捕まったことになっている」あるいは「捕まったことにしておきたい」とでも言いたげな…。彼女の中では、何らかの「事件」の「犯人」は、すでに「捕まって」処理が済んでいる。そういうニュアンスでした。
最後に、私はもう一人、話を聞いてみることにしました。 以前、現地調査に来た時、管理人室の前ですれ違った老人です。おそらく、このアパートに古くから住んでいる人だと思われました。確か、201号室の表札だったはずです。
二階建てアパート、全八室。101、102、103、管理人室。201、202、203、204。 103号室の主婦の次は、201号室の老人を訪ねます。
201号室のドアホンを押すと、ゆっくりとした足音と共に、「はあい」としわがれた声がしました。 出てきたのは、八十代は超えていそうな、腰の曲がったお爺さんでした。
「こんにちは。度々すみません。少しだけ、お話を伺ってもよろしいですか」 「おお、なんじゃな。わしでよければ」
お爺さんは、先ほどの二人とは違い、警戒する様子もなく私を招き入れようとします。「まあ、上がりなされ。お茶でも」と。
「いえ、玄関先で結構ですから。こちらに長くお住まいなんですか?」 「おお。もう、ここができた時からじゃから…二十年、いや、もっとかなあ。女房に先立たれてからは、ずっとここがわしの終の住処じゃ」
この人なら、何か知っているかもしれません。
「二十年以上ですか。では、五年前の、あの通り魔事件のことも…」 「ああ、あったあった。物騒なことじゃった。お巡りさんがぎょうさん来てのう。わしらも、色々聞かれたわい。気味が悪かった」 「その時、何か変わったことはありませんでしたか? 例えば、住人の方の様子が、いつもと違うとか」 「さあなあ。皆、怖がっとっただけじゃよ。…ああ、でも」
お爺さんは、何かを思い出すように、シミの浮いた天井を見上げました。
「あの事件があってから、しばらくしてじゃ。あそこの…204号室の若いのが、急に出ていったんじゃ」 「204号室の…」 「そうじゃ。あの頃、204号室には、なんともまあ、態度の悪い若い男が住んどってのう」
お爺さんの顔が、露骨に歪みました。穏やかだった表情が、まるで汚物でも見るかのように。
「夜中にドンチャン騒ぎはするし、音楽はガンガン鳴らすし、ゴミは滅茶苦茶に出すし、袋は破れて汁が垂れとるし、共用廊下でタバコは吸うて吸殻は植え込みに捨てるし…。管理人さんが何度も何度も、それはもう、丁寧に注意しとったんじゃが、逆ギレするばかりで、『うるせえジジイ』だの『家賃払ってんだから勝手だろ』だの、手がつけられんかった。皆、本当に困っとったんじゃ」 「迷惑な住人、がいたんですね」 「迷惑なんてもんじゃない。あれは『害悪』じゃった。アパート全体の『和』を乱す、疫病神じゃ。わしらも、いつか追い出してやろうと、皆で話し合っとったくらいじゃ」
私は、柿本さんの仮説を思い出していました。 『通り魔事件とは別の、アパート内部の事件』 そして、103号室の主婦の言葉。 『犯人は捕まりましたし』
「その、迷惑な住人…。通り魔事件の後、急に出て行った、と?」 「そうじゃ。『これでやっと静かになるわい』『天罰が下ったんじゃ』と皆で喜んだもんじゃ。…いや、まてよ」
お爺さんは、再び考え込みました。
「…そうか。あの男が出ていったのは、通り魔事件の『直後』じゃったが…。そういえば、あの男、出ていく時の挨拶もなにも、ありゃせんかったな。引越しのトラックも見ておらん。まるで、夜逃げでもするように、荷物が全部無くなっとった」 「夜逃げ…」 「そして、その後じゃ。管理人さんが、あの、今の厳しい規則を作ったのは。もう二度と、あんな『害悪』を住まわせんためじゃ、言うてな。あんなのが二度と入り込まんように、皆で目を光らせて、皆でアパートを守るんじゃ、と」 「……」 「わしらも、そりゃあもう、大賛成じゃった。あの地獄のような騒音と悪臭から解放されて、平穏が戻ってくるなら、規則なんぞ、いくら厳しくても構わん、とな」
お爺さんは、心の底から、しみじみと頷きました。
「今じゃ、本当に静かなもんじゃ。皆、規則を守って、お互いに気を遣いあって…。管理人さんには、感謝しかないわい。あの人は、わしらの『平穏』を守ってくれた、大恩人じゃ」
私は、お爺さんにかすれた声でお礼を言い、アパートを後にしました。 階段を降りる足が、鉛のように重くなっていました。 背中に、生ぬるい汗が伝うのを感じました。
住人たちの異常なまでの「規則の肯定」。 103号室の主婦の「犯人は捕まった」という、不可解な失言。 そして、201号室の老人が語った、「害悪」だった204号室の元住人。 その男は、通り魔事件の直後に、「夜逃げ」のように消えた。
そして、その直後から、あの異常な規則が施行された。 「害悪」を二度と入れないために。 そして、手に入れた「平穏」に、住人たちは「感謝」している。
私は、アパートの角を曲がり、駅へ向かう道を歩きながら、震える手で柿本さんに電話をかけました。
「柿本さん…分かりました。たぶん、全部」 『…どうしたんだよ、紀淡くん。そんな、幽霊でも見たみたいな声出して』 「住人たちは、通り魔事件を隠蔽してるんじゃない。…彼らが隠しているのは、もっと別のことです。彼ら自身のことです」
私は、住人たちから聞いた話を、途切れ途切れに、柿本さんに伝えました。して、残った住人たちは、今の「平穏」に「感謝」している…か』
柿本さんの声が、かつてないほど、冷たく響きました。
『紀淡くん。その話が本当なら、あの「特殊アルカリ性洗剤」の使い道も、一つしか考えられない』 「……」 『通り魔事件の犯人が残した血痕じゃない。住人たちが…あの「迷惑な住人」を殺害した時に流れた血痕を消すためだとしたら?』
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